8 たとえ仮初の平和だとしても


 翌日、セレスティアはアレンディスの供として、ネベリスとともに馬車に乗り、アレンディスが乗る馬車のあとについてラグノール侯爵の屋敷を出た。


 『聖杯の儀』を行う神殿は、ラグノール侯爵の屋敷からさほど離れていない場所にあるそうだ。


 オルディアン王国の神殿は、夫婦神である天空の神オールディウス神と大地の女神ディアヌレーナ神の二神が一緒に祀られている神殿の数が最も多い。オルディアン王国の王族が二神の加護を受けていることを考えれば当然だ。


 見目麗しい新たな国王が『聖杯の御幸』に訪れたという噂が一日の間に広まったのだろう。侯爵家から神殿までの道の沿道には、国王の乗る馬車をひと目見ようと老若男女が集っていた。


 アレンディスがラグノール侯爵やラソルとともに乗る馬車は立派な箱馬車で、アレンディスの姿は窓から見えるかどうかもわからないのだが、領民達にとっては国王が『聖杯の御幸』に来たというだけで一大事なのだろう。


 わあっ、と潮騒しおさいのように上がる歓声に混じって、


「どうかこの地に豊かな実りを!」


「神々のお恵みをもたらしてください!」


 と人々がこいねがう声が次々に聞こえてきて、アレンディスの馬車のあとに続くネベリスの馬車に同乗しているセレスティアは、無意識に唇を噛みしめる。


 アレンディスが国王に即位してから初めて行う『聖杯の儀』。


 この成否がアレンディスの治世の今後を決定づけると言っても過言ではない。


 無事に聖杯を魔力で満たせれば貴族や民の支持はいや増すだろうが、万が一、失敗した場合は……。


 かけられている期待が強い分、アレンディスの名声は地に落ち、前王派が勢いを取り戻して、ふたたび内乱が起こるだろう。


 ネベリスが絵図を描き、ほぼそのとおりにことが進んだ三か月前と異なり、泥沼の内乱に突入したら、いったいどれほどの無益な血が流れることか。


 たとえ仮初かりそめの平和だとしても、この平穏が続くかどうかが、『聖杯の儀』が成就するか否かにかかっているのだ。


 己に課せられた重責を再認識した途端、身体中から血の気が引き、きゅぅっと胃が縮む。


 ぎゅっと膝の上で両の拳を握りしめなくては、かたかたと震え出してしまいそうだ。


「緊張しているようですね」


 不意に、前に座るネベリスに声をかけられ、セレスティアはびくりと身体を震わせた。


 いつの間にかうつむいてしまっていた視線を上げると、ネベリスが感情の読めない湖水色の瞳でじっとセレスティアを見つめていた。


 馬車の中にいるのはいつものとおりネベリスとセレスティアの二人きりだが、さしものネベリスも、今日はいつも読んでいる書類を手にしていない。いつも置かれている書類箱がないだけで、馬車の中がやけに広く感じる。


「大丈夫です。参列者の視線はすべて陛下に集中しますから、従者である『セス』に注目する者などひとりもいません」


 淡々とネベリスが告げたとおり、今日の主役はアレンディスだ。見目麗しいアレンディスに皆が見惚れ、セレスティアに目を向ける者など、ひとりもいないだろう。


 加えて、『聖杯の儀』は国王が二神へと祈りを捧げる神聖な儀式ということで、神殿内に入れる者は厳しく制限されている。


 アレンディスとネベリスに王都から同行している神官長のエルメリス。アレンディスの従者であるセレスティアとラソル。それとラグノール侯爵と数人の貴族だ。集まっている民衆は『聖杯の儀』を見ることはかなわない。


 これは、セレスティアがアレンディスの代わりに聖杯に魔力をそそぐ事態になっても、それがわからぬようにするという配慮と同時に、『聖杯の儀』の神秘性を保つためでもあるらしい。


 そのほうがアレンディスの権威が高まるだろうというネベリスの指示だそうだ。


 魔力の流れを感じ取ることができるのは魔法に長けた者だけだが、参列者の中に魔法の才能を持つ者がまぎれていないとは限らない。不安要素はできる限り減らしておくというのがネベリスの方針なのだろう。


「『聖杯の儀』自体は、何度も経験があるのでしょう?」


「あれが『聖杯の儀』と呼べるものかはわかりませんが……」


 ネベリスの言葉に、低い声で応じる。


 セレスティアが聖杯に魔力をそそいだきっかけは、前王が『聖杯の御幸』を取りやめたことにより、領内の収穫量が徐々に減っていったことだった。


 祖母が王族だった自分がもし聖杯に魔力をそそげたら、領民を助けられるかもしれない……。


 そう考え、五年前、神殿にお参りした際にこっそり魔力をそそいでみたところ、セレスティアの魔力で聖杯を満たすことができたのだ。


 それ以来、年に一度、神殿にお参りするたびに人目につかぬように聖杯に魔力をそそぐようになった。


 おかげでマスティロス領は不作知らずで過ごせたが、一年前、セレスティアが聖杯に魔力をそそいでいることを知った父親は、そのことを口外することを固く禁じた。


 セレスティア自身、本来ならば国王が執り行うべき『聖杯の儀』を公爵令嬢に過ぎない自分が行っているのを不敬と捉えられて断罪されるのを恐れ、元から口外する気はなかったのだが……。


 てっきり父親も同じ危惧を抱いたと思ったのだが、父親が王太子との婚約を整えてきたのは、セレスティアが魔力をそそぐことを知って間もなくだった。


 どうやら父親は、セレスティアを王太子妃にすれば、国王に代わって『聖杯の儀』を代わりに執り行えるため、王族の権威を保てると国王達を説得したらしい。


 同時に、不作にあえぐ他領にセレスティアを貸し出す密約を整えようとしていたらしいが……。


 結局、セレスティアが派遣される前にアレンディスがったため、契約は果たされないまま、父は処刑されてしまった。


 そういう意味では、目の前に座るネベリスは父のかたきと言うべき存在だが、仇を討ちたいと思うかと問われたら、セレスティアは首を横に振るだろう。


 亡き父は、セレスティアを政治の道具としか見なさない人物だった。


 セルティンを産んだあと、産後の肥立ちが悪かった母が他界して以来、いっそう贅沢ぜいたく放蕩ほうとうにふけっていた父親とは、一緒にお茶はおろか、食事をとったことすら数えるほどしかない。


 屋敷にいた頃、いつもセレスティアのそばにいてくれたのは、七歳年下の弟のセルティンだ。


「陛下もできる限りご自身の魔力をそそげるよう努力なさるでしょうし、最悪の場合は、エルメリス殿もいます。ひとりだけの力でなんとかしようと気負う必要はありません」


 ネベリスの言葉に、このあと待ち受ける『聖杯の儀』から現実逃避をするように思考を遊ばせていたセレスティアは、はっと我に返る。


 平坦な口調で告げるネベリスは、セレスティアを励ます気があるのかさえ疑問だ。


 だが、変に期待をかけられるより、突き放されるくらいが余計な緊張をせずにすんでちょうどいい。


「わかりました。陛下の御代を支えるため……。いえ、私とセルティンが平穏な日々を迎えるために、『聖杯の儀』を成就させてみます」


 ネベリスに美辞麗句を言っても無駄だろう。


 正直に心のうちを伝えると、今日初めてネベリスの表情がゆるんだ。


「ええ。ご自身のためにお願いします。セレスティア嬢」


 あえて本来の名で呼んだネベリスに、セレスティアは唇を引き結んで頷いた。


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