第33話 見舞

***


 綾菜ちゃんの言っていることこそ、分からない。

 謎の言葉が頭に残っていたので、家に帰った時、自室のベッドの上に横になるカビゴンのぬいぐるみに目が止まった。

 元々は特に好きではなかったが、だんだんと可愛く思えてきた。

 ぐうたらで食べてない時は寝ているという設定で、その生活は羨ましい。青い巨大な体躯をしており、これもほぼ怪獣である。余計に親近感が湧いてきた。


 机の引き出しから、兎の栓抜きを出す。何となく使わないでとっておいてある。

 駿介に騙されて呼び出された日、帰りに雪間くんと店に寄って買った。彼に見せたら、しみじみとした顔で「かわいいですね」と言っていた。そうでしょう、と得意になっていたら、笑われた。


 そういう半端な記憶ばかりが消えないで積み重なり、どんどん身動きができなくなっているような気もする。

 時々、胸が塞がれてたまらないような気持ちになるが、だからといってどうしたらいいのかも分からないのだった。

 

 カビゴンの上に栓抜きを乗せたら、白いお腹を滑って落ちた。目も口も直線の顔は、感情が読み取れない。どこかの誰かみたいだ。


 カビゴンのお腹に顔を押し当てて横になっていたら、いつの間にかぐっすり寝ていた。


 こういうところが、自分は駄目なのかもしれないと思う。


 高校の先輩から相談を受けたのは、そんな時だった。


***


 二月に入った頃、ガタラで会った駿介から驚きの報せを聞いた。


「森が大変なんだよ。肋骨にヒビが入ったって」


 雪間くんは高熱とひどい咳を伴う風邪をひいた。熱が下がった後も、胸がひどく痛むので病院に行ったら、肋骨にヒビが入っていたのだという。

 その場合、固定して安静にするくらいしか治療法はなく、年休消化期間にも入ったので、家で休んでいるらしい。

 

 滅多にない貴重な長期休暇で、肋骨にヒビを入れるなんて。何て運の無い人だろう。気の毒だし心配である。


「今度の土曜日、一緒にお見舞いに行かない?」


 駿介からそう誘われて、矢も楯もなく頷いた。


***


 雪間くんが一人暮らしをしていることは知っていたものの、もちろん家になど行ったことはなかった。

 駿介とは、最寄り駅で待ち合わせた。早目に着いて待っていたら、乗っている電車が事故の影響で止まって動かなくなったと連絡が来た。


『いつ動くか分かんないから、先に行っていて』


 メッセージの末尾には住所が記されていた。


 スマホの地図を頼りに歩くと、小綺麗な三階建ての建物に着いた。

 入口はオートロックで、インターホンで住人を呼び出して開錠してもらうようになっている。

 教えてもらった部屋番号を入れると、力の無い声がして鍵が開いた。


 部屋のドアの前に立ち、もう一度インターホンを押す。

 鈍く光る黒いドアを見つめていたら、急に緊張してきた。そのうちに駿介は来るはずだが、しばらく二人きりという状況にはなる。


 ドアを開けた雪間くんは、いかにも体調が悪そうだった。白いTシャツに、カーキのストレッチパンツを履いている。骨ばった体だが腰が細い。


「大丈夫?」


「はあ、まあ。どうぞ」


 喋るだけで咳が出るようだ。苦しそうに息をしながら、部屋の中に入っていく。

 まだ新しい綺麗な部屋だった。入ってすぐがキッチンとリビングで、奥にもう一部屋ある。

 片付いていて、物があまり無い。背の高い本棚が一つあるのが目立つくらいだ。

 ローテーブルの前に座った私に、雪間くんがコーヒーを入れてくれた。


「咳出てますがうつる病気ではないので。咳喘息になっているだけです。しゃべると咳が出てしまって」


「無理しないで。肋骨は大丈夫なの? 痛い?」


「咳すると痛みますが、何もしなければ大丈夫です。ひどかった時、ちょっと死ぬかと思いましたが」


「雪間くんが言うと洒落にならない」


「そうですね」


 出されたマグカップがうさこちゃんの柄だったので、笑ってしまった。


「可愛い」


「そうでしょう」


 ささやく声が優しい。弱っているからなのか、今日は素直だ。いつもは愛想の無い人なので、穏やかな笑顔を前に、調子が狂ってしまう。

 本棚に並んだ本を眺める。ミステリーが多いが、下段にうさこちゃんの絵本が並んでいた。


「うさこちゃんだ。そういや、全部持っているって言ってたね。どれが一番好き?」


「どれだろう。『うさこちゃんとうみ』ですかね」


「どれ? 見てもいい?」


 同じ形の絵本がずらりと並んでおり、中々見つけられない。本棚の前で背に書かれた題を目で追っていたら、すぐ横に雪間くんが座った。目の前に白いTシャツの腕が伸び、小さな四角形の絵本を一冊抜き取った。


「はい」


 片膝をつき、絵本を差し出す。

 指の長い綺麗な手だ。整った顔が間近にあって、涼しい目がこちらを静観している。Tシャツの衿元から鎖骨が覗いていた。

 走った後みたいに、自分の鼓動をはっきりと感じた。動揺が悟られるのではないかと、思わず目をそらす。

 

 奥の部屋を仕切る引き戸は開いていた。紺色の布団のようなものが、軽く畳まれて床に置いてある。端にジッパーがついているのが見えた。布団にしては変わっている。


「あれ何?」


「寝袋です」


「は?」


「寝袋を広げるとああなります」


「そうじゃなくて。まさか寝袋で寝てるの」


「はい」


「何で」


 雪間くんは不思議そうに首を傾げる。


「引っ越した時に忙しくて、寝具が揃えられなくて。とりあえず持っていた寝袋で寝ていたら、それで不足はなかったので、そのままになりました」


「あほかあ! そんなだから、体調崩すんだよ!」


 思わず大声が出てしまった。

 私の声に被せるように、間の抜けたインターホン音が響いた。

 玄関に走りドアを開けると、呑気な顔の駿介が寒そうにコートのポケットに手を入れ、肩をすくめて立っていた。私を見ると笑顔になる。


「お待たせ……」


「駿介! ベッド買わないとだめだよ!」


「へっ?」



「突然、何かと思ったよ」


 駿介は自分でコーヒーを入れて、くつろいだ様子でテーブルの前に腰を下ろした。


「色っぽい話かなって。びっくりした」


「何を言っているんだ。大体、駿介だっておかしいと思わないの。ここに泊まったりしてるんでしょ?」


「別に」


「駿介の分の寝袋もあります」


「ああ、もう! 話が通じない!」


 私は頭を抱えた。駿介はにっこりと笑う。


「防寒性能の高い、良い寝袋だよ? 冬キャンプもできる」


「そういう問題じゃない。お願いだからベッドか布団を買って。何なら私が今ニトリで買ってくるから」


「でも、もうすぐ引っ越しですし」


「そうだけど、そうだけどさあ」


 この人達は本当に資産家の一族なのか。だったら寝具くらい買ってほしい。何かが大きくずれている。


「あなたがそこまで言うなら、布団くらい買ってもいいですけど」


「本当にお願い。一刻も早く。今、必要だよ」


「じゃあ花音ちゃんと俺で、森のベッドを買いに行こうか。はは、同棲するカップルみたいだね」


 駿介が楽しそうに肩を揺らす。


「誰と誰がカップルなの、それ」


「俺と花音ちゃん」


「同棲カップルが何で、他人のベッドを買いに行くんだ」


「ネットで買います」


 雪間くんがむすっとして言った。

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