第9話

 ワンの言葉に、ナギが眉をひそめた。細長くなったその目の形を見ながら、ふと、ワンは思った。

 ――人の目は、月とは違う。

「……私の故郷では、月は、神の眼だと言われている」

「神の眼?」

「ああ。始まりの女神の眼と、次に生まれた男神の眼だ」

 それはアクツマに生まれたものなら誰でも、生まれると同時に聞かされ続ける創世の物語の一節だ。

「はじめ、天には月が一つだけあった。女神の眼だ。女神は太陽が沈むと眼を開き、地上を見守っていた。人々の暮らしや営みを眺めているうちに、神という存在が自分ひとつであり、孤独だということに気付いた。そこであるとき、女神はもう一つの神を作った。それが二つめの月であり、我々は男神と呼んでいる。それ以降、太陽が沈む度、女神と男神は天で見つめ合っているが……時折、男神の視線の熱さに恥じらった女神が眼を伏せて、月が天に一つだけになる夜がある」

 淀みなく語って聞かせると、無表情に耳を傾けていたナギが、ついに鼻で笑った。

「首長どの、そのように他人の文化伝統を軽んじるような態度は――許されるものではないと思う」

「ああ、どうもすまないな」

 全く罪悪感のなさそうに見える表情で、ナギはそう言うと手を振った。

「それで、その女と男の神とやらが四六時中見つめ合っているのなら、地上の人々はもう神に見放されたということか?」

「ああ、そうだな……。人々に争いが絶えず、災いが続くのは、月が二つになってからだと私の故郷では言われている」

「なるほどね」

 妙に神妙な顔になって、ナギはどこか遠くを見つめ、黙りこくった。

「……やがて、二つの神が結ばれる」

 しばらくの沈黙の後、ワンは続けた。ここから先は、誰も見ていないはずの、未来の物語だ。

 何故、未来の話が伝承されているのか。未来を見てきた人間がいるはずがないのに、おかしいのではないか、と、幼い頃に師に問うたことがある。そのときの師の返答が、ワンには未だに理解しきれていない。

 ――世界のことわりを知る者に、理屈はないのです。

 やや戸惑いがちに再開されたワンの語りに、ナギが再びこちらに注意を向けた。

「二つの神の間には、さらに三つの神が産まれる。そして天に月が五つとなったとき、我々の大地は秩序を取り戻す」

「月が、五つになる?」

 怪訝な顔をして、ナギが聞き返す。ワンが頷いた。

「我々の故郷では、そのように言い伝えられている。どれぐらい先のことかはわからないが……」

 ナギが再び口を閉ざした。

 ワンは急に気まずい気持ちになる。あれだけ自分に敵意を剥き出しにしていたナギが、何故月の話題になった途端、自分の語る言葉に興味を抱き耳を傾けたのだろう。

 二人でいて、会話が成り立つこと自体が不自然な関係だったはずなのに、一度長く語らってしまうと、突然の沈黙が重苦しく感じられる。

「……あなたのその……故郷では」

 これを聞くことで、また彼女の機嫌を損ね、嫌悪される可能性もあったが、ワンはふと湧いた興味もあって、尋ねてみることにした。

「月について、どのように伝承されているのだ。先ほどの様子だと、神の眼、とは言われていないようだが……」

「……故郷、ねえ……」

 心配していたほど、目に見えた激昂はされなかった。

 何か思いを馳せるような小さな呟きと仕草に、何故かワンの胸が疼く。

 ナギは、見た目だけならば、20歳を過ぎた頃か、自分とさほど変わらない年齢に見える。だが、その言動や、この黒い森で男たちを従えている状況を考えると、見た目よりももっと年月を重ねているのかもしれない。

 どのような経緯でこのような生活をしているのか。全く推測ができない。

 ――そもそも故郷という存在はあるのだろうか。

 もしかすると酷な質問をしてしまったのかもしれない。

 ワンがそのように後悔しかけたとき、ナギがゆっくりと振り返った。唇の端がわずかに持ち上がっている。サシャを殺める前のあの不吉な笑みを彷彿とさせて、ワンは一瞬、背筋が震えそうになった。

「南国の素朴な王子どのに、面白いことを教えてあげよう」

 ナギの細められた目にまっすぐに見つめられ、ワンは思わず気圧されそうになった。

「面白い、こと?」

「あの月は、竜の巣穴だ」

 予想もしていなかった言葉に、ワンは目を丸くした。

 月に関して、地域によって様々な伝承があることは知っている。いくつかを聞きかじったことがあったが、ナギの語るそれは初耳だった。

「それが……あなたの故郷で伝わる話なのか?」

「いいや、これはただのだ」

「それはどういう――」

「世界のことわりを知る者に、他者からの伝聞も、辻褄を合わせるための理屈も、必要ない」

 かつての師の語った、それに近しい言葉が脳裏に蘇り、ワンは頭を撃たれたように動揺する。

「私が幼い頃、まだ月は天に一つだった」

 ナギは何が面白いのか、更に笑みを深くして、話を続けた。

 笑ってはいるが、からかっているようにも見えない。それがまた、ワンには何故だか空恐ろしい。

 月がかつては一つだったというのは、大陸のあちらこちらで伝わっていることから、真実なのだろうと言われている。

 だがそれは、気が遠くなるほど昔の話であるはずだ。

 少なくとも今、この地で生きている人間は皆、月が二つある空しか見たことがないはずなのだ。

 ナギが本当に、一つの月しかない空を知っているのなら、この女は信じられないぐらい遠い過去に産まれたことになる。

「遠い昔、竜が天に穴を掘り、卵を産み、孵化させ、それが巣立った後、打ち捨てた。それが一つ目の月だ。その後、別の竜がまた新しい巣穴を掘り、卵を産み、その穴を守っていた」

「……その巣穴からも子が巣立ち、二つ目の月になったということか?」

 ワンの問いに、ナギは急に、こらえきれなくなったかのように、甲高い声で笑い出した。

「首長どの?」

「いいや、そうではない――そうではない」

 そう答えながら、なおもナギは笑い続ける。狂ったような仕草に、ワンは恐れながらも、同時に、理由のわからない哀しさを感じ取った。

「卵が孵る前に、竜は死んでしまった。あの二つ目の巣穴の中には、死んだ卵がまだ残っているのだ」

「二つ目の竜は――何故死んだのだ」

 急に、ナギがワンに顔を寄せてきた。色素の薄い茶の目が、まるでこちらの身体の奥底まで見抜こうとするかのように覗いてくる。

 囁くように、ナギは言った。

「私が、天から引きずり下ろして殺したからだ」

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