第36話 ライラとイエンウィア
肌を刺すような日差しが柔らかくなり、太陽が西の稜線に近づく頃。ライラはホルス神殿の聖なる池の前で独り膝を抱えて座り、先程しでかした失態を恥じていた。
先程の騒ぎは当然、主人であるカエムワセトの耳にまで届いていた。届いたというよりは、ライラの号泣が眠っていたカエムワセトを飛び起きさせたのである。
豪快に張り倒された上、事情を知らない神官達から悪者扱いされたアーデスは、今、主人に事情を説明し、自分にかけられた嫌疑を晴らしているところである。
ライラはアーデスに同行を希望したが断られ、「冷静になってこい」と放り出された。
本日、水辺で頭を冷やすのは二度目である。
「なんでこうなっちゃったのかしら」
トラウマと、自分の愚行。この二つをはがゆく思い、ライラは拳で地面を打ちつけた。
「独りなのか?」
後ろから声をかけられ振り向くと、イエンウィアが歩いてきた。草色のショールが風に揺れている。
ライラの横に立ったイエンウィアは片膝をくと、水面に右手を差し入れて、ゆっくりとくゆらせた。
「清んでいる。相変わらずいい腕だな」
後輩の魔術の腕を称賛して微笑むと、水面から手を抜いてさっと振った。
イエンウィアの手から水滴が飛び散ったその光景と、剣についたセベキの血を払っていた昼間の姿が重なり、ライラは気不味い思いを蘇らせた。
「昼間は悪かったわ。リーダーの居場所を把握してから乗り込むべきだったのに。そのせいで、あなたに人殺しをさせてしまった」
己の詰めの甘さ故に、イエンウィアに手を汚させた事をライラは申し訳なく思っていた。
「剣を持って出た時点で覚悟はしていた。気にしなくていい」
イエンウィアは穏やかに答えた。
その言葉を聞いたライラは、ばつが悪そうに口ごもった。
「私、あなたをからかった事なんてあったかしら?」
おずおずと訊ねる。
プタハ大神殿の書庫で、イエンウィアは剣を覚えた理由として、過去にライラから、からかいを受けた事を理由に挙げていた。しかし、ライラには、剣の腕についてイエンウィアをからかった覚えがない。そもそも、イエンウィアをからかうなど身の程知らずな行いをした記憶がないのである。
「『からかわれた』というのは少し語弊があったかもしれないが――」
イエンウィアは口元に手を当て思索した後、「まあ、君に身に覚えがないならないで構わない」と結論付けた。
「お陰で私は荒くれ者達の頭目を倒せるだけの強さを身につけた。今はそれで十分だ」
言いきった彼の表情は爽やかである。
実のところ、イエンウィアが本当に満足のいく結果を得る為には、彼はライラに、自分に対する認識を改めさせる必要があった。
その理由は、ライラがカエムワセトの従者として初めてプタハ大神殿を訪ねた時まで遡る。
当時、イエンウィアはフイの補佐役に任命されたばかりであった。
まだ二十歳を迎えるか迎えないかの若者が、最高司祭の補佐役に就任したとあって、当時はイエンウィアに対し好奇の視線を向ける者が多く、風当たりも強かった。同僚は冷たく上司は厳しく、気が休まらない日々が続く中、イエンウィアも心がくさくさしていたのである。
そんな時に、エジプト軍に入隊して王子の従者になった、というライラと出会った。
自分と同じく厳しい環境に身を置き、好奇の目や逆風にさらされているであろうライラが、望んでその場所に居ると知った時、イエンウィアは反発心と苛立ちを覚えた。そして、つい皮肉を口にしてしまったのである。
『ここには君の見合い相手になるような男は一人もいないのだが』
まだ顔の端々にあどけなさを残したライラは、きょとんとしてイエンウィアを見上げ、こう答えた。
『そうね。私も、自分より弱い男は嫌だわ』
続けて、蕾のような唇の端を持ち上げると、皮肉って来た無礼な神官を煽った。
『あなたもそう(弱い男)なんでしょ?』と。
イエンウィアは強烈な羞恥心に襲われた。
足りないのは、心か。腕か。
どちらにしても、その時のイエンウィアは、真実を突いたライラの言葉に、完膚なきまでに叩きのめされたのである。
周囲の負の感情に振り回され、挙句の果てに無関係な者に八つ当たりをするとは、なんと卑小な行いか。
イエンウィアは自分に欠けた気骨を持つ少女に、畏怖を感じた。
こちらの出方を伺うように、黙って見つめ続けて来る挑発的な視線から顔を背け、今すぐこの場から立ち去りたい衝動に駆られたが、それだけはしてはならないと、踏みとどまった。
すまなかった、と一言謝罪すれば、それで済んだのかもしれない。
しかし、イエンウィアは迷ったのである。本当に謝罪でいいのか? と。
勿論、八つ当たりを詫びたい気持ちはあった。だがそれ以上に、己の愚かさに気付かせてくれた事に対する感謝の念も湧きはじめていたのである。加えて、ならば強くなってみせよう、という挑戦心も。
一体どの感情をこの少女に渡せばいいのか。
イエンウィアはライラと強く視線を交わらせながら、考えあぐねいた。
結局その時のイエンウィアは、ライラの眼差しを真正面から受け止めたまま、薄く微笑み返すだけに終わったのである。
無粋な対応であった、と思う。だがいつか、心身ともに納得のいく強さを身につけた時に、ライラに問うてみようと考えている。
君にとって、自分は強い人間になれたであろうか? と。
故に剣は、イエンウィアが求める強さの一つに過ぎない。
「いずれきちんと話す。礼も言う。その時は、笑わず聞いてくれ」
穏やかに微笑んだイエンウィアは、今はもうこれ以上話す気はないようである。
釈然としない思いを抱きながらも、イエンウィアには大事な思い出であろう出来事を忘れてしまった、という弱い立場上、ライラは「はぁ」と受け入れるしかなかった。
「それはそうと、さっきはまた随分と派手に泣いていたな」
イエンウィアが話題を変えた。
自分の子供じみた泣き声をしっかり聞かれていたと知ったライラは、羞恥心で頬を赤らめた。
「耳障りで悪かったわ」
決まりが悪そうに謝ったライラに、イエンウィアは「気にするな」と簡単に慰めただけで、後は何も言わず黙っていた。
何があったか追及して来ないのが実に彼らしい、とライラは思った。
「……ちょっと……アーデスと言い合いになって」
沈黙に耐えられなくなったライラは、自分から号泣の理由を明かした。
「痴話げんかか?」「そんなわけないでしょ」
すかさず質問が投げられ、ライラは更に早いスピードで返した。その反応速度は殆ど反射的と言っても過言ではなかった。
「失礼した。冗談だ」
楽しげに笑うイエンウィアに、ライラは憮然と前髪をかきあげた。
「アーデスは相棒よ。痴話げんかではないけど、お陰で気持ちを立て直せたわ。癪だけど、感謝しないと」
基本的に性格が素直なライラは、既に己の非を認め、闘えるだけのコンディションに戻してくれた相棒の存在を有難く思っていた。
「それはなによりだ」
イエンウィアは微笑み、「いい仲間に恵まれているな」と言い継いだ。
第三者のような物言いをしたイエンウィアに、ライラが笑う。
「何言ってるの。あなたも仲間じゃないの。いつも一緒ではないけれど、必要な時はこうやって私たちの傍に居てくれるでしょ」
神殿の庭に夕日が差し込み、ライラの身体を赤く染めた。燃えるような赤毛と、陽に焼けた肌が一層鮮やかさを増した。
イエンウィアは夕日に照らされたライラの眼元に、涙で腫れた箇所を見つけた。
「そうだな」
手を伸ばし、親指でその赤く腫れた部分を優しくこすったイエンウィアは、目を細めた。
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