番外編第2話 ナイフの投擲練習

今話と次話は、字数の関係で内容を削減して本編第16話にまとめたのが元になっています。


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 アマーリエが非公式な諜報員になることに決定してから数日後、彼女はジルヴィアと共に公爵邸の裏手にある森に初めて立ち入った。


 王都の公爵邸は、他の高位貴族のタウンハウス同様、その高い爵位に相応しく王宮に近い地区に位置し、広大な敷地を誇る。森は公爵邸の敷地内にあり、王都とは思えないほど緑が豊かである。鳥がさえずり、時折リスが木から登り降りする以外は静かで人影は見えない。もし森が一般公開されているのなら、都民の憩いの場となったであろう。だがこの森は諜報員の訓練場所であり、諜報部隊の連絡場所でもあるので、一般立ち入り禁止となっており、公爵の娘たるアマーリエさえも今まで近づくことは許されていなかった。


 アマーリエとジルヴィアが森の奥へ歩いて行ってしばらくすると木造の家が見えた。ジルヴィアはポケットの中から鍵束を出して扉を開け、アマーリエと共に中に入った。ただでさえ小さな窓は黒い布で覆われ、家の中は半開きの扉から入る光だけで薄暗く、外見よりも意外に狭い。ジルヴィアはオイルランプに火を灯し、扉を閉めた。


「ここは射撃やナイフ投げの練習場ですので、外に音が漏れないように壁が厚くなっています」


 練習場らしく、壁には何重もの円が描かれた、傷だらけの的がいくつか掛かっていた。ジルヴィアはアマーリエにナイフを渡し、床に引かれた3本の線のうち、一番的に近い線の後ろに立ってナイフを的に向かって投げるように伝えた。


 アマーリエは利き手の右手でナイフを投げたが、ナイフは的のかなり前に落ちてしまった。


「右手を負傷したら左手を使わなくてはならなくなります。左腕はお嬢様の弱点ですが、左手でもナイフがあの的の中心に届くようにしなくてはなりません」


 アマーリエが今度は左手でナイフを投げると、ナイフはもっと手前、彼女のたった1メートルぐらい前でガシャンと音を立てて落ちてしまった。


「左手での訓練は右手で的に届いてからにしましょう」

「左手の方が的に届くまで時間がかかるでしょうから、交互に訓練するわ」

「下手に訓練すると腕を痛めます。左腕と左肩の機能回復訓練を再開して侍医が認めたら左手での訓練を始めましょう」


 アマーリエは内心、少し不満だったが渋々了承した。落馬事故からしばらくの間、アマーリエは公爵家主治医の下で左腕と左肩の機能回復訓練を行っていた。でもあまり効果が見られず、王妃教育が開始されてからは忙しくて完全に中断していた。だがジークフリートのために何でもできることはすると決めた以上、何が何でも弱点を克服すると決意を新たにした。


 アマーリエはその後、右手で10回ほどナイフを投げたが、いずれも的には程遠かった。仕舞いには右腕が痺れてきてしまい、最後の投擲では初回よりもナイフがずっと前に落ちた。


「お嬢様、右腕がもう痺れているでしょう?今日のナイフの訓練は終わりにしましょう」

「ええ、もう終わりなの?! 腕がちょっと痺れているだけよ。少し休めば大丈夫」

「いえ、今日は初日で色々お見せすることがあるので、さわりだけで十分なのです」

「そうなの……でも私ってば、弱すぎるわね。たった10回ぐらいナイフを投げたぐらいで腕が痺れるなんて」

「お嬢様は深窓のご令嬢で物を持ち運んだり身体を鍛えたりすることがなかったんですから、当然です」


 ジルヴィアは室内にある戸棚の所へ行って鍵を開け、その中からホルスター2個と数本のナイフ、拳銃を取り出した。ナイフ用のホルスターはナイフが最大5本入る仕組みになっており、拳銃用のホルスターとは違う形状である。


 ジルヴィアは『失礼します』と言ってアマーリエのドレスの裾を太腿までまくり上げた。


「ジルヴィア、何するの?!」

「ドレスの裾を持っていて下さい。ホルスターをお嬢様の太腿に着けてナイフと拳銃を入れます」

「何だか変な感じ。くすぐったいわ」


 アマーリエは、ジルヴィアに言われてホルスターを着けたまま歩いてみた。でも重りが付いて股に何か挟まっているように感じ、動きがぎこちなくなってしまう。


 女性諜報員は他者に疑念を抱かれぬよう、この時代の一般的な女性のようにドレスを着用して活動する。当時の女性がズボンを履くことは乗馬服以外ほとんどなく、その乗馬服もドレスのことが多いからだ。


「ホルスターを着けたまま歩いても他の者に違和感を持たれないようにしなければなりません。ナイフと拳銃はどちらの脚に着けてもさっと取り出して使えるように両手で訓練します」

「ジルヴィアもいつも着けているの?」

「もちろんです」


 ジルヴィアがお仕着せのスリットを広げると、太腿のホルスターに拳銃とナイフが納まっているのが見えた。彼女のお仕着せのスカート部分には一見して分からないようにスリットが作られていて、拳銃とナイフを取り出せるようになっている。ただし時と場合によってはスカートをめくって武器を取り出すこともある。アマーリエも両方できるように訓練することになった。


「さっき終わりと言いましたが、もう一度だけやってみましょう。ホルスターからナイフを出して投げてみて下さい。でもその前にお手本をお見せしますね」


 ジルヴィアは素早くスカートをめくってホルスターからナイフを取り出して投げた。そのナイフはビィーンと音を立てて的の中心に深々と刺さった。


「早すぎて見えなかったわ!」

「これでもゆっくりやってみたのですが」


 アマーリエが今着ているドレスにはスリットが入っていない。彼女はドレスの裾をまくってナイフを取り出して投げてみた。でも動作に無駄が多くて緩慢と自分でも感じて悔しくなった。ジルヴィアは自分の主人が悔しく思っているのを敏感に感じ取った。


「お嬢様、最初はできなくても当然なのです。私は8歳から訓練してきたんですよ。逆にお嬢様が初日から私ぐらいできたら、私の15年近くの訓練と経験は何だったのかって虚しくなってしまいます」

「そう……でも悔しいわ」

「その初心を忘れないで頑張れば上達します」

「そうよね。頑張るわ」


 ジルヴィアは家の扉を少し開け、オイルランプを吹き消した。アマーリエはもう終わりなのかと不満顔でジルヴィアを呼んだ。


「別の家へ移動します。ナイフと拳銃を付けたまま、歩いて行きましょう」


 アマーリエは、すぐに脚が鉛のように重く感じるようになり、ジルヴィアから徐々に遅れるようになってしまった。ジルヴィアは振り返って止まり、アマーリエに話しかけた。


「お屋敷に帰ったら、それより軽いダミーを着けて歩いて重さに慣れましょう。それで徐々に重くして最後に本物を装着します」


 アマーリエはそれに頷き、ナイフと拳銃を入れたホルスターを装着したままなんとかジルヴィアの後を追った。

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