<30> Before
翌日。
遂にヒミカの所に、目当ての訪問者が一人、現れた。
「運動には二種類あります。
重い物を持ち上げるような、短い時間に最大の力を発揮する『無酸素運動』。
そして乗馬やスケートなど、数十分以上にわたって動き続ける『有酸素運動』です」
目を丸くしてヒミカの個人講義を聴くのは、四十代も後半の、見事な体格のマダムだ。
この公王国を治める諸侯の一人、スキエル侯爵の夫人だ。
「ダイエットのための身体作りには、まず負荷が高い『無酸素運動』で筋肉を増やすべきですね。
筋肉量が増えると身体が引き締まって美しく見えますし、身体がより多くのエネルギーを消費するようになるため、太りにくくなります」
「でも、むくつけき殿方のような身体になってしまうのは嫌ですわ」
「大丈夫ですよ、そう簡単にゴツゴツの身体にはなりません。
特に女性は
日中のお宅訪問は、そうそう長居しないのが、品の良い態度とされる。
侯爵夫人が外歩き用の手袋も外さないのは、長居しないという意思表示だ。おそらくこの世界では『ぶぶ漬け』の意味が通じる。
ヒミカにとっては後から調べて知った話だが、侯爵夫人は若い頃、評判の美人だったそうだ。
だが、人は様々な意味で変化するものである。
彼女の場合は出産と、三人目を産んだときの長患いで、体重の階段を上ったようだ。もっとも、そうでなくても最終的に、この体型になっていた可能性はある。まだこの世界には『適切な食事量と運動で肥満を回避する』という考え方が染みついていない。
もしも可能であるならば、若き日の美しさよ、もう一度。
……そんな渇望を抱え、藁にも縋る思いでヒミカを訪ねたのだろう。パーティーの噂を聞いたのかも知れないし、カノンの紹介状にも、ヒミカが健康と痩せ方に対して博識であると記されていたから。
ならばヒミカも協力は惜しまない。人脈を結ぶのも目的だが、それ以前に、彼女の気持ちがよく分かるのだ。己の持ちうる知識を出血大サービスで放出していく。
「私ももう若くはありませんもの、どうしても太ってしまいましてねえ。
運動でどうにかなるものなんざんしょうか」
――あっ、それってこっちの世界でも言うんだ、やっぱり。
自分が他所の世界から来た、なんてことは流石に明かせないから黙っていたが、違う世界でもこうして同じような話が出てくるところを見ると、やはり人なんてものはどこへ行っても変わらないのかも知れない。
なんだかヒミカはおかしかった。
「年を取ると代謝が落ちるのは本当ですけど、実はそこまで大幅には変わらないんです。
どちらかと言うと、動く機会と量が減るせいで太るんですよ」
「あら、そうざますの?」
「若い頃からたくさん食べていたけれど、エネルギッシュに動いていたから収支釣り合ってました、みたいな人が年を取ると太りがちなんです。
逆に言えば中年になっても、食べる量に気をつけてさえいれば体型は保てます」
出されたお茶を飲むのも忘れて、侯爵夫人は聞き入っていた。
世に美しさのあらんことを。
* * *
「筋トレは毎日同じ場所を鍛えてはいけません。
間に一日休憩を挟むか、日によって別々の部位を鍛えるのがいいでしょう。
体幹を鍛える運動、足腰を鍛える運動はオススメです。
姿勢を保つのが楽になりますので、立ち姿、歩く姿をより美しくできます」
ヒミカが言いつつ、自分の言葉通りに胸を張ってモデル立ちすると、周囲のご令嬢方はうっとりと嘆息した。
ヒミカは先日訪問を受けたのとはまた別の侯爵夫人から招待状を頂き、パーティーに参じていた。
社交シーズンに夜ごと開かれる舞踏会は、特に未婚の令嬢方にとっては、大事な結婚相手探しの舞台。それもあって彼女らは、『壁の花』になることを恐れる。
一曲ごとに踊る相手を変えるのだが、その時に相手を見つけられず、ダンスホールの隅で見ているだけの状態を壁の花というのだ。これは彼女たちにとって、世界の破滅の次くらいに恐ろしく避けるべき事態だった。
だが、今宵の壁の花と来たら、黒一色だった。非常に稀な光景だ。
原因は明らかだ。
女性陣がダンスさえ放り出し、とにかくヒミカの周りに集まって話を聞こうとするので、男が余っているのだった。
「私、煙草を吸うと痩せると伺いまして、最近吸い始めたのですが、これは本当に効果があるのでしょうか」
今のヒミカと同じくらい、つまり十代後半であろううら若き令嬢が、軽く手を上げて質問する。
「あああ、あの……すごい言いにくいけど煙草は痩せます。
だけど、すごく健康に悪いんです。煙草を吸っていると、死ぬのが少なくとも数年は早まります」
嘘はつきたくないので、ヒミカは苦悩しつつ答えた。
ちなみに、『男性は太めの方が長生きする』としばしば言われるが、実はこれも煙草が絡んだ話である。
男性は標準圏内の痩せ型でも概ね健康度が低い。だがこれは、煙草で痩せた不健康な男性が『痩せ型男性』の健康度平均を引き下げているだけで、非喫煙者男性に限った統計なら、多少痩せている程度で問題は発生しないのだ。
「ダイエットは美しく健康に痩せてこそ。だから私は煙草を吸って痩せるやり方は……許容しません」
「分かりましたわ。では、これきり止めようと思います」
太めの彼女は素直に頷く。
そうして、それから何やら、やるせない思いに顔を曇らせた。
「ホージョー様が羨ましいですわ。
私もあなたのようだったら、身体のことで悩んだりはしなかったでしょうに」
――来たっ!!
少しばかり、やっかみの籠もった言葉であった。
それはヒミカにとって一番欲しかった合いの手だ。
「その事ですが……実は面白いものを持ってきておりましてね」
ヒミカは用意していた、遺影サイズの肖像画を、周囲の者たちに示す。
「これが半年ちょっと前の私の姿です」
「「「えええええっ!?」」」
幼少時より仕込まれてきたであろう礼儀作法も忘れて、周囲の者たちは驚きの声を上げた。
だぶついた肉に埋もれて、目鼻口が存在する何かの絵だ。落ち着いて見ればそれが、ただ太っているだけの人だと分かる。
髪は確かにヒミカと同じ
『Before』の肖像を持って歩くのは、ヒミカのアイデアだった。
ダイエットの力を示すには、やはりこれが一番。
最初から痩せた人を『After』のモデルにして、それを太らせて『Before』写真とするダイエットサロンもあるくらいだが、ヒミカの場合はインチキ無しだ。
「私も、これくらいふくよかだったんです。
でも、どうすれば痩せられるか研究して、長く辛いダイエットに堪えたことで、今の姿になったんです。
ですから、どうか。希望を持ってください!」
「は、はい……」
希望よりも驚きに満たされた様子で、彼女はどうにか、返事をした。
「その絵姿、どこかの国の王女殿下によく似ておられますわ」
口を挟む者あり。
じっと話を聞いていた貴婦人が、にんまり笑ってヒミカを見ていた。
『自分には分かっているぞ』と言わんばかりに。
「ええ、そうですね。この国に遊びに来てからというもの、よくそう言われます」
ヒミカも似たような笑い方をして、応じた。
実のところ、この絵姿は、正確なヒミカの半年前の姿とは言えない。
公王国の新聞に挿絵として載って、あちこちで描き写されて使い回されたアンジェリカ姫の絵姿を、画家に依頼してハイクオリティに描き直させたものだ。
つまり『公王国の者たちが思い浮かべるアンジェリカ姫の顔』である。
ヒミカはあくまで、ヒミカ・ホージョーの名前で動いていた。ここでアンジェリカ、とは名乗らぬ方がいい。セラニア王国にとって不都合な存在となり、対処せざるを得なくなる。
逆に、仄めかすだけに留めれば、セラニアにとっては迂闊に手出しすると傷口を広げる結果になる。
そして、建前だらけの世界に生きる人々は、仄めかしを拾うのが得意なのだ。
「あの、ところで、そちらの方は?」
取り巻いていた令嬢の一人が、手のひらで示した先に居るのは……
仮面舞踏会でもないのに、蝶の仮面で顔を隠し、タキシードを着てヒミカの『Before』肖像画を掲げるコボルトであった。
「私は謎のコボルトXです!
アンジェリカ姫付きの賢者・フワレとは無関係!」
欺瞞!!
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