大阪女と幽霊ミカン

一矢射的

奥様はゴンタちゃん



 夕暮れの空にはいつしか鰯雲いわしぐもが漂い、めっきり冷え込んできた今日この頃。


 コートのポケットに手を差し家路を急いでいると、頭に浮かんでくるのは充分に温められたコタツとフルーツバスケットに入った温州うんしゅうみかんのイメージだ。


 日本酒の熱燗あっかんやオデンも悪くはないが、寒い季節と言えばやはり温州みかん。


 コタツの赤外線でぬくぬくしながら、甘酸っぱいひと房を頬張った時の食感ときたら。冬場の醍醐味をひとつ上げるとすれば、やはりこれだろう。


 何でもかんでも値上げする昨今において、この程度の幸せですら贅沢に感じられるのだからまったく世知辛いものだ。給料は上がらないのに、仕事量と物価ばかりが増えていくこの閉塞感よ。いやいや、愚痴るな。

 こちとら幸せいっぱい新婚さん。それも出来立てホヤホヤの三週間目。

 子育て、教育費、いつかは新居の購入も夢見て……将来を見据え頑張らなければならない事柄は沢山あるのだから。僕だっていつまでも独身貴族ではあるまい。

 甘い誘惑断ち切って貯金を積み立てていかねば。


 ああ、そうは言っても……みかんが食べたいなぁ。

 八百屋の店頭に並べられた誘惑の果実を横目で見ながら家路を急ぐ。

 マイホームは遠い夢。今の僕らが暮らす愛の巣は高層マンションの一角だ。


 幸せになると誓いあった「愛する妻」よ、ただいま。

 彼女も仕事を終えて帰宅した所だろうか?

 台所からは子気味良い包丁の音が聞こえる。


 疲れているのはお互い様なのだから、僕も手伝わないとなぁ。

 そう思いながらも目線は居間のコタツへと向いてしまう。


 すると……そこにあるじゃないか!

 みかんカゴの上に鎮座するは、オレンジ色の柑橘類かんきつるい

 ええええ? どうして? 今朝は確かになかったのに?


 これが以心伝心、阿吽あうんの呼吸って奴? 妻よ、ありがとう! すると感動する僕の気配を感じたのか、彼女が台所より顔をのぞかせたではないか。



「あっ、おかえり、達ちゃん。今日もお疲れさんやで。いま腕によりをかけて美味しいモンをぎょうさん作ってるさかい。まぁ焦らんと、コタツにでも入ってゆっくりしてぇーな」

「ただいま~。それじゃお言葉に甘えて少しだけ……丁度ミカン食べたかったんだ」



 僕を出迎えたのは東京のど真ん中では珍しい関西弁。

 天然パーマのポニーテールとパッチリお目目が彼女のトレードマーク。

 八重歯もまぶしいチャキチャキの関西娘が、我が愛妻・奈々子なのだ。


 申し遅れました。

 僕の名前は小杉達也。


 どこにでも居る新婚夫婦ですが、男女そろって食べ物にうるさい所は少し変わっているかもしれない。まだまだ贅沢できる身分ではないけれど、手間さえ惜しまなければ工夫次第で美味しい物は食べられる。まず第一に食卓の充実なくして明るい家庭は築けない。それが僕たちの人生論であります。


 固く締めたネクタイをようやくほどき、労働で疲れた夜だから……。

 だからこそ、スイーツなミカンを食べて笑顔になることが必要なのさ!



「んー、甘い! まだミカンには早い時期かと思ったけど、イケるねぇ」

「せやろ? 今年はどこも豊作みたい」

「ミカン汁が喉にしみるなぁ。スーパーで買ったの? 高かったでしょう?」

「んー、それがな、タダやった」

「へぇ? すると ご近所さんにもらったとか?」

「今日び、そんな気前の良い奴おるかい。庭になってるのをとってきたんや」

「ええっ!? とってきた?」



 ああ、世の中タダほど高い物はない。

 どんなもんだと自慢げに笑う妻を、僕は諭してやらねばならなかった。

 我が家に子どもはまだ居ないけど。子どもみたいな大人なら居るんだよな。



「盗ってきたの? 許可もなく? マズイよ、それ、窃盗じゃん」

「真面目やなぁ。大丈夫やって、絶対に文句を言われんウチやから!」

「なんてことを言うの」

「そのミカン、気に入ったんやったら、追加でとりにいくか。絶好の採取スポットがあるから達ちゃんにも紹介したるわ~。いこいこ」

「駄目だって! それに夕飯の準備は!?」

「ご近所さんやから! すぐやわ」



 発想と言動がやんちゃ過ぎるでしょ! 君ィ!

 ああ、でもこれは妻の不祥事を旦那が謝らないといけない奴か!?

 奈々子に手を引かれるようにして、僕らは夜の住宅街にくりだすのだった。



 そして辿り着いたのは一軒の邸宅。

 現場に着くと、奈々子の言わんとすることがどうやら判ってきた。

 それはどう見ても廃屋だったから。


 庭の草木は生い茂り、窓は板で塞がれ、屋敷の壁は一面ツタに覆われていた。

 ポストからは郵便物があふれ、人の住む気配は皆無。

 そして敷地の角からひょっこり表通りに顔をのぞかせているのは、みずみずしいミカンをたたえた羽振りのよい枝である。紅葉の季節にも関わらず、常緑樹のミカンは色あせぬ葉をたっぷりと残していた。ミカンの木はおおむね低木というイメージだが、敷地の中と外でそこそこの高低差があり、表通りからだと果実の枝は手を伸ばしても届かないほど高い。あたかも酸っぱいブドウ状態だ。


 あれは確かにミカンの木だが、どうも果樹園って感じではないよな。

 実益をかねた観賞用に一本だけ庭に植えてみましたって印象だ。


 頭上のミカンを眺めながら奈々子がおもむろに口を開く。



「この屋敷な、職場のおばちゃん達に幽霊屋敷よばれてるねん。昔は年寄りの夫婦が住んでいたそうなんだけど、気の毒に二人とも亡くなってしもうて、今はもう住む人も居ないとか何とか。そういう話でな」

「へぇ」

「そんでな、三宅さんトコの『ごんたくれいたずらっ子』がよくここからミカンを採ってくるって話やんけ。そんな噂を聞いとったら、なんだかウチも欲しくなってきたんよ」

「ヤンチャをした事のない者だけが、ごんたくれに石を投げなさい」



 まったく、我が家のゴンタちゃんにも困ったものだ。



「別にええやん。どう見ても敷地の外にはみ出ているやんけ。ここは天下の公道。枝がはみ出しているんやから採られても文句は言えんとちゃうの? 不法侵入しているわけじゃあるまいし」



 そりゃそうだけどさぁ。どうしてだろう?

 偏見かもしれないが、関西の人ってこの手の理屈が大好きだよなぁ。

 ちょっぴり現金というかなんというか。

 それとも大人なら、皆がそうあるべきなのだろうか?

 ミカンが豊作で、思わず二度見するほど実っているのは事実だけど。



「そんな顔せんといてや。せっかく実ったミカンが誰にも食べられず道路に落ちて潰れるだけなんて。そんなの寂しすぎるやんけ」

「それはまぁ、その通りだけど」

「もしこの屋敷に幽霊が出るとしたらそれはきっと『もったいないオバケ』や。美味しい果実を無駄にしないことが屋敷の人にとっても一番の供養になるんとちゃう? 知らんけど」

「うーん……」

「そういうワケで、肩車や! ここな、自転車を脚立がわりにしないとミカンの枝に手が届かんのよ。徒歩で来た以上は、それしかミカンゲットの手段はないでぇ」



 結局、押し切られる形で僕が肩車の土台をすることに。

 良いのか? こんな場面を人に見られたらちょっと……。


 そしてその心配は見事に的中する事となる。

 よりによって、奈々子が頭上のミカンに手を伸ばしたその瞬間……車のヘッドライトが夜のトバリを切り裂き、肩車をした僕たちの醜態を照らし出す。

 そしてその直後、あきれ切った声が僕たちにかけられたのだ。



「あの、貴方たち? いったい何をなさっているのですか?」

「はわわ! いやこれは」

「ちょ、達ちゃん。崩れる! ゆっくり、ゆっくり下して!」


「そこは私の実家なので、勝手な真似は謹んで頂けると助かります」



 え? ここって廃屋じゃなかったのか?

 黒塗りのベンツから降りてきたのは、灰色のスーツを着込んだ中年男性。

 白髪まじりの頭はオールバック。

 顔には深いシワが刻まれ、メガネの奥からは鋭い眼光が放たれている。


 五十嵐文彦。それが現れた男の名前だった。

 何でもこの方は洋館に住んでいた老夫婦の一人息子。更には、かの有名な「紀伊国屋文左衛門」の子孫だという。それってミカンを紀伊国(和歌山)から江戸に運ぶことで大儲けしたという伝説の商人だよね? その年、大嵐のせいで江戸にミカンがロクに届かず大層な高値が付いたとか。



「お分かりですかな? ウチの一族にとってミカンは特別な意味を持つ神聖な木。あまり軽々しく扱って欲しくないのです」

「は、はい! すいませんでした!」

「なんやねん、それ。このミカンは温州ミカンの木やろ。紀伊国屋が運んだのは紀州ミカン。別モンやんけ。紀州ミカンなら、もっと小さくて酸っぱいはずや」



 盗人猛々しいとはまさにこのこと。しかし、五十嵐さんは腹を立てる気配すら見せない。むしろ感心した風ですらある。



「おやおや、お嬢さん随分と詳しいですね?」

「当たり前だのクラッカー! 大阪でもミカン作りは盛んやからな。昔は全国で二位の生産量を誇ったもんやで。ましてや紀伊国屋は同じ関西出身の名アキンド。そんなモン上方では一般常識やんか!」

「ふーむ、口から出まかせでもないらしい。ご先祖さまに敬意を払うというのなら、宜しい。好きなだけ持っていきなさい」

「ホンマか! おーきに、すんまへんなぁ~。流石は豪商の末裔や、気前いいわ」



 この変わり身の早さよ。東京モンにはついていけない超高速展開だ。

 しかし、奈々子と談笑していた五十嵐さんは突然なにかを思い出したかのように失笑し、ミカンの木を見上げながらこう続けたのだ。



「どうせ……もうすぐ この屋敷ごとなくなってしまう木ですから」



 聞けば、この屋敷は遠からず土地ごと売り払ってしまう予定だという。



「今から人が住むには余りにも古すぎますから」

「立派な館に見えますけど」

「何でも昭和初期にある建築家が建てたという和洋折衷の館。一族の歴史はあるし、個人的な思い入れもある。生まれ育った我が家なのですから当然でしょう」

「そんなら、どないして……壊すの?」

「税金ですよ。固定資産税が馬鹿にならない金額でしてね。円安のアオリを受けて事業が苦しい最中、それをいつまでも払い続ける余裕など私にはないのです」



 金持ちには金持ちの悩み事があるということか。

 空き家だと税金が六倍高くなるという話は聞いたことがある。



「せ、せやけど、本当は売りたくないんやろ? 思い出が詰まっとるんやろ?」

「国と時代がそれを許してくれないのですよ。個人の感傷なんぞ一円の価値もありません。義理と人情なんて、そんな物はこの日本からトウの昔に消え去りました。紀伊国屋の頃とは違う」



 商売人らしいドライな言葉。されど言葉とは裏腹に、表情には哀愁と苦悩がにじみ出ているような気がしてならなかった。

 僕らが口ごもっていると、五十嵐さんは小さく会釈して背を向けた。



「今日は、取り壊す前に屋敷を見ておこうかと思ったのですが。私としたことが、電気が止まっているのをすっかり忘れていましたね。明日、明るくなってからまた出直すことにしますよ」

「あの、この洋館を建てた建築家というのは? いったいどなたです?」

「変な事に興味を持ちますね? 亡くなった親父の話によると……誰だったかな。昔のボクシング漫画で主人公のトレーナーをやっていそうな名前で……たしか」

「いえ、良いんです。引き留めてすいませんでした」

「それでは、ごきげんよう」


 ベンツは走り去っていった。

 せっかくミカンを採る許可を頂いたけれど、あんな話を聞いた後だと何だかもう一度肩車をする気にもなれず、僕たちはそのまま帰路についた。



「実家がなくなる。そんなん深く考えた事もなかったな、どんな気がするんやろ?」

「そりゃ……寂しいと思うよ。大切な思い出がなくなってしまうんだから」



 以前、奈々子の実家へご挨拶にうかがった時、柱に刻まれた「せいくらべ」の跡を見つけて大騒ぎになったっけ。フスマの穴は喧嘩の時に出来た物だと言っていたな。



「僕らにとっても他人事じゃないよね」

「ミカンのお礼に何かしてあげたいんやけど」

「とりあえず、夕飯を済ませてから考えない? もうお腹がペコペコで」

「ホンマや。あー、なんや、アレや。ご飯の支度を途中で止めたら面倒くさくなってしもうたなぁ」

「手伝うからさ、一緒にやろうよ」

「うん、ありがとな、達ちゃん」



 両の掌を合わせて、奈々子はペロリと舌を出してみせる。

 どうもまだまだ夫婦になり切れて無い感じだな、僕たちは。


 作りかけの夕飯はミートローフとミネステローネ。

 豚のひき肉と炒めた刻み玉ねぎをボウルで混ぜ、つなぎとして鶏卵を加える。それから塩こしょうで味付けをしたらパウンドケーキみたいに形を整えて、小麦粉をまぶす。あとはじっくり二十分ほど蒸せばミートローフの完成。

 オーブンで焼く方法もあるけど、僕は焦げない蒸しミートローフ派。


 ミネステローネはトマト味の野菜たっぷりスープ。

 僕が刻んだ野菜を鍋でコトコト煮ていると、それを見ていた奈々子が何かを思いついたようにパンと両手を打ち鳴らした。



「せや! ジャム作ったらええんとちゃう? お礼にミカンジャム」

「あっ、それはいいアイディアかもね」

「せやろ? 皮まで無駄にせんと美味しく食べられるやん。五十嵐さんに最適」



 ミカンを皮ごとジャムにする際は、ヘタ周辺が食べられないのでそこを忘れずに切り落とす。あとはボウルで砂糖と短冊切りに刻んだミカン(三個ぐらい)レモン汁を混ぜ合わせ、鍋で三十分ほど煮込む。焦げないよう弱火を心がけ、アクが出たら取り除くのを忘れずに。

 冷蔵庫で冷ましてビンに詰めれば手作りミカンジャムの完成!


 明日また屋敷に来ると言ってたから、そこで渡すチャンスがあるかもしれない。

 それと建築家の件、どうも気にかかるんだよなぁ。調べてみようか。



 翌日はあいにく火曜。僕も奈々子も仕事はあるが、早朝から出勤時間ぎりぎりまでねばってみる事にした。


 ただ待つのも退屈なので庭にお邪魔し、ミカンの木周辺を掃除しながら待つ。草取りをして落ち葉を掃き集め、気付けば午前七時を過ぎ……どことなく諦めムードが漂い始めた頃、見覚えのあるベンツが屋敷に入ってきたではないか。五十嵐さんだ!



「おや? 貴方たちは? 昨日の方たちではありませんか」

「勝手にお邪魔してすいません」

「ミカンのお礼に来たんや。もらいっぱなしじゃ寝ざめが悪いやんけ」


「なんと義理堅い人たちだ」

「庭のミカンでジャムを作ってきたでぇ。よければ使ってや」



 瓶詰めのジャムは朝の光を浴び、トパーズのようにきらめいて見える。

 五十嵐さんはそれを感慨深そうに見つめてから呟く。



「なんと懐かしい。むかし母親がよく作ってくれたものでした」

「せやろ? せやろ?」

「ありがとう。最高の贈り物ですよ。この木を植えた時の話を思い出しました。子どもが食べるなら紀伊ミカンより温州ミカンの方が良いだろうって。母のお腹に私が居る時、頑固者の父がそう言って周囲を驚かせたのだとか」

「泣けるやん。それとな、昨日話していた『この屋敷をデザインした建築家』の話なんやけど……」

「もしかして、丹下健三さんだったりします? ボクシング漫画のトレーナーといえばタンゲですよね?(作者注:『あしたのジョー』という漫画に登場する丹下段平のこと)」


「おお、確かにそんな名前でしたね、父が語っていたのは。よく分かりましたねぇ」

「世界的に有名な建築家で、広島平和記念資料館や、東京都庁をデザインした方なんです」

「しかも、大阪出身やからな!」



 首を傾げる五十嵐さんに僕は続ける。



「もしも、この屋敷が戦前に無名時代の丹下先生がデザインしたものならば、文化的にとても価値が高いと言えるでしょう。申請すれば、もしかすると文化遺産に認定されるかも」

「おやおや? ということは?」

「固定資産税が免除になる。それどころか国の補助金が出るかもしれません」

「なるほど、なるほど。私も実家を壊さずにすんでウィンウィンというワケですが」



 気のせいかもしれないが、五十嵐さんはあまり嬉しそうではない。

 ジャムを受け取った時に比べて神妙な顔つきだ。



「わざわざ調べて下さって心より御礼申し上げます。ですがねぇ……」

「ご迷惑でしたか……?」

「まず真偽を証明する書類がない。この辺りは東京大空襲で一度焼け野原となっているので、その際に失われたようですね。建物もオリジナルではなく戦後に建て直したものです。言わばレプリカ」

「そ、そうなんですか」

「そもそも親父が酒を飲みながら口にした話ですから。本当かどうか」

「それは……アカンかもしれんなぁ」

「そして、これが一番肝心なことですが。実家を失うのは何も私だけではありません。似たような事例は日本中いたる所で起きているのです」

「うっ……」

「お二方の心遣いは大変ありがたい。ですが、私一人を救った所で今更どうなるという話ではありません。特例がどうのではなく、これは日本人全員の問題なのです」



 言われてみればもっともな話だ。

 僕たちの考え方が短絡的すぎたのだろうか?

 そこで一呼吸おくと、五十嵐さんは更に続けた。



「けれど考えて欲しいのです。家が壊れるということは必ずしも悲劇ではない」

「え?」

「だってそうでしょう? 壊された跡地にはまた新しい家を建てることが出来る。貴方たちのような若い人たちにとって、そこまで悪い話ではないはず。これからは、そう、貴方がたの時代ですよ」

「そりゃ、そうかもしれんけど。オッチャンはそれでええんか?」

「義理人情の欠けた時代。そう今を嘆くよりも、自分でまずそれを実行すべきでした。思いやりとはそういうもの。実の所、この屋敷の買い手はもう決まっているのです。知人の息子がこの春に結婚しましてね。若夫婦に記念の家を建ててやりたいと」

「新しい家が建つんですね……ここに」

「そこで今朝、図々しくも一つだけ約束してもらいました。そこのミカンだけは残してもらえないかと。そのミカンはこれからも新しい住人を見守り続けるのです。それはそれで素晴らしい事ではありませんか?」

「オォー、おっちゃん……なんかカッコいいやんけ」



 僕たちはずっとミカンも貰えるし? 

 奈々子ちゃんは内心そう考えていそうだけど。

 ちゃんと新しい住人から許可を貰えたら……ね!



「しかし、このジャムはありがたく頂戴しますよ」

「喜んでもらえたんなら、こっちも嬉しいわ」

「それじゃ、僕たちは出勤の時間なので。そろそろ失礼します」


「色々と気遣いをありがとう。感謝しますよ」

「いえ、こちらこそ。人生の指針となる姿を目にした思いです」

「ウチ等も……これからはきばっていくからな」



 五十嵐さんは手を振りながら僕たちを見送ってくれた。

 ごくごく短い会話だったけど、あの人からは沢山の事を教わった気がする。

 帰り道でも僕らの話題は自然と五十嵐さんのことになった。



「良い人やったな」

「うん、思いやりがこの国に欠けていると思えるなら、まず自分がそれを実行すべきか……その通りだよなぁ」

「人のフリ見て、我がフリ直せ言うもんな。その逆もまたしかりや」

「誰かのお手本になるような大人に……僕たちもなれると良いね」

「そやけど、実家がなくなるのってやっぱ辛いよな?」

「仕方ない事なのかもしれないけど。辛い出来事はきっとあるんだろうな、これから先、僕たちの身にも」

「なに言うてんねん! なんの為にウチが居ると思ってるんや。辛いときはウチの豊満な胸を貸したるで」

「は、ははは、ありがとうございます」

「だからな……達ちゃん。ウチが辛い思いをした時は、ちゃんと慰めてな」

「……当たり前だろ! 夫婦なんだから」



 果物泥棒なんてどんな酷い説教をされるかと思ったら。

 待っていたのは素敵な教訓だったというオチ。

 長い人生、たまにはこんな事があっても良い……よね?



 そう都合よく考えていたら、また別の日のこと。

 僕が自宅に帰ってくると居間のコタツに今度は栗の実が載っているじゃないか。



「今夜は栗ご飯やで~。ほっこりするし、温まる! 最高や」

「それは良いんだけど。この栗の実、イガイガがついたままだね」

「そりゃそうや。スーパーで買ったわけじゃないからな!」

「もしかして、また?」

「近所の神社で栗の木が生えているところがあってなぁ~」



 おいおい、ゴンタちゃん。

 まさに神をも恐れぬ暴挙。

 その日の晩、僕たちがその神社にお賽銭を入れに行った事は言うまでもない。

 誰かのお手本になるんとちゃうんかい!


 それでも栗ご飯はとっても美味しかったので、まぁ……いいかな?

 旬の食材で乾杯。


 栗の実はお湯で煮て、鬼皮と渋皮の二重の皮を柔らかくしてから一つ一つ包丁でむいていく。ミカンの苗だって一朝一夕で実をつけるものではない。美味しさを楽しめるのは苦労を超えた先。それは多分、結婚生活や人生に似ているのだと思う。


 まだまだ人生とは美味しく豊かなものだ。

 そこに手間さえ惜しまなければ。







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