世界の境界

雨希

世界の境界

 高校を中退するかどうかの瀬戸際に立たされて、私は毎日ギリギリの精神状態で学校に通っていた。泣き言を言える相手はおらず、仲良かったはずの友だちには完全に無視され、絶対に落ちることのできない大学受験は一年後に迫り、親の期待を裏切るわけにはゆかない。

 中退したら、別の高校を受け直して一年生からやり直さなければならない。これまでの二年間が無駄になる上に、社会には出遅れ、制服代や学費など経済的な負担を親にかけることになる。

 もうこの学校に一秒だっていたくない。でも、お金と時間と社会的な体面と自分のプライドを天秤にかけると、どうしたって逃げるわけにはゆかなかった。そもそも、逃げることで楽になれる保証もないのだ。

 だから、毎日、登校していた。朝七時の電車に乗り、きっちりと授業を受け、放課後は塾に通っていた。

 その日も、塾で遅くまで自習をし、終電に乗った。席は空いており、窓際に座ることができた。

 目をつむる。疲れた体には、おんぼろ車両の椅子は固すぎた。それでも、だんだんとまぶたが重くなってくる。

 ふと気が付くと、窓の外にはタールのような海と、その向こうに浮かぶ宝石箱のような街があった。一瞬で頭が冷める。私の通学路は海沿いなんて通らない。乗り過ごしてしまったらしい。

 次の駅で降りようか。いや、もし人気のない無人駅だったら、危険かもしれない。それよりも、終点の大きな駅まで行った方が良いだろう。駅前に、二十四時間営業のお店もあったはずだ。

 我ながら、冷静な判断だなと思った。疲れすぎて、感情が動いていないのだろう。

 車内には、私の他にもう一人しかいない。パンツスーツを着たショートカットのお姉さんが、隣のボックス先でだらしなく手足を投げ出して眠っている。酔っ払いなのだろうか。私が見ている間に、ずるりと頭が滑り落ちた。お姉さんはハッと目を覚まし、キョロキョロする。のろのろと座り直して、腕時計を見る。あちゃー、と頭を抱えるジェスチャーをする。そして、私の方を見た。

「お嬢さんも寝過ごしたんだね?」

 二十代前半ぐらいに見えるのに、妙におばさんっぽい喋り方だ。私は警戒しながらも、うなずく。

「お嬢さん、多分僕と家が近いよ。いっつも駅で見かけるからさ。次の駅で降りて、一緒にタクシー乗らない? 割り勘しよう」

「知らない人について行っちゃダメって言われてるので……」

 お姉さんは、ふっと小さく笑った。

「そうも言ってられないと思うんだよね。携帯、見てみな」

 何のことやらと思いつつも、ブレザーのポケットから携帯電話を出す。圏外だった。

「この辺り、電波が悪いみたいですね」

「そりゃ悪いだろうね。ここは、異界だから」

「胃潰瘍?」

「い、か、い。渡海駅より先は、僕たちが普段生きてる世界とは別の場所なんだ」

 渡海駅は、終点の駅だ。それより先には、線路がないはずなのに。

 その時、急に体を強く引っ張られる感じがした。ガタン、と電車が止まる。窓の外を見る。見知らぬ駅のホームに停まったらしい。屋根には、淡い緑色とオレンジ色のランプがずらっと交互に吊されている。看板には、見たことのない文字らしきものが並んでいる。

「降りようか」

 お姉さんがひょいと鞄を提げて降りてゆく。私は慌てて、彼女の後を追った。

 そこは、無人駅だった。こじんまりした駅舎の中にはオレンジ色のランプが一つだけ灯されていて、その下に木製のベンチがあった。お姉さんはそこに座り、隣に来るようジェスチャーをした。私は彼女とできるだけ距離を空けて座った。

「タクシー会社には、もう電話をしたよ。界境を突破しないといけないから割り増し料金だってさ。大丈夫、僕は銀行に行ったばかりだから」

「でも、割り勘なんですよね」

 あはは、とお姉さんはからりと笑った。

「君は払える分だけ払ってくれれば良いさ」

 親に連絡を取れないかと思って、携帯電話を開く。まだ圏外だった。

 お姉さんの横顔が、オレンジ色に染まっている。カサついた唇には血がにじんでいる。吹き出物もある。すごく疲れた大人、という感じがした。彼女は寂しそうに微笑んだまま、床に視線を落としている。

「普通の人間はさ、界境なんて越えられないんだ。結界にはじかれるから。それを素通りしてしまうのは、ギリギリの奴だけだよ。……まさか、僕がここに来ちゃうなんて思わなかった。自分ではそんなに追い詰められてるつもりなかったんだけどな」

 私は、糸がほつれたブレザーの裾を指先でいじった。

「私は、追い詰められてたと思います。高校をやめるかどうか、悩んでたので」

 私はぽつぽつと、自分が今立たされている状況について話した。このお姉さんはただの通りすがりの人で、私の人生に今までもこれからも何も関わらない人だ。だから、話せた。お姉さんは何も口を挟まず、うなずきながら最後まで聞いてくれた。

 ランプの回りを飛ぶ虫の羽音だけが、夜闇に響いている。お姉さんが、すっと息を吸い込んだ。

「なんか、さ。僕と君は似てる気がするんだ。人との関係に、苦しみばかり感じてしまうんじゃない? 僕はそうだよ」

「私が変だからなんでしょうか」

「理由を見つけられたら対処のしようもあるかもしれないけど、僕にはなかったね」

 お姉さんが立ち上がった。

「海でも見にいくか」


 駅舎を出ると、そこは海だった。一本の道路の向こうに、何も遮るもののない、広い広い海が広がっていた。

 細い月が浮かんでいた。その先から絶えず、金色のしずくがしたたり落ちて、海に一本の道を作っていた。

「眩しい……」

「あの道をわたると、あの世に行ける。僕はそろそろ潮時だし、わたっても良いかなと思うんだけど。君はどうする?」

 私が黙り込んでいると、お姉さんは目を細めた。

「君は学校を辞めるかどうかの二択だったから、それでなんとか生きられたのかもね」

 戸惑う私の頭を、お姉さんがそっとなでた。

「いざとなったら逃げられる、そう思うことでなんとか踏みとどまれることもあるんだね。少なくとも、今の僕はそうだよ」

 彼女が、海に背を向ける。髪が潮風にさらさらと舞って、金色の粉をまぶしたようにまたたいた。

「どうして僕たちは、苦しいのに生きてるんだろう。どうして、苦しいのに人と関わろうとするんだろう。僕は分からない。君は、答えを知ってる?」

 私が口を開こうとしたとき、車のブレーキ音が鳴った。駅舎の前に、タクシーが停まっていた。


 揺り起こされ、僕は目を覚ました。タクシーの中らしい。運転手が苛立ったような口調で、

「つきましたよ。代金は五万円です」

と手を差し出して来た。

「あれ、学生の子は?」

「何言ってるんですか。最初からあなたしか乗ってませんよ」

「幻覚でも見たかな」

 鈍く痛む頭を振り、寒空の下に踏み出す。

 朝日が、眩しかった。

「なんとなく、また会える気がするな。こことは違う、異界で」

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