第24話

 大浦海岸では、宇留美が水面の輝きに溶け込んでいた。

「お前には自分ば責めることのなかぞ。お前の家族が生きているからな。しかもお前の世界と交わっとる」

 宇留美はケッと、海に向かって息を吐き捨てた。

「自分は一人だ。兄はあの男に殺され、母は心ば病んで一人で逝った。父は未だに行方の知れん。その自分に家族? アンタも一端の探偵ならば、自分の素性くらい把握しとるやろうが」

 剣人は手を伸ばす。宇留美が振り向かず、本当に水面の輝きに呑まれそうに見えたからだ。

「青柳直広は生きている」

 宇留美の肩が突如飛び上がった。自分で言っておきながら、やはり声に出されると緊張感が増す。

「ただし、本人は本名ば覚えとらん。ここんまで言えば、お前もさすがに察しのつくやろ」

 宇留美の脳裏に浮かんだのはただ一人。

「板垣所長が? まさか。一体どがんどうなっとると」

 水面から立体感のある宇留美が浮かび上がる。仕事服の黒いスーツ姿がズカズカと剣人に詰め寄った。

「医学面でなら、私に説明させんね」

「母さん」

 剣人が振り向くと、眼鏡をかけた女性が立っていた。癖のある長めの前髪は真ん中で分けて、胸まである髪は後ろで一つに束ねていた。

「青柳とは幼馴染なんよ。あいつば発見したとも私やけん。全身あざだらけで出血もしとった。あばらも二本折れとったな。幸い息はしとったものの、目覚めるとすべての記憶を失っとった。脳外科医の私が診ても、記憶の回復に見込みは無か。そこで、青柳の幼馴染である私が、あたらしか名前ばつけた。長崎市に移し、さらに偽名ば使えばちぃっとすこしは安全やろうと思ぅてな」

 宇留美は確信した。かつて見た予知夢のとおり、実父の直広を傷つけたのは青柳健一であると。健一亡き今、その証拠も理由も調べようのないことだが。

ばってかだけど青柳、いや板垣氏は自分の記憶ば取り戻したがっとった。母に何度説明されようとも」

 剣人は続けた。

「そこで母は知人の探偵事務所への就職を板垣氏に勧めた。そのうち自分で記憶を辿れると思ぅて。ばってか仕事をこなすだけでその手掛かりは掴めんかった。というか何も思い出せんかった。そがんするうちに、板垣氏は高齢の前所長から事務所ば受け継いだ」

「そこんまで知っとるってことは、アンタやっぱり所長ば監視しとったとね」

 剣人は頷いた。

「俺は大学卒業後、母から頼まれて入所した。板垣氏が再び大怪我ば負わんごとするために。仕事ば覚えるうちに、俺は板垣氏とご家族ば追い詰めた犯人の特定に行きついた。そいそれから俺は、板垣氏が再接触ばせんごとしないように、以前よりもしっかりと監視しとった。そしたらお前が入所してきた。板垣氏の実子であるお前がな」

「ならなしてどうして犯人を逮捕させんばって気にならんかったと?」

「お前からそん言葉ば聞かされるとはな、青柳宇留美」

「警察への信頼はこの際どがんどうでもでもよか。ばってか通報は市民の特権やろうが」

 剣人は肩を竦めた。通報しても必ず捜査に踏み込むことも、天玄が平穏な生活を得ることも保証できないことを理解していた。

 宇留美の方が深く身に染みているので、剣人にはそれ以上言及しなかった。

そがんそういうわけで、息子には青柳健一ば追うことよりも、板垣氏の日常ば優先させた。そいが良かったのか悪かったのか、やがて宇留美さんが入所してきて、ついにあの男に遭遇してしもうた」

 剣人の代わりに、志通子しづこが言った。

「板垣氏に記憶の戻らん今、一番傷つくとは宇留美さんのはず。そいとにそれなのに何も配慮できんくて申し訳なか」

 宇留美は口を噤んだ。自分が孤独の身でいることは、とうに見えていた。天玄と二人きりで心底笑い合う姿を、宇留美は一度も見たことがない。志通子と剣人を責める理由もなければ、宇留美の知らないところで直広の人生を勝手に操作したと非難しても、事態が変わるわけでもなかった。

 水面の輝きが弱まり、剣人は宇留美に近づいた。

「所長のことをどがん捉えるかは、お前の自由だ。そいけど俺は、今後も板垣天玄と認識し、なおかつ距離ば取ることば勧める。どがんどういう意味かは分かるやろ」

 宇留美のくせ毛が潮風に乗り、拳が一層硬くなった。

「長崎は狭か。お前が血縁に囚われとる限り、お前は前に進めんし、所長も穏やかな生活を再びうしのぅてしまう。現にお前は今まで実兄の名前、宇門ば名乗っとったろうが。所長、前にポロっと吐いたことのあるとけど、お前のこと娘みたいな存在だそうだ。そいけん探偵以外の仕事への転職ば願っとる。何だかんだで汚れ仕事やけんな、探偵ってのは」

 宇留美には剣人の声が届いていなかった。かつて見た光景が、日差しの角度までもまったく同じ姿で再現されていた。忘れていたころに思い出す予知夢はどこまでも残酷だった。

 直広との別れはすでに決まっていたことだと、眠る宇留美にたびたび告げていたのだ。

 別れるべきは直広だけではない。思い出の中に留まる桃代と宇門も、今このとき離れなければならない。そうしなければ、宇留美はこの先何もできなくなる――青柳宇留美としての生をとおして。しかし突然取り戻した生の中での目標や生き甲斐を見つけるのは、宇留美には難しかった。

「言っとくが、俺は今後も板垣氏を見張らんばでけん見張らないといけない。お前の世話まで手の回らん」

「それなら私にちょうだい!」

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