真夜中の秋の夜長のキッチンの

野村ロマネス子

あはれなりけり ひとすじの跡

 電動ミキサーのぶうんという音が不躾に部屋の空気を揺らしたので、足先に乗せていた頭を持ち上げて大きな欠伸をひとつ漏らした。そのまま両腕を突っ張り、ごろりと身体をひっくり返して背骨を伸ばす。ううん、いま、夜じゃない? どちらかと言えば夜中寄りのはずだった。こんな時間に瑞希ちゃんが起きてて何かしてるってことは、つまりは、何かがあったって事で、それはアタシの安寧を脅かし兼ねない訳だった。

 観念して起き上がるともう一度伸びをする。今度は前脚を伸ばしてぐうんとお尻を持ち上げてする、本格的なやつだ。


「ごめんね、起こしちゃった?」


 振り返って甘い声を出す瑞希ちゃんに、アタシはニャアンと鳴いて応える。大丈夫よ、慣れてるもの。それより今度は何?

 けして広くはないマンションの部屋の中をゆっくり歩いて移動すると、シンクの端にしなやかに飛び乗った。


「あ、こら!」


 にゃあん。もうひとつ鳴いて自慢の尻尾をひと振り。抱えて降そうとしていた瑞希ちゃんの頬をふわりと撫でれば、その手はたちまちアタシの頭を撫で、耳の後ろを可愛らしくくすぐる手になる。

 ねぇ、それとても気持ち良いんだけど、それよりアナタ、また何かあったんじゃない? 夜中にケーキを焼き始める時ってだいたいそう。アタシ知ってるんだから。

 言葉は声に出すとニャアニャアと鳴き声になってしまう。こんな時、単純に不便だなと思う。ヒトの言葉が話せたら、瑞希ちゃんの頬にある涙の跡の理由も聞いてあげられるのに。


 ニャア。


 まさかアナタ、あの男のことでそんなに綺麗な涙を流したなんて言わないわよね。あれはダメよ。わかってたでしょ?


 ニャアン。


 偶に来てた、ほら、だいたいいつもピンク色のフードの付いた服着たあの子。あの子と同じ匂いがしてたのよ。

 夏の花火の日、電車が止まってあの男がここに来られなかったこと、あったでしょ。アタシとふたりでここのベランダから花火を見た、あの夜のことよ。あれを境にあのふたりから同じ匂いがするようになったの、気が付いてなかったの?

 ふたり揃ってここへ来た時なんて、目配せはしょっちゅうだったでしょ。ねぇ、気付いてなかったの? ふたりがテーブルの下でこっそりと手を繋いでいたことにも? 本当に?


「せっかくだから、全部入れちゃうか」


 殊更明るい声で言いながら棚を漁っていた瑞希ちゃんは、小袋に入った使いかけのナッツと、ドライフルーツと、チョコチップと、ココナッツファインの袋を両手に抱えて立ち上がる。それ全部入れる気? まぁ、良いかもね。あの男、甘いもの好きだったもんね。よくもまぁ、あんなにたくさん作ったもんよ。カップケーキにドロップクッキー、フィナンシェ、季節のパイ、タルト、フルーツゼリー。

 袋の口を開けたら秤も使わず真っ逆さまにボウルの中へとぶち撒ける。開けたら次の袋。次の袋。やや乱暴な瑞希ちゃんの手付きは淀みがなくて、こういうのも自棄って言うのかしらねと思う。

 クリーム色の生地にナッツとフルーツとチョコチップとココナッツが重なるように広がった上に小瓶の洋酒を振りかけて、ざくざくとかき混ぜてそのまま型に入れたら、とどめのアーモンドスライスをこれでもかとてんこ盛りにする。

 オーブンの蓋を閉じれば、後は待つだけ。


 ニャアン。


 泣かないでよ、あんな男の為に。アタシが居るじゃない。じきにケーキも焼けるじゃない。そしたらさ、この前言ってたとっておきの茶葉とやらでお茶にしましょうよ。確かに夜は長いけど、寂しいときもあるし、悲しいことも起こるけど、いつでもちゃあんと朝は来るのよ。

 瑞希ちゃんは長いことオーブンの前に立ち尽くしていて、アタシはその背中を見守りながら、ゆらゆら、ゆらゆらと尻尾を揺らし続けていた。

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