あの夜以来、父の寝言を聞いていない。


 やはり母はどこか遠くへ行ってしまったのか。そうなるのが自然の流れなら、仕方ないことだと思う。


 けれど、私の心はいったい誰が洗ってくれるのだろう。きっとひどく汚れているに違いない。私の知らないうちに、人を傷つけているのかもしれない。口の中に指を差し入れてみたが、当然の如くそこには何もなかった。


 それから一年後、父はちとせさんと籍を入れた。


 式は挙げず、報告だけがあった。いずれ再婚するのなら、ちとせさんという父の選択は間違いない。それは認めるが、とうとうそうなったかという想いは、やはり私の中に大きくあった。


 結婚したのだから一緒に住むかと思ったが、私に気をつかってか、互いの住処を行き来する生活を続けた。


 私は県外の大学を志望校に選んでいた。父には負担をかけるが、家を出て一人暮らしを始めようと決めていた。いずれ私がこの家を出たら、二人は一緒に住むだろうか。そんなことを考えながら、ときどき重なり合う三人の時間を過ごした。


 家族として、ちとせさんとどう接していいのか、迷っていた。同じようにちとせさんも私とどう接していいのか、わからずにいるようだった。嫌いじゃなかった。それどころか、気さくでとてもいい人だと思う。


「その人に心を許してもいいのよ」


 母にそう言ってもらったが、私の心は汚れているし、実際、ちとせさんに冷たく当たったり、避けたりしたことも何度もあった。


 このままじゃいけないというのはわかりきっている。あれこれ考えるけれども、そんなに簡単なものじゃない。大人になりたいと思いつつも、私は子供のままだった。胸の辺りに手を当て、心の色を想った。それは川の流れを濁らすほど、どす黒いのかもしれない。






「ふうかちゃんも、食べよう」


 二人が結婚して丸一年目のお正月、商店街で振る舞われたお餅をちとせさんはもらってきた。


 ちょうど父も帰ってきたので、私も部屋から出てきて、炬燵こたつに足を入れた。


 つきたてのお餅はずんぐりとしたラーメン鉢の中に無造作に収められていた。


「まだ温かいよ」


 ちとせさんが千切って、丸め、お皿の上に並べた。それにきな粉をまぶしていく。

 父が一つ摘まんだ。その様子に既視感を覚えつつ、私も口に入れる。


 甘く、温かい。それが喉の奥をするりと落ちていく。父の夢の中で過ごした、母とのひとときがありありと思い出された。


 私を抱き締め、名前を呼びながら、何度も頭を撫でてくれた。


「……お母さん」


 何気なく、私はそう呟いてしまっていた。


 あ、と口を押さえて顔を上げると、ちとせさんの視線とぶつかった。まるで時間が止まったかのように、ちとせさんは目を見開いたままだ。


 ちょっと待って、そういう意味じゃない、と言いかけたけど、もう遅かった。ちとせさんの瞳には見る間に涙が溢れてきたからだ。


「……ふうかちゃん」


 ちとせさんはそう囁いて、静かに両手を広げた。その手幅は広すぎず、狭すぎず、作為的でなく、どこか遠慮がちに見えた。


 勝手に傾いていく重心に抗えなかった。


 ちとせさんの両手の間にすぽっと嵌まり込んでから、心が遅れてついていった。肩に顎をのせ、きな粉で汚れた手を背中に回す。柔らかさと温かさに包まれると、私の目からも涙が出てきた。


「ごめんなさい……」


 わんわんと声を上げて、二人で泣き出した。


 おろおろとする父を尻目に、ちとせさんにきつくしがみついた。


 抱き締め返されるその腕の中で、同時に母のことを想った。


「……ごめんなさい」




   〈了〉

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お餅を吐く ピーター・モリソン @peter_morrison

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