序章

第1話 ナイルの底に沈んだ王子

『よーい……それっ!』


 白銀の太陽が照りつける雲一つ無い空の下。最年長の少年の掛け声を合図に、四つの小さな影が川へ飛び込んだ。


 体格、年齢はまちまちだが、四人が四人とも髪を側頭部で一本に結い上げている。幼少期にのみ許されるこの髪型は、ファラオの子息である証でもあった。


 今、王子達は古都メンフィス宮殿のすぐ傍を流れるナイル川で競泳をしている。

 対岸では彼らの姉妹たちが歓声を上げて兄弟を応援し、宮殿側の木陰では彼らの母親二人が侍女を従え、息子や娘達の楽しそうな姿を満足げに眺めていた。

 王子達の陽に焼けた身体が上げる水しぶきが、太陽の光に照らされて一層きらめく。


 早々に、長男のアメンヘルケプシェフが岸に泳ぎ着き、妹達に迎えられた。続いて、次男のラメセスが。そして、三男のプレヒルウォンメフも、もうすぐ岸に着きそうである。


 四男のカエムワセトだけが、まだスタートとゴールの中間あたりでばしゃばしゃともがいていた。

 彼は、最年少である事を差し引いたとしても、四人の中で水泳が最も下手であった。否。水泳だけでなく、彼は武芸全般の上達が遅かったのである。

 そもそも彼は齢七歳にして毎日神殿に入り浸り、ありとあらゆる書物を読み漁るほどの読書好きで、活動的な遊びよりも勉学を好むインドア派であった。そんな彼が、兄達に後れを取るのは当然である。

 しかし根が真面目な彼は、少しでも早く岸へ泳ぎ着こうと不細工なフォームで必死に水をかいた。


 ここで彼を不運が襲った。足がつったのである。急に右足に走った痛みに驚いたカエムワセトは、元々半分溺れているようなものだったところ、いよいよ本当に溺れだした。


 末弟の異変に気付き、いち早く助けに戻ったのが、岸に上がる寸前だった三男のプレヒルウォンメフであった。彼は、急いで弟の元に戻ると、腹の下に手を沿え、もがく身体を水面に持ち上げてやった。自分が支えているから、そのまま泳げと指示する。


 『はい!』


 必死の形相で答えた弟は、兄の助けを借りながら無我夢中で水面をかいた。水を吐きながら、やっとの思いで岸にたどり着く。


 兄妹姉達に迎えられた彼は、そこでようやく、隣に三男の姿が無い事に気付いた。


『あにうえ?』


 見渡すが、自分を支えてくれていた兄の姿はどこにも見当たらない。

 慌てた長男が川に飛び込み、木陰に座っていたネフェルタリ王妃が蒼白の相で立ち上がったのを目にした時、カエムワセトは事態を悟った。

 次男と妹達が、再び水面へ飛びこもうとするカエムワセトを抑えた。


 王妃ネフェルタリの次男プレヒルウォンメフは、異母弟の命と引き換えに、ナイルの藻に脚を絡みとられ、その輝かしい未来を失った。

 享年九歳。エジプト中が悲劇的な死を嘆き、喪に服した。

  


 宮では第四王子を案ずる者が後を絶たなかった。

 彼の姿を見たものは、誰もが声量を落として噂にした。


『七歳の子供が、外で遊びもせず寝食を忘れて毎日書庫に籠るなんて。どうかしている』


『死者蘇生の術を模索しているらしいのだ。しかも、手立てが見つかったと』


『ほう。その手立てとは?』


『トトの書だ』


『トトの書? 何だそれは?』


『知恵の神トトが書いたという魔術書だそうだ。これで死人が生き返るらしい』


『神の魔術書だと? 神の力は人が手に入れるものではない。神罰が下るぞ』


『覚悟の上だと仰ったらしい』


『プレヒルウォンメフ殿下が救って下さった御命を無駄にしようというのか。なんと愚かな』


『狂ってしまったのだろうよ。カエムワセト殿下は』


『お可哀想に……』


 カエムワセトには臣下達の声が全て聞こえていた。聞こえていたが、聞こえぬふりをしていた。憐みにも、嘲りにも、侮蔑にも、心は動かなかった。自分が狂っているかどうかさえ重要ではなかった。


 ただ、兄を生き返らせる。それだけに全てを費やした。


 十年。


 カエムワセトは臣下達から狂人と呼ばれ続けた。兄の復活を諦めるまで。


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