3話 光秀

 光秀がたどり着いた安土は渦中の信長の居城と思えぬほどに静かであった。街の者も、城の者も誰もいない。全く持って静かな城下。普段であれば気にすることもない自らの歩む足がたてる音。


 その一歩一歩。

 土を踏みしめる草履の音。

 ただいつもの自らの音。


 それが地から鳴り響き草木にしみいるのがわかるほどに安土はただ広大に静かであった。


 安土に今在るのは光秀と信長のみ。光秀の兵すらもまだついてはいない。

 本来おるはずの留守居の者すらも謀反を聞きすでに退去し、全くのもぬけになった安土城城内に入りなお一人歩む。


 友の墓所にふさわしい天守閣の最上階を目指して。


 天守最上階、信長の間にしつらえてある一段高い場。

 いつも彼が座っていた場所。


 多少癖がついている座布団を整え直し、その上に光秀は信長の首をことさらいとおしげに安置するとできる限りで彼の御髪を整え、正面に正対し在りし日のように彼の前に座った。


 ここで常に天下と世をどうなすか思案していた信長の姿が浮かぶ。


(ほんの数刻前まで共におったというに、もう遥か遠くになったような気がするな。)

 光秀は友の首に笑いかける。

「香も茶も無いが許せ。言葉すら何一つ私にはもうないのだ。」十兵衛は眼を閉じ深く懇ろに手を合わせる。


 本能寺までのそれまでと、安土からのこれからの事。

 何もかもを今は心の外に置きただ一つ信長の事だけを己が心に映す。




 しばしの時を祈りにささげた光秀は眼を開いてすくっとたつと後ろ髪引く信長への思いを断ち切る様に踵を返し信長の間を後にし、口を真一文字にしてずんずんと歩様勇ましく天守を下へ下へと下り日ノ本の見果てぬほどの広大な大地へと戻っていく。


「これで信長との縁も終えた。」天守閣の外にまで出てようやく明智惟任光秀は言葉を生んだ。


 それに続けて、やり切ってほうと安堵して緩んでしまいそうになった心を不快として、息とともに吐きすてていく。


 長く、強く。吐き出しきる。


 そしてすぐさま空になった胸の内に安土の新たな息吹を満たして、明智はそれをもって自らの生を生きぬく決意とした。



 城の正門にまで来た光秀を待ち受ける軍勢がいた。それは彼の直参の利三率いる軍勢であった。

 西国へ進軍している秀吉への救援のために軍を整えていた明智光秀はその陣中において“敵は本能寺に在り”と突如吠え家来すべてを置き去りに単騎で駆けだしていった。

 斎藤利三は突如として出陣した主を方々探しまわりその最中に本能寺にて明智謀反との報を聞く。


 それを聞いた利三はそれが正しきかをまず疑った。

 確かめるためには主光秀と合流することが先決である。


 利三は手勢をまとめて光秀と合流するため主が謀反をしてようがしてまいがとにかく必ず来るであろう場所はどこかと思案しそれを安土と定め軍を動かした。算用よく合流できた光秀は謀反という大それたことをしでかしたにしてはつきものでも落ちたかのような穏やかな顔をしていた。

 もはや天下を手にせんとしていた信長相手に謀反を起こしたという真偽不明な情報。利三は光秀の表情で謀反を起こしたのかをまず判断するつもりでいた。

 昂った興奮したようなやり切った表情であれば謀反を起こしたのだろう。

 鬼面の如き怒りを宿しておれば謀反を起こしてはないだろう。

 そのような想定を斎藤利三はしていた。


「利三、よく私がここにいるとわかったな。」

 しかし、思いもよらなんだ光秀の落ち着いた表情と声色をどうとるべきか利三は悩んでしまい主に言葉を返すことができずただ、頭を下げ光秀を迎える事しかできなかった。そのような利三に

「天守閣に火を掛けい。全てを焼かせるのだ。安土の天守閣はもう何も残してはならん。すべて持って行かせる。」と光秀が下知する。その言葉に主のなしとげたことと表情の訳を察した利三は言われるままに天守に火を放つように部隊に指示を廻す。

「利三。」ひとしきり指示を終えた利三を明智は再度傍に呼ぶ。そして利三の問いを待たずに言い放つ。強く。


「利三。私は天下を取るぞ。あの猿めを降して。欲しゅうなってしまった。行くぞ!」光秀はそう脇に控える直参に言い切り馬にまたがると天下を手にするため京目掛けて駆けだした。その瞳に今までにない野心の炎をてらてらと燃やしながら。

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奇想譚本能寺 作久 @sakuhisa

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