〈10〉
〈10〉
さなえの卒業式を翌日に控えた日、歩の母は夜勤でした。
軽い夕食を摂り、パンプスを履いて出掛ける母を見送ってから、歩は近所のたばこ屋までぶらぶらと歩きます。背には、塾用のリュックサックがありました。リュックサックがあれば、誰かに夜の外出を咎められても「塾の自習室に行く」という言い訳が通ります。
まだ五時を過ぎた辺りにもかかわらず、辺りは夜の暗さに包まれていました。
公衆電話に十円玉を落として、さなえと決めた伝言ダイヤルにかけます。さなえの声で「会いたい」と録音されていました。自動音声が、録音時刻は朝の七時だと教えて寄越します。
歩はそのまま大通りまで歩いて、バスに乗りました。
十五分ほどで父の仕事場の最寄りバス停に到着します。まだ冬の名残が町のあちこちに潜んでいました。庭で焚き火をする老夫婦、鼻を真っ赤にしている子供たち。
母に買ってもらったダッフルコートに口元を埋めた歩もまた、冬に取り残されていました。
父のビルはまだ灯が点っていました。
一階の不動産屋には大学生らしき男の人が座っています。エレベータではなく、階段で二階まで上がります。相変わらず電話の音と怒声が賑やかでした。
二階のカウンター前を抜けて、さらに三階まで上がります。何人かに挨拶をされたような気もしましたが、無視します。
三階は、静かでした。
人が少ないのです。入り口脇の仁王像が背を向けていました。木製の装飾板が外され、像の中の空洞が覗ける状態でした。ショットガンだかライフルだかの銃口と、日本刀の柄が頭を出しています。
歩は、この仁王像が動いているところを、初めて見ました。なにか、普通ではないことが起こっているのです。
見渡しても、さなえの姿はありません。苛立たしそうにデスクに着いている屈強な男は歩と眼が合うと、バツが悪そうに視線を逸らしました。
なにかあった? と訊くことは無駄でしょう。
「女子供には関係ない」が彼らの矜恃なのです。歩は無難に「さなえちゃんは?」と問います。男が人差し指を天井に向けました。大方厄介払いで上階に追いやられたのでしょう。
歩は階段で四階まで上がります。
金属製の扉を開けると、玄関三和土にさなえのスニーカが脱ぎ捨ててありました。歩はさなえの靴をそろえてから、自分も靴を脱ぎます。
何度か来たことのある部屋でした。
部屋住み舎弟である福留が生活し、相談役の六堂がときおり福留の作る食事を無心しに来る部屋です。男物の靴がないので、ふたりともが出払っているのでしょう。六堂は自分専用スペースである五階に引っ込んでいるのかも知れません。
廊下の手前にトイレと風呂の扉が並んでいます。その隣が福留の部屋です。扉は閉まっています。廊下の突き当たりには、大きなテレビを配したリビングがありました。
リビングと廊下を隔てる扉の、磨りガラスになった部分から仄明かりが明滅しているのがうかがえました。部屋の電気を消して、テレビを視ているのでしょう。
「遅くなってごめんね」と詫びながら、歩はリビングの扉を開けます。
大きなテレビの真ん前で、さなえが膝を抱えていました。ソファーではなく、フローリングの床に直接座っています。
歩はテレビの向かいに設置してあるソファーにリュックサックを下ろしてから、さなえの隣に座ります。ごわごわしたダッフルコートの裾がかさばりました。
「下、なんか騒がしいね」
さなえは上の空で「うん」と頷きました。
テレビに映し出されているのは、ザラついた映像でした。普段、歩たちがチェックをしているAVの一種でしょう。音声は消えています。さなえが消したのか、元から音が入っていなかったのかは判然としません。
コンクリートがむき出しになった倉庫の一画が映っています。
泣き叫ぶ子供がふたり、ウサギやモルモットの飼育ケージに入れられていました。二歳か三歳くらいでしょう。小さなケージでは立つことも出来ず、正座の上に上半身を倒した窮屈な姿勢で、それでも必死にケージの柵を握っています。
子供たちの前で、でっぷりとした女の人が男たちに囲まれていました。暴れる端から殴られ、服を剥ぎ取られていきます。
ヒロムでした。制服や特攻服を着ていたころよりも太ったように見えます。
父が攫ってきたときの映像でしょう。商品化するつもりなのか、脅しに使うつもりなのかはわかりません。
さなえは、ぼんやりとヒロムの惨状を眺めていました。以前、自分が受けた暴行を重ねて、いい気味だと思っているのかとも考えましたが、そういう様子でもありません。
ただぼんやりと、のどかな風景映像を見ているような顔で、さなえはテレビを仰いでいました。
歩は、そんなさなえの横顔を見つめます。抱えた膝の上に頬を乗せて、さなえの瞳に映るヒロムを間接的に眺めます。
ヒロムが男たちに殴られ、蹴られ、煙草の火を指先から順に押し当てられながら犯されるのを眺めているうちに、眠気が襲ってきました。
ひょっとしたら、と歩は夢うつつに考えます。さなえちゃんも、目を開けたまま眠っているんじゃないだろうか。ヒロムから受けた暴力も、ヒロムが受けている暴力も、さなえの心にはなにひとつ届いていないのではないか。
そんな妄想に囚われます。
ふっと目を開けると、テレビの中の被害者が別人になっていました。
赤黒く肩が腫れている女の人です。はち切れんばかりに丸く膨れた腹が、水面に浮かぶ金魚のようです。
さなえの母親でした。肩の具合から考えるに、あの祭りの日から何日もせず撮影されたものです。
さなえは、まだぼんやりと画面を見つめたままでした。ヒロムのビデオのときから微動だにしていないように思えました。
「最近」と歩は囁きます。「お母さん、元気?」
「……知らない」とさなえも掠れたささめきを返します。
さなえの母親──響子のビデオは、ヒロムのときとは違い、何台ものカメラで撮られた映像がつなぎ合わされていました。
商品として販売するために撮影されたものなのです。モザイクがかかっていないので、再生されているのはマスターテープなのでしょう。
響子はヘラヘラと笑い続けていました。
よだれで濡れた口元から、ボロボロになった歯が見え隠れしています。男の拳が響子の顔を殴りつけると、簡単に歯が折れました。血とよだれが響子を汚していきます。
男たちの暴力は響子の大きな腹にも及びます。
初めから、腹が目的だったのかもしれません。男たちは代わるがわる響子の足の間で腰を振り、拳を振り下ろし、足で踏みつけます。
しばらくして、響子の足の間から赤黒い肉の塊が流れ落ちました。響子の血と粘液と、男たちの精液に塗れた赤ん坊です。
男のひとりが赤ん坊の足をつかんで、吊るしあげました。
カメラが赤ん坊を大写しにします。潰れた目と鼻、あぐあぐとうごめく口、そして小さな手が──フレームの外から伸ばされた誰かの指を握りしめました。
ぶつり、と映像が消えます。歩の指が、ビデオデッキの停止ボタンを押していました。
「あたしも」さなえが寝惚けた呂律で言います。「こんな風になるんだ……」
「ならないよ」
「おまえは社長の子だもんな」
歩はさなえの嫌味には答えず、砂嵐となったテレビ画面を指し「あれ」と言います。
「どうなったの?」
「知らない」
「……さなえちゃんの、妹だよね?」
へ? と虚を突かれた表情でさなえが瞬きました。え? と再び間抜けな声を上げて、ようやく歩へ顔を向けました。
「え? アレ? アレ、が、妹?」
さなえの、心底理解できないという顔に、歩も混乱します。
アレはさなえの妹ではないのでしょうか。同じ母から生まれた子は姉妹と呼ばれるのではないのでしょうか。
「アレは、モノだよ」さなえは至極当然のように語ります。「ただの、モノ。ビデオテープとかテレビとか、煙草とかとおんなじ、物」
うん、と歩は曖昧に肯きます。同時に納得もします。
アレはさなえの妹などではなく、別の生き物なのかもしれません。
父と同じ、獣の臭いがするのです。クスリと金と暴力で練り上げられた怪物です。さなえがアレを、人間ではないモノだと主張するのも、仕方がないことのように思えました。
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