〈4〉 ④
いつもの下校ルートから一本入った道に、そのコンビニはありました。
母の仕事場である高校とは、ちょうど川を挟んだ位置関係です。コンビニの前には大学病院の駐車場が広がっていて、川原を抜けてきた風が絶え間なく吹き付けています。
店の脇に、制服姿の女の子がふたり、しゃがんでいました。ふたりの咥え煙草から立ちのぼる煙は風にかき消され、臭いばかりが歩の鼻を突きます。
見覚えのある制服でした。
母の高校の生徒のものです。夜間部には制服がありませんが、昼間に通う生徒たちは赤いストライプの入ったセーラー服を着用しています。本来ならばスカートは膝丈であるはずなのですが、ふたりが纏うものは足首までありました。
さなえが、歩の手を離します。「へーんぱい」と甘える猫のような声で、ふたりに駆け寄って行きます。
「おう」だの「よう」だのとふたりは顎をしゃくって挨拶を交します。
「なんや、ソレ」と歩をせせら笑ったのは、大柄な女の子でした。「小坊やないか」
「あなた」と長い髪を三つ編みにした細い女の子が、おっとりと首を傾げます。「妹は死んでるって言ってなかった?」
「あれは死産だったって話ですよ」へらへらと締まりのない笑みを浮かべて、さなえは歩を手招きします。「自己紹介しろ、歩」
煙草の臭いに包まれて、歩はさなえの制服の裾をつまみます。
「あれ? ビビられてる?」大柄な少女が苦笑します。
「ヒロ姉はデカいから」
「デブって言いたいんか? ああ?」
「そこまでは言ってないっす」
さなえの茶化しに凄んで見せた少女の様子に、歩はホッとします。部下たちに睨みを利かせる父の姿が重なったからです。歩はさなえの陰から出て、ふたりの少女と対峙します。
細い方の少女が立ち上がり、ローファーの底で煙草をねじ消しました。
「由代、歩、です」
「リナって呼んでね」三つ編みを揺らして、細い少女が微笑みます。「歩ちゃん」
「ヒロム」大柄な子が紫煙とともに吐き出しました。「ヒロムさんって呼びな。呼び捨てにしたり舐めた口利いたらぶっ飛ばすからな」
ふっとさなえが短く息を吐きました。笑ったようにも思わせぶりに息を継いだようにも取れる吐息です。
さなえの掌に押されて、歩は一歩踏み出しました。警戒したようにヒロムが立ち上がります。獣のように顎を引いて、上目に歩を睨みます。
「こいつ、平田社長の娘なんですよ」
歩は驚いてさなえを振り仰ぎます。
福留は歩を「坊ちゃん」と呼んでいます。男の子だと思い込んでいるのです。それなのに、彼から歩が通う小学校を聞き出したさなえは、歩を「娘」だと言いました。
歩は自分の格好を見下ろします。相変わらずのハーフパンツと汚れたスニーカです。下手をすればクラスの男の子たちよりも短い髪も低い鼻筋も、初めて出逢ったときからなにひとつ変わっていません。さなえは、そんな歩を女の子だと見抜いてくれたのです。
嬉しくて、さなえの制服を摘まむ手に力が入りました。
「ああ?」とドスの利いた声がしました。ヒロムが剣呑な表情をしています。「
「そういう冗談は……」
どうかと思うけど、と続けたリナは、まじまじと歩の顔を見詰めて真偽の判断に迷うようです。
「あなた、由代さんっていうの?」
答えろ、というように、さなえが歩の背を軽く叩きます。励まされた気分で、歩はぐっと顎を引いて声を張ります。
「お父さんの名前は平田忍です」
「なんで名字が違うんだよ。本当に娘なら、平田歩だろ」
「あたしは」さなえが、自嘲の滲む助け船を出してくれます。「父親の顔すら知らないっすけどね。遺伝子鑑定が必要っすか? 平田社長が、こいつを娘だっつって事務所に連れて来たのに?」
「おい」とヒロムが煙草を投げつけました。さなえは避けようともしません。火の粉がさなえの制服の腹に散り、吸い殻が風に流されてアスファルトを転がっていきます。
「誰に向かってその口の利きようじゃ」
「すんません」さなえは素直に頭を下げました。その口元が薄い笑みに歪んでいるのを、歩だけが見ていました。
ヒロムはわざとらしく舌打ちをし、しゃがみ込みました。薄っぺらく潰れた学生鞄から煙草のパッケージを取り出し、慣れた手つきで火を付けます。忙しない紫煙が吐かれては消えていきます。
「おう、歩」ヒロムが低く呼びつけます。「おまえ、いくら持ってる?」
「……なにを?」
「は? 金だよ。おまえ、オレたちにいくら払える?」
「ヒロム」リナが、諌める抑揚です。「社長の娘さんよ」
「だからだろ!」ヒロムの怒声は、けれど明らかに怯んでいました。「社長の娘なら、いくらでも金
「新入りって、なに?」歩は震えそうな足に力を込めます。「さなえちゃんと、お友達なんじゃないの? お友達になるのに、お金が必要なの?」
「友達なんかじゃねぇよ!」
「仲間、かしら」
「仲間と友達は違うの? 友達より仲間のほうが大事だよね? それなのにお金が必要なの? お金が必要な仲間は、お金がなくなったら仲間じゃなくなるってこと? じゃあ」
「いい!」ヒロムが煙草を振りかぶり、投げつける寸前で思いとどまったようです。ゆっくりと、自分の唇に煙草を戻します。「もう、いい。金は要らない。おまえも、仲間なんかじゃない」
ふふ、とリナが吐息で笑いました。
「わたしたち、仲間じゃなくてお友達になりましょうか、歩ちゃん」
「お金が要るの?」
「お友達になるのにお金が必要なの?」
歩は首を振ります。
「なら、お友達」リナはしゃがみ込んで、自分の隣を叩きました。「いらっしゃい。ガム、食べる?」
二秒だけ迷って、歩は「さなえちゃんは?」と訊きます。リナが「ん?」と優しく促します。
「さなえちゃんは、お友達じゃないの?」
「同じチームに入っているのよ。だから、仲間」
「チーム?」
野球やサッカーでもやっているのだろうか、と考えた歩の心を読んだのか、リナは「違うちがう」と朗らかに笑いました。
「こういうチームなの」
リナは鞄から紫色のステッカーを取り出します。ピンクの桜と薄紫の藤の花が散り、蔦が丸く絡みついています。金字が『流華』と踊っていました。
「
「……サッカーチーム?」
ヒロムが噴き出しました。リナは苦笑を浮かべています。
「レディースって、わかる? 夜に、みんなでバイクで走るの」
さなえの赤と白で塗装されたスクータを思い出しました。派手な色彩は、夜に事故を起こさないためなのでしょう。
「楽しそうだね」
ね、とさなえに同意を求めましたが、彼女は黙ったまま首を傾げました。自分のいるチームなのに、その活動のなにが楽しくて所属しているのか自分でもわかっていない様子でした。
「座っていいよ」とさなえが囁きます。
「うん」と歩はさなえの裾を手放して、リナの隣にしゃがみました。けれど重たいランドセルに引っ張られて、尻餅をついてしまいます。ふたりのように巧くしゃがめません。
「ガム、食べる?」
リナがピンク色の板ガムを差し出してくれました。梅味です。
歩は首を振ります。
「ガム、嫌い?」
「ガムは、辛いやつじゃないと食べちゃだめって言われてるの。体に悪いからって」
「誰に?」
「お母さん」
「体に悪いから!」はっ、とヒロムが鼻を鳴らしました。「いい子ぶりやがって」
さなえにも言われた言葉でした。いい子ぶる、とは悪いことなのでしょうか。いい子のフリをしなければ、母の機嫌が悪くなるのです。母は、いい子ではない歩を見放してしまうかもしれません。母に捨てられたら、歩はひとりぼっちです。父が気紛れに会いに来てくれるまで、母なしで生きられるとは思えません。
母に見捨てられることは、明確な恐怖でした。
歩は反論も言い訳もできず、俯きます。と、視界が陰りました。柔らかい感触が歩を包みます。甘い匂いが鼻に触れました。
「いい子ね」
リナの、優しい声が頭上でしました。彼女の腕が、歩を抱き締めています。掌が、歩の頭に添えられていました。
「いい子。でも無理しなくていいの。歩ちゃんは歩ちゃんらしく、したいことをしたっていいの」
「親なんて」ヒロムの唾棄が、少し遠のきます。「勝手にオレたちを産んだんだ。オレたちが思い通りにならなかったからって、オレたちのせいじゃねぇよ。あいつらの自業自得だ」
ヒロムの理論はどこかずれている気がしました。それでも「オレたちのせいじゃない」という言葉は歩の深い所に刺さります。なにもかも自分が悪いのだと言い聞かせてきた歩にとって、自分は悪くない、という主張は新鮮に届きました。
歩はリナの腕に触れます。硬い腕でした。
リナが離れていきます。すぐ傍にさなえがしゃがんでいました。血豆のできた掌で歩の背を撫でてくれています。そしてヒロムが、真後ろに立っていました。まるで歩を案ずるように、覗き込んでいます。
荒々しく罵声を飛ばしていたヒロムの殊勝な顔に、歩はくすぐったさを感じます。なにもおかしくないのに、笑みがこぼれます。
「なに笑ってんだよ、ブス」とヒロムが舌打ちをして顔を背けます。照れた雰囲気が耳朶を染めているようです。
歩は紫色のステッカーをランドセルの側面に貼ります。リナに勧められるまま、梅味の板ガムを半分だけ口に含みます。残った半分は、さなえにあげました。甘みは最初だけで、酸っぱさだけが続きました。口の中に溢れる唾液をこぼさないように、歩は黙々と噛み続けました。
さなえは、友達ではないと言われたのに、リナやヒロムと車座になって話していました。楽しそうに、歩のクラスメイトたちが休み時間にそうしているように、とりとめのない話を続けています。
そこに歩が加わっていました。
テレビの話題にはなりませんでした。歩の知らない人の話題も出てきました。そのたびに、さなえやリナが説明してくれます。
三人は、歩の話にも耳を傾けてくれました。進化論も超弦理論も「興味ないわぁ」と笑い飛ばし、そのくせ「なに言ってるかわからん」と説明を求めてくれるのです。そして「そんなこと知ってるなんて凄いなぁ」と認めてくれるのです。
歩は、これまでで一番たくさん話しました。
話して、聞いて、会話を楽しみました。誰かと話すことは楽しいのです。クラスメイトたちが休み時間を待ち遠しそうにしている理由がわかりました。
三人は、歩が初めて作った仲良しグループでした。
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