第40話

 旅籠はたごで眠っていた時雨は外の騒がしさで目を覚ました。外からざわざわとした声が聞こえてくる。木戸を開けてみると遠くの空で煙が上がっていた。半鐘はんしょうの音ががんがん響いている。


(また、火事か)


 時雨しぐれはそのまま火事を眺めていることにした。今日は松風まつかぜ中屋敷なかやしき下屋敷しもやしきを一気に襲うつもりだ。

 松風まつかぜ上屋敷かみやしきから夜遅くに戻り、すぐに太刀の手入れをした。無茶な使い方をしたせいか、かなりの血と脂が巻いていたので拭き取るのに夜明けまでかかった。

 眠りにつきどれほどの刻が経ったのかは分からないが、先程の半鐘はんしょうの音で目を覚まさせられた。ぼーっと煙を眺めている。また、うつらうつらとし始めた時に時雨しぐれの眠気を一気に吹き飛ばす言葉が飛び込んできた。


「燃えているのは松風まつかぜ家という大名屋敷だそうだ」

「あぁ、今朝の瓦版に出てた、皆殺しにあったというあの家か!」

「なんでも、火を消しに行った同心や火消し達の中におかしくなっている奴まで出ているらしい」


 時雨しぐれは窓から身を乗り出し、外で飛び交う噂に耳を傾けた。


松風まつかぜ家の屋敷が燃えている?)


 直ぐに服を着る。短刀を懐に入れ、急いで階下に降りた。店の外に出て、噂話をしている者達の中に飛び込み、一人の胸倉を掴んだ。


「どこだ! 松風まつかぜ家のどの屋敷が燃えている!」


 突然飛び込んできて胸倉を掴まれた男は、その手を振り払おうとした。しかし、手は全く動かない。見下げてくる眼は殺気を帯びており、いつでも首をへし折るというような強い力で締め上げてきた。

 噂をしていた男は目を白黒させ、取りあえず放すように手を叩く。周りにいた他の者達も必死で引きはがしにかかった。

 時雨しぐれは男が気絶する寸前にようやく男を落とした。手を放された男は路上に尻餅をつく。時雨しぐれに掴まれていた男が恨めしそうに見上げながら咳き込んでいる。周りには人集りが出来ていた。


「おぃ、あんた。何しやがるんでぃ。それが人に物をた……ず……ね……」


 瘴気しょうきを含んだ空気がそこら中を支配する。

時雨の眼は人斬りの眼になっていた。息巻いていた者達は動くことも出来ずに固まっていた。近くにいた女性が嘔吐おうとする。それは、何人にも及んだ。


「もう一度聞く。松風まつかぜ家のどの屋敷だ?」


 最初に胸倉を掴まれた男は震えながらやっとの思いで声を絞り出した。すでに地面は濡れている。


「あ、ぅ、下、下・・・・・・屋敷だ・・・・・・」


 男はそこまで言うのが精一杯だった。

 時雨しぐれは小さな声で済まなかったと言い、男に一朱金を一枚渡した。そして、煙の上がる方へ歩き出す。周りを囲っていた者達は波が引くように道を開けた。後には半鐘はんしょうの音だけが響いていた。

 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□


 時雨しぐれは野次から少し離れると全力で走りだした。

 目的地は松風まつかぜ下屋敷しもやしきの風上だ。

先程の噂が本当ならば、阿芙蓉あふようもしくは紅笑芙蓉こうしょうふようが燃えているはずだ。風上にいないと自らを危険に晒すことになる。

 近くまで行くと、その惨状が目の当たりになった。もはや、証拠どころではない。火消し達も風下に立たず、消火もせず、ただ延焼を防ぎ様子を見ているだけのようだ。時雨は近くにあった木に寄りかかり、暫く火事を眺めていた。昨夜のうちに下屋敷しもやしきへ侵入していればこのような事にはなっていなかったかも知れない。しかし、後悔してもどうにもならない。

 時雨しぐれは燃えさかる炎を眺めながら次にどのように動くかを考えていた。それは、松風まつかぜ家の主君を直接狙うか、江戸家老を狙うかだ。

 狙うのが楽なのは江戸家老だろう。主君は今頃、江戸城に呼び出されているはずだ。

時雨しぐれは襲う標的を定めるともう一度炎に包まれた下屋敷しもやしきを見つめた後、走り出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る