〈11〉

〈11〉 ①

 ふたりでうとうととしているうちに、気がつけば夜の十時を過ぎていました。母が帰っているはずの時間でした。

 歩は慌てて立ち上がります。「帰るね」と告げて身を翻し、強い力で引っ張られて尻餅をつきました。

 さなえが歩の腕にしがみついています。

「あたし、明日、卒業なの」

 高校の卒業式が終れば、さなえは父の商品として扱われるはずでした。

 歩はそっと彼女の肩を抱きます。

「さなえちゃん……」

 慰める言葉は、乱暴に扉を開ける音にかき消されました。土足で廊下を踏みならし、福留が入ってきました。白いジャケットが翻り、腰のベルトに挟まれた匕首が見えました。

 なにが起きたのかわからず目を白黒させる歩を一瞥して、福留はさなえの腕をわしづかみにしました。強引に立ち上がらせ、無言で踵を返します。

「なに?」

「待って、なに?」

 怯えた疑問が二重になりました。さなえも歩も事態が飲み込めません。部屋を出て、靴を履くことも許されずさなえは階段を引きずり下ろされていきます。歩はスニーカを突っかけて後を追います。

「待って、福留。なに? さなえちゃん、まだ卒業してないじゃない」

 福留は足を止めることなく「帰れ!」と怒鳴ります。階段で反響していつもの何倍も大声に聞こえました。

 三階の事務所には、もう誰もいません。福留が床にさなえを投げ捨てました。階段の角で打ち付けたのか、彼女の足は痣と血で赤くなっています。

「おまえ」と福留の押し殺した声音です。「ヤク、どこやった」

「は? え、なに? 知らない。なんなの」

 さなえが矢継ぎ早に応えます。

「ウチの覚醒剤シャブ。末端価格で四千万。おまえだろ」

 さなえは袖をめくって自らの肘の内側を見せつけます。

「あたしのドコがヤク中なんだよ!」

「おまえの母親だろ!」

「じゃあ、あのババァ吊るせや!」

「おう」と呻きが背後で応えました。

 歩の父が、冬眠明けの熊めいてのっそりと入ってきます。手には、響子の顔がありました。瞼は腫れ上がり、口からはトロトロと血が流れています。髪をつかんで引きずってきたのか、頭髪には肉片が絡みついていました。

 父は歩を認めると困ったように苦笑します。悪戯がばれた子供のようでした。それもすぐに、獰猛な色に染まっていきます。

「すんません」福留が素早く、歩とさなえの間に体を入れました。「すぐ帰らせます。歩さん、帰りましょう。送ります」

「いや、ええ」父は響子をさなえの隣に放り出しました。「ソレも無関係やない。歩ぅ、居りたかったら居ったらええ」

「うん」歩は顎を引きます。さなえと響子を、見下ろします。「なにがあったの?」

「ウチの商品をちょろまかしやがったんじゃ」

「あたしじゃない!」

「親孝行なこっちゃなぁ。シャブ中の親んために、ウチのブツくすねとったとはなぁ。飼い犬に手ぇ噛まれるぅいうんは、こういうことやなぁ」

「あたしじゃ、ないです……」

 否定を繰り返すさなえの頬が、どんどん青ざめていきます。なにを言っても信じてもらえないと、知っている顔でした。

 父の中ではもう結論が出ているのです。その結論に反する言葉はなにひとつ届かないのです。

 大人にとっては、大人が信じることだけが真実でした。

 響子は、相変わらず笑っています。と思った次の瞬間にはぼんやりと空を眺めています。薬物と暴力とで朦朧としているのでしょう。

「おまえ、ビデオごときで済む思うなや。持ち出した分はきっちりと体で返してもらうさかいな。徹底的に使い倒して、沈めたるわ」

 父は本気でした。本気でさなえを破滅させる気なのです。

 さなえの瞳から光が消えました。けれど。

「おう、歩」

 父が歩を呼んだ瞬間、さなえの眼差しに憎悪が宿りました。

「おまえが決めぇ。このアマ、最初にどないする? 友達なんやったら、おまえが引導渡したれ」

「わたし……」声が掠れて、空気漏れのような音になりました。小さく咳をして、歩は「わたしなら」と言い直します。「ちゃんと調べる。本当にさなえちゃんが」

 盗ったのか、と続ける歩を、父が笑いました。紛うことなき失笑でした。歩は背筋が寒くなるのを感じます。

「調べるぅ? ウチん商品がのうなっとるんや。なに調べりゃええねん。ああ、いや、ちゃうなぁ。おまえは、なにを、調べたいんや?」

 なにを調べたいのか、とは、大人たちになにを認めさせたいのか、という意味です。父は真実を知りたいわけではないのでしょう。歩が誰に罪を被せ、誰を無罪放免したいのかが、知りたいのです。

 歩は顎に力を入れます。震えてしまわないように、息して呼吸を継ぎます。つばを吞む音が嫌に大きく聞こえました。

 そのとき。

 さなえが飛び起きました。福留に抱きつき、腰から匕首を奪い取ります。

 父が、素早い動きで内ポケットから黒い塊を抜きました。警察官が帯びているような、回転弾倉式の拳銃でした。

 ぎょっと身を引いたのは、福留と歩だけでした。匕首の鞘を滑り落としたさなえが、だん、と事務机に刃を突き立てます。

「ケジメ、つけます!」

 父は顔を斜めにしました。

「あたしやないと信じてもらえないなら、ケジメをつけます!」

 事務所の天井近くに据えられた神棚の前で、黄色く濁った液体を満たしたガラス瓶が光っていました。小枝のような指が何本も入っています。

 はは、と父は声を上げて笑いました。本当におかしくて仕方がない、という様子です。

 福留はそんな父とさなえ、そして歩を順に見回すだけでした。

「これが、あたしの誠意です! あたしは、盗ってない! こんなババァのために、あたしが盗るわけない!」

 自分を鼓舞するように叫び、さなえは机の上に左手を広げました。

「指の根元縛ってから……」

「うるさい!」

 福留を一喝したさなえが、刃を振り下ろします。

 カンッ、と硬質な音がしました。反射的に歩は目をつぶります。

 静けさが訪れました。恐るおそる目を開けると、さなえの刃は人差し指のずっと先に突き立てられていました。

「ほれ見ぃ、女なんてそんなモンや」

 さなえの絶叫が響き渡りました。勢いよく刃が振り下ろされます。何度も、なんども、刃は机を叩きます。

 何度目かで絶叫が悲鳴になりました。さなえの小指の脇に匕首が刺さっていました。肉がえぐれて骨が覗いています。血が溢れて机に広がっていきます。積まれたファイルや書類の縁を伝って、床へと滴ります。

 小指は、まださなえとつながっていました。

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