第16話 

「あ、あんた、桂真之介かつらしんのすけかい」


時雨しぐれは呆然とした。

桂真之介かつらしんのすけ時任ときとう家の家臣である。

十五の元服げんぷくのときから三つ下の自分の警護役として常に側にいた。自分が十五のときに起こした事件までは。

 それからは警護のにんは解かれ、次期当主・時任兼盛ときとうかねもりの側近及び警護役に付いていた。

その桂真之介かつらしんのすけは江戸に来ていた。現当主・兼房かねふさが隠居するので幕府への挨拶と、新当主・兼盛かねもりの顔見せのため江戸に行くのに随伴ずいはんしていたのだ。


「姫、ご無沙汰しております。そのご様子だと相変わらずのようでございまするな」


真之介しんのすけ時雨しぐれの護衛であったが一度として勝ったことはなかった。

それどころかさんざん打ちのめされる毎日であった。そしてあの日、真之介しんのすけを含む側近達は彼女を守れなかった。


「あんた、なんで江戸にいるんだい?」


懐かしい声を聞き、時雨しぐれの手は震えていた。


「姫、とりあえず短刀を下ろしていただけませぬか? 

痛いのですが」


真之介しんのすけの首筋に震える短刀の切っ先がちくちくと当たっている。時雨しぐれは慌てて短刀を首筋から離した。

振り向いた真之介しんのすけ精悍せいかんな顔つきになっていた。もう幼さはない。

真之介しんのすけが膝をつき、監視していたことの非礼をわびる。


「よしなよ、真之介しんのすけ。今の私は時任ときとう家の安岐あき姫じゃなく、吉原喜瀬屋よしわらきせや時雨太夫しぐれだゆうでありんすよ」


 時雨しぐれはからかうようにくるわ言葉を使った。真之介しんのすけは黙って俯いている。


「なんか用があるんでしょ、話なさいな」


真之介しんのすけの腕を掴み、立たせる。

そのまま寺の石段に腰を掛けた。真之介しんのすけも少し離れた場所に腰を掛ける。

時雨しぐれが近づく。

真之介しんのすけが離れる。

それは真之介しんのすけが石段から落ちるまで続いた。


「あっははは、なにやってるんでありんすか」


時雨は腹の底から笑っていた。真之介しんのすけは変な体勢で落ちたため起き上がるのに必死になっている。

時雨しぐれ真之介しんのすけに手を伸ばした。


「ほら。捕まりなよ」


真之介しんのすけが差し出された手を掴むと、時雨しぐれは一気に真之介しんのすけを引き寄せた。同時に真之介しんのすけの唇が、時雨しぐれの唇で塞がれる。

真之介しんのすけは目を白黒させていた。

今は関わりが無いといっても昔仕えた方、それも現当主の娘だ。真之介しんのすけの中では大不敬罪になる。必死にふりほどこうとするが、後ろに回された両腕が離れない。

現、時任家武術指南役ときとうけぶじゅつしなんやく真之介しんのすけの技量・力を持ってしても微動だにしないのだ。

やがて、唇だけがそっと離れた。真之介しんのすけ安岐あき姫を見上げるような形になった。


真之介しんのすけ、今、私はただの遊女ゆうじょだよ。別に気にしないでいいさね。私が好きでやっているんだから。

それとも許嫁いいなずけかすでにめとったかい?」


時雨しぐれの目は懐かしい者を見る目であり、そして男を見る眼になっていた。


「いっ、いや、それがしはまだ、その」


真之介しんのすけは顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。


真之介しんのすけ、もしかしてまだかい?」


その言葉にさらに真っ赤になる。真之介しんのすけ時雨しぐれより年上のはずなのに完全にもてあそばれていた。


「そーか、そーか、思い人は?

許嫁いいなずけは?」


時雨しぐれはここぞとばかりに問いを投げかける。


「あー、いや、その、想い人はいるのですが、そのぅ」


真之介しんのすけは勘弁して欲しいというように口ごもっていた。

もう一度、真之介しんのすけの唇は塞がれた。今度は舌が侵入してくる。


「い、いいます。いいますから勘弁してください。

その方は新藤亜紀しんどうあきという方で先年旦那様を亡くされた方です。

今は喪に服しておられますし、旦那様を今でも愛しておいでなので私ごときを相手にしていただくことは叶わない方です」


「で、いくつなの、その亜紀あきって人」


舌が真之介しんのすけの唇を舐める。


「歳は二十一です。もう、勘弁してください」

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