探し物の居場所 本当の居場所

 イルミネーションの下で舞う能は、本当に不思議なものだった。

 能を演じる人は男の人のはずだけれど、動きは性別を感じさせない。能面で顔を隠しているからかもしれないけれど。

 九重さんはそれを見ながら、静かに言った。


「……今まで、何故か羽衣という言葉を避けていました」

「そうだったんですか?」

「羽衣を見つけたら、帰らないといけませんから」


 それに私はポカンとした。スマホで調べた『羽衣』のあらましもそうだったような気がする。それに冷静に一さんが尋ねる。


「でも衣子きぬこちゃん、ずいぶんと長いこと現世に留まってたじゃないか。なにかあったのかい?」

「ええ……私、旦那さんと子供ができましたけれど、皆は年を取っていくのに私は年を取らないでしょう? 旦那さんはともかく、とうとう子供には化け物呼ばわりされるようになってしまい、追い出されてしまったんです」


 その言葉に唖然とした。

 そういえば、四月一日さんから聞いた八百比丘尼さんの話でもそんなことを言っていたような。化け物呼ばわりされるようになってしまったから、村にいられなくなったと。

 でも四月一日さんのときと違い、九重さんからは不思議と悲壮感というものは感じられなかった。

 九重さんは、笛の音に混じり、この場でなかったら聞こえないような声で続ける。


「年を取れないというのは悲しかったですけれど、子供を恨む気にもなれませんでした。旦那さんは追い出されずに静かに暮らせればいいとか、子供が健やかに過ごせればいいとか、そんなことばかり考え、ひとりであその真似事をしながら生活し、こっそりと子供たちの様子を見守ることにしました」


 遊び女ってなに。私はちらりと四月一日さんを見ると、短く教えてくれた。


「今で言うところの芸妓というところでしょうか。女性で芸や踊りを見せながら生活していた方々がおられたんです」


 なるほど。そういえば『羽衣』でもラストは舞を踊って締める話だものね。

 既に能はクライマックスに差し掛かり、風もないのにひらりひらりと舞う優美な舞が披露されていた。本当に不思議。性別を超越して、ただ天から来たひとを演じるなんて。

 それにしても。私は首を捻った。


「でも、話を聞いている限り、九重さんのいた場所って、今でいうところの静岡ですよね? ここって兵庫県の神戸ですけど、遠くないですか?」

「はい、松原にいましたけど、子供のひとりが税を納めるために京の都に上洛するというので、そのままついていきました」


 なるほどなあ。それでついていったと。


「子供は気付けば妻を娶って新しく子供をつくり、その子供も嫁入りして子供をつくりと、どんどんと増えていきました。その途中で禍が生じたり、戦があったり、時には家族が生き別れたりと、どんどんとちりぢりばらばらになっていくのを、私はただ眺めていました。手助けできるときは、名前も名乗らず助けたりしましたが、私も何度も化け物呼ばわりされるのは嫌でしたから、それとなく距離を置いていました」


 この辺りは、やっぱり人間の感性のまま不死者になってしまった八百比丘尼さんとは違うなあ。彼女だったら、人間とそこまで関わろうとしなかったと思う。それに彼女の場合はたとえ子孫であっても人間と普通に関わろうとしていたのだから。

 その辺は他の不死者ともどことなく違うような気がする。

 彼女は淡々と話を続ける。


「そうこうしている間に、私も年を取らないことで、なにかと生活に不都合が沸く中、八百比丘尼さんと四月一日さんの営む旅籠でお世話になるようになりました。不死者しかおらず、誰も年を取らなくっても、時間感覚がおかしくっても、とやかく言わない場所というのは、居心地がいいものですね。そこだけにいたら、子供たちと関われないというのを除けば。そして私はずっと見ていました」


 ここまで話を聞いていて、私はひとつ「ん……?」と引っ掛かるものを感じた。

 九重さんの言い方だったら、このまま子孫を見守っていれば、彼女がわざわざ羽衣を取り戻して、帰る必要はないのではないか?

 私はちらっと四月一日さんと一さんを見る。

 四月一日さんはどこか納得しているようなすっきりした顔をしているのに対して、一さんは全く納得がいっていないというような顔をしている。どうして長年一緒にやってきたふたりが、こうも両極端な顔をしているのだろう。

 私はわからないまま、九重さんを見ていたら「そんな中」と彼女は話を続けた。


「子供のひとりが、子供たちからどちらからもいらないと言われているのが見えました。これには困りましたね。私が名乗りを上げて引き取ろうかとも思いましたが、私が名乗りを上げても、今の時代戸籍やらなにやら曖昧にはさせてくれません。難しいかと諦めていたところで、私の子供がその子を引き取ってくれました」


 ……ん?

 私はその話に思わず目を見開いた。

 この話は、四月一日さんにも一さんにもしてない。おばあちゃんが死んだこと以外、誰にも伝えていない。無為さんは知っているかもしれないけど、彼女はお盆が終わったのと同時に仕事に戻ってしまったから、今は神戸から姿が見えない。

 私はまさか……と思いながらも、九重さんを見ていた。


「子供は子供と一緒に楽しく暮らしていましたが、たったひとつ私が気がかりだったのは、その子は人と接するのに諦めがついてしまったことです。だって実の親からも捨てられてしまうんですから、それを他の人が引き取ってくれたからといって、簡単にその心の傷が治るわけでもありません。どこかを追い出されてもしょうがない。どこかから出て行っても仕方がない。彼女がひとりぼっちになってしまわないかと、私は気が気じゃありませんでした」


 まさかまさかまさか……。

 私は彼女をただ、凝視していた。

 思えば、彼女は私と初めて顔を合わせたときに、いきなり私のことを占ったのだ。あれは。

 単純に四月一日さんが人魚だと知っても驚かないようにとか、そんなことなんだと思っていたけれど、違ったんだ。

 あれは、四月一日さんに対するものだったんだ。


「でも、今は人間ではないとはいえ、知り合いが大勢できました。たしかに人間と不死者、生者と死者、なかなかわかり合えるものでもありませんし、互いに生きている時間の感覚も、寿命も、なにもかもが違います。でもそれは、人間同士でも、不死者同士でも同じこと。互いのことなんて、所詮は他人ですもの。十割わかり合えるなんて、それこそ傲慢じゃありませんか。ただ、気に掛ければいい。なにかあったら助けに行けるように。そうじゃないですか……初穂さん」


 九重さんは、私の目をしっかりと見て言った。

 私は彼女の言った言葉に、何度も何度も衝撃を受けていた。

 天涯孤独なんだと思っていた。もう大好きだったおばあちゃんは死んでしまったし、うちの両親もよそに家庭をつくったから、帰る場所はもうここしかないって、そう……思っていたのに。


「……ご先祖様、だったんですか。九重さんが」

「ええ。思い出したら少しだけすっきりしました。自分は年が取れないのと、占いが得意なこと以外取り柄がないと思っていたんですけれど、案外どうにか生きられたみたいですね」


 そう彼女はにこやかに笑った。

 四月一日さんは「それで」と九重さんに聞く。


「ずっと心残りだったのでしょう? 子孫のことが。本当に帰る気ですか?」

「ええ。本当はずっといたいと思ったけれど、この子を見ていたら、それも過保護が過ぎるわねと思いましたから。そう思ったから、私をここに連れてきたんでしょう、四月一日さん?」


 四月一日さんは「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。ただ一さんは納得いっていない顔をしている。


「あのなあ……初穂ちゃんの過去を暴露するこたないだろ。あと初穂ちゃんの心情踏み荒らしてからさよならって、そりゃないんじゃないかい、衣子ちゃんもさ」

「あら、だからお願いしているんですよ、神戸に根ざしているおふたりに」


 すっかりといつもの九重さんに戻り、ころころと鈴のように笑った。


「この子諦め癖がついてしまって、全然助けを求められないんです。ですから、なにかあったときに様子を見に来てくださいな」

「そりゃまあ。ただ、八嶋さんは就職を……」

「あら、それでも。様子を覗き見くらいでしたら、人魚と天狗のおふたりだったら簡単にできるでしょう?」


 そう彼女は笑った。

 彼女の笑顔はイルミネーションに照らされて、ひどく美しい。こんな美人が私のご先祖様だと言われても、未だに納得いかないし、訳がわからないんだけど。

 九重さんは「本当はこういうのはあんまりよくないんだけど」と前置きをしてから、口を開く。


「あなたはこの先、なにがあっても絶対に大丈夫だから。だからあなたは自分の選択に不安を覚えなくってもいいの。なにがあっても、絶対に大丈夫だから」

「わ、わかりました……」

「それじゃあ、そろそろ私は行くわね。羽衣を見つけてこないと駄目だから」

「あっ……! その、肝心の羽衣って、結局どこにあったんでしょうか……?」

「いくら羽衣を奪われて記憶を無くしてたとはいえど、私も駄目ねえ。あんな近くにあったのに全然気付かなかったなんて」

「えっ?」

「生田神社。あそこにあるから、ちょっと取ってくるわね」


 そう軽い調子で言って、「ご機嫌よう」と本当にいつものように歩き去って行くのを、私はポカンとして見ていた。

 四月一日さんはいつも通りだったけれど、一さんは相変わらず苦々しい顔をしている。


「いいのかね、子孫との今生の別れだっていうのに。羽衣をつけたら、現世の記憶を忘れる場合だってあるのに」

「そ、そうなんですか!?」

「いえ、大丈夫でしょう」


 四月一日さんはきっぱりと言った。


「たしかに思い出せないかもしれないですけど。記憶をなくしてもなお、彼女は羽衣を盗んだ亭主を恨むことも、自分を追い出した子供を憎むこともなく、心配だからと八嶋さんや八嶋さんの子孫を見守っていたんです。多分ただの辻占い師として。彼女の持っている感情は記憶を失ったとしても、そう簡単にはなくなりませんよ」

「そう……だといいですね」


 先祖だと名乗り出せないまま、いったいどれだけの子孫を見送って見届けてきたのか、私には途方もない話でわからなかった。

 ただ、私が諦めてしまっていたものを、本当に簡単に私の元に手渡してくれたことに、じんわりと胸が熱くなった。


「ありがとうございます……ご先祖様」


 彼女のいなくなった先に、私は頭を下げた。

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