第4話 付け入れられた甘さ


 P.M.12:15 東京都渋谷区 渋谷駅周辺


「……ああ。そんなことは解ってる。だから、仕方ないだろ」


 渾沌極めし渋谷。いとしや老犬物語。七年間も主人の帰りを待ち続けた名犬ハチ公の像付近は、まだ人が何人も残っていた。けたたましいサイレンが空を割る。その下はまだ人々に理解と深刻さが追いついておらず、とりあえず駅の中で待機しておけば大丈夫だろう、という思惑を抱える人が多かった。

 スマホには、「今すぐ避難してください」という旨の文と、緊急時に避難先と指定された施設の住所が書かれている。その欄をタップすれば、そこまでのルートを表示するマップが映し出される、という仕組みだった。

 だが、駅構内にいる人の大半は、その警告文を消し、ネットで何が起こっているのかを調べようとしていた。もしくは、会社は学校、または家族や知人に、自身の状況を電話で伝えようとしていた。


 神宮寺も後者にあった。映った警告文をすぐに消し、電話帳の上の部分にあった電話番号に着信をかけ、苛立ちながらそれを耳に当てている状態だった。


「なッ!? 今になってもダメだっつーのか! 緊急事態なんだぞ!」


 電話先に向かって噛みつくように怒鳴り、右足はカタカタと貧乏ゆすりを続けていた。表情は険しく、青筋を浮かぶほどの怒りを隠そうとしない。


 だが、こうした様子を、ここまで露骨ではないにせよ、内側に溜めたストレスを一挙手一投足に垣間見せることは珍しいことではなかった。電車の運行停止、繋がりにくいネット回線、うるさいほどのサイレン音、伝播でんぱする黒い感情は身体に染み込み、ゆくゆくは頭を侵食し、判断を鈍らせる。


「ええー。避難場所って近いところでも三キロ以上あるんだけど」

「創明大学ってどこだよ。偏差値70以上?」

「回線おっそ。マックスに呟けないじゃん」

「『マキナ』って一年前に滅んだっしょ」

「じゃあ、この警報は誤報?」

「あ、でも一応、核シェルターなら近くにあるよ」

「えー、またあそこで二三日過ごすの? クソめんどい」


 一年という僅かな歳月が、彼らの心に緩慢を与えていた。ただでさえ、渋谷にいる人々の平均年齢は23で、『マキナ』の真の恐ろしさを知らなかった。自分は避難していないけど、周りにも人はいるし、まあ大丈夫だろう、という思いがその場を支配していた。


 ただ、そうじゃない者も当然いた。


「『奴ら』はもう迫っている! 四の五の言ってる場合じゃないだろ!」


 神宮寺は焦っていた。知っていたのだ。『マキナ』の恐ろしさ、その残虐性を。知っているからこそ、怒る。電話先の相手は、それほどの無理難題を言ってきているのだろう。


「お前らナニ暢気のんきにケータイいじってんだ! 早く安全な場所に避難しないとダメだろうが!」


 40代ぐらいの男が駅前で喚き散らしていた。彼もまた、この非常事態の深刻さに気付いていた。だからこそ、緊張感の足りない若人に訴えようとしていた。


「こんなところで待ってたって、電車が動くはずもねえだろうが! さっさと近くのシェルターに避難しないと、もう奴らが迫ってきてる……!」


「奴ら、って誰のことだよ」


「『マキナ』に決まってんだろ」


「『マキナ』はもう滅んだんだろ」幼い頃からシェルターに命の保証をされてきた若者は、焦燥感に駆られる20も上の男を不思議そうに見ている。「この警報も、どうせ大したことねえよ。たまにあるだろ、アラート鳴ったけど大したことなかったパターン。どうせ、このあと勘違いに気付いて、気をつけながら会社や学校に向かってください、って言われんだよ」


「馬鹿野郎!」しかし、中年も引かない。「俺は見たんだよ、電車の中から。遠い空から黒い塊が何匹も。俺は、小学生の頃に見たことあんだよ何回も。ゴキブリみてえな見てくれで飛ぶ奴らを! 奴らは、『マキナ』は……生きてたんだよ……!」


 すると、その中年に賛同するように口々に意見を合わせる人物も現れ始めた。しかし、事の重大さを真に理解しているのなら、他の人々に訴えるのではなく、さっさと自分可愛さでシェルターにでも避難すべきだった。実際、そうした者のほうが多かった。渋谷駅に待機している若者に声をかけたのも、彼らを助けたいという一心ではなく、残っている彼らの愚かさ、自分は理解している優越感、マウントを取りたいという人の奥底に眠る泥のような気持ちが危機管理を勝った。それだけだった。


 駅前に広がるスクランブル交差点には、流石にいつもと状況が違うからか、露骨に渡ろうとする者はいなかった。車通りもないのは、別の場所で通行止めでもされているのかもしれない。じきにここも避難誘導が始まるだろう。まるで、大きな撮影でも始まるかのように、限られた者だけが立つことを許されたかのような交差点に、一人の男が堂々と歩いていった。


「ハーイ、みなさん! 志ノ蔵ベリーチャンネルにようこそ! 今日は誰もいないスクランブル交差点から生配信していマース!」


 某動画サイトでライブをしている配信者だった。奇抜な髪型と髪色で、高くも安くもなさそうなラフな服装をしていて、カメラのレンズを自分に向けて喋っていた。かなり若々しく見え、高校生と言われても違和感がなかった。


「えーみなさんご存知の通りね、緊急事態警報が鳴りましてね、街中はもう閑古鳥が鳴いてる状態! スクランブル交差点も誰もいない! こんなレアな光景、みなさんに送り届けるしかないじゃないですか!」


「おい、ナニやってんだお前! せめて屋内に避難しろ!」


「いやまあ、あういう人もいますけどね、よく考えてみてくださいよ。『マキナ』って一年前に……うーん、コンプライアンス的に直接的な表現はできないので、あえて、こう言いますね。『マキナ』は一年前にタヒっちゃったじゃないですか。だから、この警報は嘘。こんな嘘に騙されるなんて、昔の考えを捨て切れないジジババぐらいでしょ」


 配信者の発言が、街中に残っている者の総意、とまではいかないまでも、そう思っている若者は少なくないだろう。配信者の男にあてられたか、他の人物も人のいない渋谷を、スマホで撮ったり、動画に収めたり、この非日常に便乗する者が現れた。


 うるさく響くサイレン音に負けないように、配信者の声がデカくなる。「それではさっそく! 渋谷の街を見ていきま、ショー!」


「お前ら、止めろ! 早く逃げやがれ!」


 ばららに動き出した若者たちが映ってしまったのは、せっかくのムードが台無しになってしまうと考えたのか、人のいる場所を避けてカメラを向けていく配信者。その口からはペラペラと軽々しい言葉を飛び出していく。


 ちなみに彼は、人気の配信者の動画を見て、これなら俺でもできるんじゃねと思い至り、途中で高校を中退した無職の男性である。


 ただ単に街並みを映すだけでは視聴者に飽きられてしまう。ここはやはり、田舎の人間でも知っているような、有名なスポットを映したほうが効果的だろう。そう判断した彼が注目したのは、近くにあったハチ公前広場だった。


「それでは続いて、ハチ公前広場に行ってみまショー! いつもは老若男女に待ち合わせスポット代わりにされているハチ公が、ポツンと一匹。なかなか絵になるんじゃないですかね、とっても楽しみデス!」


 配信者がハチ公像へ一直線に向かった。


「……! 待て!」そんな彼に待ったをかけたのは、この騒ぎを静観していた神宮寺だった。


 その呼びかけに気付いた配信者が、神宮寺に振り返りながら言った。「だから、大丈夫だって。『マキナ』なんて大したことな――」


 発言の途中で、後ろから音がした。

 何かが壊れるような、普段聞くことのない音だった。


 配信者が硬直したように動きを止めた。カメラを下に向けていた。


 ゆっくりと、振り返る。


 首の取れたハチ公像の上に、二メートルほどの怪物が乗っていた。巨大な瞳をひとつ、ギョロリと動かし、目の前の配信者を見つめていた。

 六本の足を器用に像の凹凸に刺し、イモムシのような図体を支えていた。黒味のある身体はカブトムシの外殻を思わせるが、定期的に水色の線が決められたルートを辿るように走っていた。


 それは、教科書に載るほど一般化された『マキナ』の典型的な形態。


 ランクC『ソルジャー』。


「――っ!」配信者は咄嗟にカメラを構えた。


 だが、喋る間もなく、『ソルジャー』の尖った足先が彼の身体を貫いた。


 その瞬間、皮肉にも、彼の動画は最大同接数一万を突破した。


 血に染まった足を引き抜く『ソルジャー』。配信者だったその身体は、力なく地面に倒れていく。もはや、生者のエネルギーが残っていない彼に興味はないのか、その瞳は、駅構内に集まる次の標的へとゆっくりと動いた。


 そこから先は、まさに地獄絵図と化した。


 ハチ公の像に跨る『ソルジャー』。恐らく、この機体が渋谷に降り立った第一号だろう。この機体が初めの犠牲者を生み出したのを皮切りに、まるでタイミングが計ったかのように複数の『ソルジャー』が空から降ってきた。飛ぶ、というよりは滑空にも似た軌道で、高層ビルの影に隠れていたのか、建物の隙間からまるで昆虫のように姿を現した。


 それは、二十年前の光景。まだ地球が『コネクト時代』と呼ばれる前の、魔法も人間以外の種族も天上の存在だと信じられていた頃の無常さそのものだった。


 配信者の凄惨たる有様を目撃した男女が、悲鳴を上げながら走り出す。気軽に警報が鳴り止むのも待っていた連中は、一転して恐怖に染まり切ってしまった。空から迫りくる侵略者から逃げるために、彼らは渋谷駅の中へと避難しようとしていた。


「待て! そっちじゃない! 駅の中は行き止まりだ!」


 この非常事態に電車が動いているはずもなく、むしろ袋小路にみずから進んでいることは明白で、神宮寺はなんとか正規の逃走経路に導こうと声を張り上げた。


 渋谷駅は単純な構造をしていない。様々な改札と出口がある。入り乱れた構内を利用して追手を撒く作戦も悪くはなかった。


 ただ、それは少人数であることを想定した上でのことだ。


 渋谷駅に待機していた人数は、電車に乗っていたそのままの人数と相当すると考えていい。その全員が大きくも狭い駅の構内を全力疾走してみれば、どういった惨事が巻き起こるかは目に見えている。ただでさえ、彼らはパニック状態に陥っている。他人の様子を気遣う余裕はないだろう。


 ――『ソルジャー』は小さくて二メートル、大きくても三メートル以上の個体を確認されたことはない。

 ――駅の中に逃げたところで、奴らが入ってこないという確証はねえんだ。

 ――だったら、ここはまだ、奴らが完全には揃い切っていない地上から逃げるしか助かる道はねえだろうが!


 だが、そういった神宮寺の考えも虚しく、我先にと逃げる人々は、渋谷駅の改札口や通路の奥へと駆け出していく。入り口付近で立っているだけの彼を、邪魔な障害物とすら思っている節で、時たまに肩同士がぶつかることもあった。


 また、神宮寺には、屋内へ逃げるデメリットが他にもあった。


 ――それに、『ソルジャー』だけが出現している今はチャンスなんだ。

 ――もし、ランクB以上の『マキナ』が現れたら、いつこの建物ごと破壊されてもおかしくねえ……!


 やはり、ここは危険を冒してでも外から迂回すべきなのだ。


 神宮寺は正義の味方というわけではない。

 先ほどのような、事情を知らぬ若者を煽るだけ煽りたい年嵩としかさでもない。自分が一番に助かりたいし、赤の他人を身をていしてまで助けたいとも思わない。

 生まれも育ちも普通の田舎で、小学校の高学年に入る前に東京へ引っ越してきた、覚悟も使命感も背負っていないただの青年だった。


 だけど、こうして声をかけてしまっている事態に、何よりも自分自身が最も困惑していた。


 渋谷駅の外壁に何かが飛んできた。

 見てみると、下腹部の辺りにどす黒い穴が空いた二十代ぐらいの女性だった。顔から涙や鼻水を垂らし、手足があらぬ方向を向いていた。衝突した炭酸飲料水を片手に微笑むアイドル男性が映った電光看板には、貫かれた箇所から溢れ出た血液がべっとりと付着していた。


 そして、また違うところから悲鳴が聞こえてきた。


「クソ……!」神宮寺は気付けば悪態を吐いていた。


 そして、いつの間にか拳を握っていた。強く、強く。まるで、そこにある悔しさや不甲斐なさを怒りに任せて握り潰さんとするばかりに。


 ――四の五のなんて、言ってられねえんじゃねえのかよ……!


 また、別の悲鳴が聞こえた。


 その悲鳴はクリティカルに神宮寺の耳朶じだに叩きつけられた。

 それもそのはず。

 たった今、聞こえてきたのは、これまでの大人による阿鼻叫喚の嵐と違い――疾風のように真っ直ぐ駆け抜ける、幼子のそれだったのだから。


 思わず彼は振り向いていた。

 東急ビル構内。もぬけの殻となった宝くじ屋のとなりで、幼い少女が尻餅をついていた。その遠くない位置には、一匹の『ソルジャー』が一組のアベックを連続で突き刺していた。


 それを見た少女は、甲高い悲鳴を上げたまま、腰を抜かしているのか身動きが取れない。


 刹那――神宮寺の頭に展開した、凄惨たる悲劇。

 彼は唇を血が滲むほど噛み潰した。となりで倒れかけていた違法駐車の自転車をそっと立て直すと――――


 少女の元へ無我夢中に駆け寄った。


 同時に、 『ソルジャー』が少女に気付く。


 先に辿り着いたのは神宮寺だった。少女を両手で抱えるようにし、向かってくる『ソルジャー』と対峙する。


 横から突然現れた男に呆気に取られるはずもなく、『ソルジャー』は構わず凶器の足刀を振り上げた。


 少女が、自分の上着をぎゅっと握りしめてくるのが解った。


 神宮寺は構えた。


 そして――『ソルジャー』の側面が弾け飛んだ。


【――ΩΣ?▪!】『ソルジャー』の瞳が僅かにような気がした。


 さらに、六本の足が吹き飛ばされた。黒い装甲が見るみる壊されていく。それは、無力な昆虫が大きな存在によって、次々と手足を引き千切られて抵抗をなくしていく様によく似ていた。


 やがて、身体の至るところを破損した『ソルジャー』は、動きを遅くさせていき、発光していた瞳のような正面も暗闇へと転じていく。


 これを、地球人の観点で言えば、壊れた、ということになるのだろう。


 その様子を、神宮寺は呆然と見ている他なかった。口を生半に開けたまま、何が起こったか見当もついていない様子だった。


「大丈夫ですか?」そのとき、声を聞こえた。


 はっと声のした方向に眼を向けば、渋谷駅の地下へと繋がる階段の天井に、誰かが立っていた。


 それは、赤い軍服を着て、両手で抱えるほどの機関銃を携えた――――


 ネコのような耳を生やした少女の姿をしていた。

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