第40話 若き指揮官

 カエムワセトらの前に現れたのは、大人の男を一度に三人は飲めそうな漆黒の大蛇であった。その身体に鱗は無く、全体は黒い水で構成されているように半透明で、中心に近づくほど不透明度が増していた。縦長の瞳孔を持った瞳は、金の球に黒い三日月をはめこんだようであった。


 大蛇が三日月形の瞳孔を広げ、大口を開けた。四対の鈍く光る毒牙に囲まれたその中心には、ぽっかりとした闇があった。


「【こしゃくな!】」


 地面を叩き、大蛇が天井に飛び上がった。頭から吸い込まれるように影に身を投じるとその中で渦を巻き、ハワラめがけて飛びかかった。


 カエムワセトが、すかさずハワラを自分の後ろに下がらせ、ライラが矢を放った。だが波状にうねる身体をとらえることは難しく、矢じりは大蛇の頭を軽くかすめる程度に終わった。しかしそれで一瞬の隙が生まれ、アーデスが斬りかかった。


 剣の切っ先は確かに蛇の身体をとらえたが、相手も反応が早く、期待ほどの侵襲は与えられなかった。


「浅い!」


 アーデスが舌打ちした。

 大蛇はまた、天井へとその巨体をのけ反らせ、影の中に消えた。だが、剣の切っ先を見ると、そこにはしっかりと魔物の黒い血が付着していた。


「さて、どうだい? 聖なる池に浸した剣のお味は」


 アーデスがにやりと口元を歪めて問うた。

 その答えは多柱室に響き渡る苦しそうな呻き声が、はっきりと示していた。


「【かすり傷一つ負わせた程度で調子に乗るでないわ! 我の動きは封じても、神殿を埋め尽くす蛇からは逃げられると思うでないぞ!】」


 魔物の怒声が神殿中に響き渡った。その声は、多柱室を抜けた聖なる池に居る者たちにも届いていた。


「リラ。来るぞ。準備は良いか」


 リラとイエンウィアを含め五人の魔術を使う者が、ホルス神殿の聖なる池を囲んでいた。


 イエンウィアの問いかけに、リラは池の水面を注視したまま黙って頷いた。そして、手元のパピルスに記された呪文を唱え始めた。イエンウィアと神官達もリラに合わせるように、同じ呪文を詠唱する。


 月夜を写していた池の水面が揺らぎはじめ、底から徐々に光が浮かび上がってきた。


 多柱室にいるカエムワセトは、聖なる池に導かれる大勢の足並みを感じながら、「分っている」と魔物に答えた。


「そのための、援軍だ」


 聖なる池が強い光を放ち、水面が圧し上げられ、中から武装した兵士が次々と歩み出でた。


 池が放つまばゆい光は、ぶつかり合う金属音と大勢の足音と共に、明りとりの窓から多柱室にも射しこんだ。


「げっほ! リラ。溺れ死ぬかと思ったぞ」


 先頭に出てきた男が、せき込みながら文句を言った。


「ごめんね。大勢だから手間取っちゃった」


リラは悪びれない笑顔で謝罪した。


 昼間、メルエンプタハら三名をラムセス二世の元に送ったカエムワセトは、イシスネフェルトに伝言も頼んでいたのである。

 『意思を失った蛇という蛇』を撃退するため、アメンヘルケプシェフの兵を貸してくれないか、と。


 池から出てきた兵は総勢百名ほど。ホルス神殿の外周を守り、蛇を撃退するには、十分な数である。


 だが神官達は、先頭に出てきた男の姿を見て仰天した。


「陛下!」


 兵を率いて池から現れ出でたのは、皇太子ではなく、上下エジプトのファラオ、ラムセス二世その人だったのである。



「【よかろう。援軍もろとも、我らの餌となるがいいわ!】」


 蛇の魔物が多柱室から去る気配がした。カエムワセトらも、一旦援軍と合流するため前庭を目指した。


 途中、壁のいたるところに黒い血痕がみられた。松明をかざして追って見ると、天井を這った事が分った。予想通り、大蛇の魔物は松明の灯りが届かない影の部分を移動していた。今後は血の跡を目印にしながら、松明の灯りが届かない天井や影の部分を照らしつつ、徐々に逃げ場を狭めて追い込み、戦う手はずになっている。


「兄上! 兵を外壁周辺に――」


 皇太子が来たと信じて疑っていなかったカエムワセトは、兵の指揮を頼みかけて足を止めた。ライラとアーデスも、援軍の先頭にいる人物の後ろ姿に、ぽかんと口を開ける。


「父上?」


「よお、カエムワセト。要請どおり来てやったぜ」


 ラムセス二世は呆気にとられているカエムワセトに振り返ると、快活な笑顔を見せた。


 ラムセス二世と共に前庭に移動してきたイエンウィアと他の神官達は、たいそう困った顔をしている。


「私が要請したのは兄上の兵です!」


 カエムワセトの言葉に、ライラとアーデスもコクコクと頷いた。


 ラムセス二世がにやりと笑った。その笑みを見た瞬間、そこにいた全員が『あ、これは故意犯だ』と悟った。


「だから俺が連れてきてやったんだよ。俺の軍隊はアメンヘルケプシェフに指揮させてるぜ。丁度いいお勉強だ」


 本来なら自軍を率いてここに居るはずの皇太子は、ファラオ軍をまとめてぺル・ラムセスとメルエンプタハらの警護にあたっているらしい。わざわざ指揮役を交代してきた理由として、ラムセス二世は皇太子への教育的指導を挙げた。


「あいつ最近弱気だったから、いい薬だ。恩にきるぜ」


「さすが大将。やってくれるねえ……」


 アーデスがため息交じりに言った。その表情から、皮肉であることが伺える。


 アーデス達より少し後ろでは、ジェトとカカルが茫然と立っていた。二人が噂で耳にしていたラムセス二世は、軍人王の末端に名を連ね、上下エジプトを統べる王者の名を欲しいままにしている偉人である。断じて、目の前にいるようなざっくばらんでふざけたオヤジではない。


「よっしゃ、アーデス。久々に暴れようぜ」


 これまでの戦場とはまた違った修羅場を前に、若い頃の血を騒がせたラムセス二世はかつての戦友を手招きした。


「行っていいのか?」


 アーデスは念のため、現在の主人に許可を問うた。


 ラムセス二世は剣を振り回して準備運動を始めている。

 父親のやる気に溢れた姿を目の当たりにしたカエムワセトは、腹心を一人、父のお守役に手放す事を決めた。


「アーデス、父上を頼んだ。他の者は、策戦通りに動いてくれ。リラとハワラ。私と一緒に上へ」


 カエムワセトはハワラの手を引き、リラと共に屋上へと通じる階段に向かった。


「おい、息子!」


 階段を登りかけたカエムワセトを、ラムセス二世が呼びとめた。


「一軍隊に大将は二人も要らねえ! お手並み拝見させてもらうぜ!」


 これまで幾度も大軍を率いて戦地を駆け抜けてきた王者からの激励は、初めて軍を指揮する息子に、ほどよい緊張と高揚感をもたらした。

 カエムワセトは唇をきゅっと結ぶと、「――はい!」と力強い返事で応えた。


「ハワラ。常に私かリラの傍にいるように」


 屋上に到着したカエムワセトは、ハワラにそう指示を出すと手すりに手をついて、ぐるりと前庭を見渡した。

 魔物に操られている蛇の集団が、徐々にイエンウィアの結界を破り、神殿の敷地内へ侵入しつつある。

 神殿の敷地内は、トトの書と魔物の両方の魔力が混じり合い充満している状態。結界を破って神殿の敷地内に侵入した蛇が、そのままの姿でいるとは思えなかった。カエムワセトは、この闘いは時間との勝負だと判断した。


 カエムワセトは大きく息を吸うと、目下に広がる全兵に指示を下す。


「目標は神殿内に追い込んだ! 奴は影となって移動するはずだ! 既存の兵はそれを全力で叩け! ファラオ軍は左右に展開! 門および外壁の守りを固め、来襲する蛇の侵入を阻止せよ!」

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