第18話 幹子

              ***


 しかし警察は来てしまった。通行人の誰かが通報したらしい。スポーツ選手のような体格の駿介が暴れていたのだから、いたしかたないところはある。


 ちょっとした感情の行き違いはあったが、もう解決したと全員で警察官に謝った。


「喧嘩したんですけど、もう仲直りしたので大丈夫です!」 


「せや。兄ちゃんも落ち着いたしなあ?」


「はい。すみませんでした」


 必死にその場を取り繕う私達に、警察官は不思議そうな顔をしてたずねた。


「あなた達は、何の集まり?」


「……映画サークル仲間です」


 でたらめもいいところだが、それ以上は追及されなかった。ただ、私と駿介の痴話喧嘩が原因とされたことには不満が残る。


 今、私達は海が見えるベンチの周りに集まっていた。座る駿介を取り囲むような形になっている。


「二重人格? 普段は眠っていた人格が呼び覚まされたの?」


 勢いこんでたずねる私に、雪間くんは首を横に振った。


「そんな華々しいものでは……駿介は色んな条件が重なると、霊の声が聞こえる状態になるんです」


「普段はないんだよ。俺は、森みたいに見えはしないし。時々、聞こえるだけ。例えるなら、普段は携帯の電波が全然拾えない僻地なんだけど、何かのはずみで、一瞬だけ電波が届く時がある、みたいな感じ?」


 駿介の口調は明朗にして軽かった。すっかり元に戻っている。


「そばに何か言いたいことがある霊がいて、俺に隙があるとそうなるみたいなんだよね。飲みすぎたりとか、動揺している時がまずいみたい。頭痛と耳鳴りがして息が苦しくなる。お寺の鐘を耳元で鳴らされるみたいに、変な声が脳内で反響してさあ。そうなるともう何か全部やんなんちゃってキレちゃうんだよねえ」


「ガラスの十代みたいになって、周囲に当たり散らすわけです」


 雪間くんが淡々と言う。


「迷惑……いや、駿介も大変だけど」


「ごめんね。俺ももう大人だし、いい加減、直そうとしているんだけど、やっぱ駄目なんだよね」


「そんな、左利きが直せないみたいな軽さで」


「駿介がああなった時は、言葉を尽くして褒めそやすと自信を取り戻し、落ち着いて元に戻ります。喘息の発作のようなものですね。台本が何パターンかあって、親族は扱い方を心得てます」


「全体的に軽くない? それでいいの?」


 私の言葉に、雪間くんは不思議そうに首を傾げる。これが普通なのか。この人達の家は何だか独特のようだ。


「そうだったんですね。私が無理を言って、すみませんでした」


 幹子さんがしとやかに頭を下げる。その横でおじさん二人も、申し訳なさそうな顔をしていた。


 おじさん達と幹子さんは知り合いだった。そもそも今日も、駿介を見つけたおじさん達は幹子さんに連絡し、それで幹子さんがここに来たのだという。

 事の起こりはしばらく前、幹子さんが働くガタラというワインバーに、駿介が会社の先輩に連れられてやってきた。若く見えるが幹子さんは実際は四十半ばで、バーの経営者でもあった。

 二人はカウンターに座った。先輩はかなり飲み、そして駿介にも飲ませた。酔いつぶれて寝る先輩の横で、駿介が突然、さめざめと泣きはじめた。


「……分かったよ、言えばいいんだろう」


 駿介は舌打ちすると、とろんとした目で、名乗ってないはずの幹子さんの名前を呼んだ。


「康子って人が、あんたに謝りたいって。お店をやらせてごめんってさ」


 本当にびっくりした、と幹子さんは言う。幹子さんは、母の康子さんを先月亡くしていた。


「母は父と離婚して、小さなスナックをやっていました。半年ほど前に、手の施しようのない癌が見つかったんです。私は普通の会社員だったんですが、母が亡くなった後、貯金をはたいて、店をワインバーに改装しました」


 おじさん達二人は、元々は康子さんの店の常連客だった。娘の幹子さんを応援しようと、バーにもよく来ている。駿介が店にいた時に、たまたま二人はその場にいた。他の客はいなかった。

 全く知らない青年が、絶対に康子さんしか知らないことを喋るのでぞっとした、という。


「俺たちの名前や仕事、家族のことも知っててさ。怖かったよ」


「悪ふざけにしたって、目的が分からないし」


 幹子さんも最初、手の込んだいたずらかと思ったが、駿介の言葉を聞くうちに考えを変えた。


「森さんの言葉が、本当に母の言いそうなことだったんです。私にしか分からないと思うんですが。だから、これは本当に母が言っているんだと思いました。でも私、お店をやるのは元からの夢だったんです。母は、自営業は不安定だから、絶対にあんたはやめておきなさいと言って、生きている間は許してくれなかった。まさか、悪いと思っているなんて。森さんは泣いてた」


 その時、カウンターに突っ伏していた先輩が目を覚ました。店内のただならぬ空気に怯えたのだろう、お金を払って駿介を連れて逃げるように店を出て行ってしまった。


「私、後で後悔したんです。あの時、驚いてしまって何も言えなかった。お店は私がやりたくてやっているから、お母さんは何も悪いと思わなくていいって、そう言えばよかった。写真に手を合わせて何度も言ったけど、伝わっているのか分からない。だからどうしても、もう一度、森さんに会いたかったんです」


「俺達も幹子ちゃんからその話は聞いていてさ。そしたら今日、たまたま、あんたを見つけた。あんた、背が高くて目立つから、すぐ分かったよ」


 サングラスのおじさんが笑う。確かに、他の人よりも駿介は見分けやすい。

 おじさん達は幹子さんを呼び、自分達でも駿介を探した。それで、あんな混乱した追いかけっこになったわけだ。


「別に逃げることなかったじゃない」


「嫌だよ。必ず聞こえるわけじゃないんだ。無茶なことを押しつけられそうだった。おじさん達は何か普通に怖かったし」


 駿介の言葉に、バイクのTシャツのおじさんはむっとする。


「そんな怖いことしてないだろう」


「見かけが怖いんだってば。でも、突き飛ばしたことはすみませんでした」


「いや、いいよ。ちょっと、ぶつけただけだし。兄ちゃんも色々大変だったのは分かった」


「そうなんです。分かって頂けて嬉しいです」


 爽やかに微笑む駿介は、おじさん達をすっかり懐柔してしまったようだ。

 駿介の言葉を思い出す。友達がもめごとを起こしたけど、自分は何も悪いことをしていない。真実に近い嘘をついていたのだと気づく。友達というのが、コントロールのできない駿介自身だったわけだ。


 幹子さんが思いつめたまなざしを駿介に向ける。


「それで、今日、母は何か言ってましたか?」


 駿介は困ったようにそっぽを向き、口を曲げた。


「絶対にがっかりしますよ?」


「それでもいいんです。教えてください」

  

「お店のこととか、もう何にも言ってませんでした。今日聞こえたのは、庭の無花果いちじくを早く取りなさいって、それだけ」


「無花果?」


「意味わかんないでしょ? 逆に恥ずかしくて言えないよ」


「庭に無花果は確かにあります。お母さんが毎年、ジャムにしていた」


 幹子さんは吹き出した。目元に優しい皴が寄る。


「お母さんらしい。素直じゃない、そういう人だったんです。何も言わなかったってことは、私の声は聞こえていたんですね。良かった」


 柔らかな海風が長い髪を巻き上げ、顔の前に被せる。髪を耳にかき上げ、穏やかな顔で笑う幹子さんを見て、おじさん達が目を潤ませていた。

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