〈4〉 ⑤

 ふと気づくと、陽が沈んでいました。朱色の空に紫色の雲がなびいています。

 歩は慌てて立ち上がります。

「帰らなきゃ」

「門限か?」とさなえも立ち上がります。

 もんげん、がなにか歩は知りませんでしたが、「うん」と頷いて、しゃがんだままのふたりに手を振ります。

「今日はありがとう。じゃあね」

「うん」とリナが手を振り返してくれます。「またね」

「またな」とヒロムも手を挙げて応えてくれました。

 また、があることに歩は震えます。嬉しくて、足が笑いました。

「またね」と大声で怒鳴り返して、駆け出します。ガタガタとランドセルが鳴りました。リナにもらったステッカーが嬉しくて、跳ねるようにスキップします。

 と、パコパコと軽い靴音が追いかけてきました。

 さなえでした。薄っぺらい学生鞄を抱えて、少しだけ息を切らしています。

「さなえちゃん、こっちなの?」

「おまえを送るんだよ」

 ヒヤリとしました。浮かれていた気分が萎えて行きます。急に喉が渇いてきます。

「それは、わたしが、お父さんの子だから?」

 へ? とさなえが頓狂な声を上げます。

「お父さんの子だから、送ってくれるの? 社長の子、だから?」

「小学生を、日が暮れてからひとりで帰す奴は、ただの薄情者だろう?」

 社長の子だからではなく、小学生だから、年下だから、とさなえは当たり前の顔で告げます。そして、歩の額を人差し指で弾くと「ばぁーか」と笑いました。


 さなえと高校の裏門で別れ、歩は急いで校舎の一階奥にある用務員室を目指します。生徒のいない校舎は、電気の点る廊下すら薄暗く思えます。

 静まりかえった職員室の前を、足音を殺して走り抜けます。用務員室の扉に手を掛けて、阻まれました。鍵が掛かっているのです。いつもなら歩を迎えてくれる用務員さんは、すでに帰ってしまったのでしょう。

 歩は戸惑い、誰も居ない廊下を振り返ります。母とはここで待ち合わせているのです。母に会えなければ、どの空き教室を使っていいのかがわかりません。夜ご飯のお弁当も母が持っています。

 こっそりと通り抜けてきた職員室の灯が廊下を鈍く染めていました。

 母を呼び出してもらうしかありません。ひょっとすると母はもう授業に入ってしまったのかもしれません。そうであれば、他の先生に使ってもいい空き教室を訊かなければなりません。

 先生を好きなやつなんていない、と断言したさなえの、心底厭そうな顔が思い出されました。歩も、好きではありません。歩が母の職員室を覗いたときに他の先生たちから向けられる顔には、部外者を拒む色が濃く出ています。

 けれど仕方がありません。

 覚悟を決めて、ランドセルの肩ベルトを両手で握りしめます。職員室の扉までが、こんなときばかりひどく近くに感じました。

 扉をノックしようと拳を握ったとき。

「歩!」と押し殺した声が背後から聞こえました。

 振り返ると、ちょうど階段を下りきったところに母がいました。眉がつり上がっています。

「なにしてたの。こんな遅くまで。心配したでしょう。わたし、もう授業だから。早く来なさい」

 歩に口を開く隙を与えず、母は矢継ぎ早に告げて歩の腕をつかみました。遠慮のない力加減で、母が憤っているのだとわかります。

「ごめんなさい」と詫びた歩の声は、電気の消えた階段に吸い込まれて行きます。二階、三階、と母に引きずられるように上がり、三階の奥のやけに広い教室に連れ込まれます。床は階段状になっており、天井からいくつもテレビが吊り下げられていました。

 母は分厚いカーテンを引いてから、教室の電気を着けます。一番前の席に歩のお弁当箱が置かれていました。母は歩を待ちきれずに、夕食を済ませたのでしょう。

「どこでなにしてたの」

「ごめんなさい」

「なに、してたの」

「……友達と、話してて」

「心配したでしょう」

「ごめんなさい」

「アナタが友達と話すのは勝手ですけど」

 母が丁寧な言葉遣いになったことに、気づきます。感情的になりそうなとき、母は冷静を装うためか他人と話す口調になるのです。

「それでわたしに心配をかけるのは違うでしょう」

「はい……」歩は俯いて、嵐が過ぎるのを待ちます。授業時間まであと何分だろう、と時計を確認したい欲求を耐えます。

「それは本当に友達ですか?」

 初めてできた友達ですよ、と歩は胸中で答えます。口にはしません。こういうときの母は反論すればするほど、苛立ちが増すのです。

「本当の友達なら、アナタのために時間を守ってくれるはずです。アナタが友達のせいで遅くなったというのなら、それは友達ではありません。そうでしょう」

「はい……」

 しおらしく頷く歩を見据え、母は数秒沈黙しました。そして呆れたようにため息を吐きます。

「もういいから、早く食べちゃいなさい」

 歩はランドセルを下ろして、お弁当の前に座ります。

「わたしはもう行くから。ちゃんと宿題するのよ」

「はい」と言い終える前に、勢いよく扉が閉ざされました。

 しん、と耳の奥で空気が緊張します。一拍して、授業ベルが鳴りました。人気のない三階にいてはうるさいくらいです。

 冷えたお弁当を開けると、三角おにぎりが詰まっていました。

 手を洗うために、席を立ちます。細く扉を開けて、廊下に誰も居ないことを確かめてから廊下の中程にある手洗い場まで走りました。

 冷たい水で手を流してから顔を上げると、窓越しに夜の校庭が見えました。一階の職員室と、夜間授業で使われている二階の教室の灯が落ちていました。

 ヒロムとリナは、ここの制服を着ていました。

 何年生なんだろう、と歩は真っ暗な廊下を見渡します。この廊下をふたりも歩いているのだろうか、教室はどこだろう、席は、と考えながら静まりかえった教室をつま先立ちで覗きます。

 と、横合いから強烈な光が差し込みました。

「なにをしているの」

 甲高い声が響きます。歩は文字通り飛び上がりました。

 夜の廊下にぽっかりと白い光がありました。その上に生白い顔が浮かんでいます。紺色のツーピーススーツを着た年配の女の人が、懐中電灯を持っていました。カツカツと靴底を鳴らして、その人は歩に詰め寄ります。神経質そうな目元が眇められます。

「歩ちゃん……」

 何度か会ったことのある女性教諭でした。母は確か「主任」と呼んでいました。教師を監督する立場だと教えてくれた母の、面倒くさそうな表情を覚えています。

「ここでなにをしているの」

「手を……洗いに……」

「もう洗いましたか?」

 丁寧な言葉とは裏腹に、女性の声はどんどん尖っていきます。

 母に似ているのだ、と歩は冷たくなっていく自分の指先を握りこみながら気づきます。自身の苛立ちで相手を威圧することに慣れた話し方なのです。

「あなたは、ここになにをしに来ているのですか?」

「お母さんを……」

「お母さんの授業が終るのを待っているのでしょう。遊びに来ているわけではないでしょう? お母さんのお仕事の邪魔をしたいの? 違うでしょう? なら、どうすればいいか、わかっていますね」

 初めから歩の答えなど求められていなかったのです。矢継ぎ早な声に追われるように、身を翻します。廊下に足音を響かせて、与えられた教室に逃げ戻ります。

 ばくん、と音を立てて扉を閉めました。遠くでコツコツと主任の足音がして、やがて消えていきました。

 机の上で、冷えたお弁当が口を開けていました。硬くなったおにぎりに湿気た海苔が張り付いています。赤いプチトマトと唐揚げが身を縮めています。

 ここになにをしに来ているのですか? という主任の詰問が蘇ります。

 歩が訊きたいくらいです。なにをしに? なんのために? 母と一緒に家に帰るためです。母の仕事が終るまで待つためです。無人の家に歩ひとりを置いておけないと判断したのは母です。

 歩は、こんなところより家のほうがよっぽどマシです。なにひとつ、歩が主体の理由などありません。それなのに、歩は邪魔者でした。

 歩は窓を塞ぐ分厚いカーテンの中に潜り込みます。ガラスで隔てられた明るい町並みを眺めます。さなえたちと喋ったコンビニの明るさを探します。

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