第13話 公に


 ドキドキしながら職場へ戻る。私が足を踏み入れると、いつも通りの光景がそこにあった。みんな、一度私をちらりと見たが、あえて何も話しかけてこない。気を遣わせてるなあ、と思った。


 自席に戻り座ろうとしたところ、すぐに隣の久保田さんが話しかけてきた。


「い、伊織ちゃんお帰り! なんか食べた? えっと、コンビニ行っておにぎり買ったんだけど、余ったからいらない?」


 少しだけぎこちない笑顔で、ビニール袋を差し出してくれる。余ったなんて嘘で、私のために購入してくれたんだとすぐに分かった。私はありがたく頂戴する。


「すみません、ありがとうございます」


「全然いいの、食べられなかったら無理しなくても」


 そう会話を交わしているところに、甲高い声が割り込んできた。


「岩坂せーんぱい!」


 びくっと跳ねる。振り返ると、森さんが満面の笑みで近づいてきた。その後ろに、困った顔をした三田さんがおろおろしている。


 森さんはにこにこ顔で私の前に立つと、嬉しそうな声で報告した。


「先輩には直接お知らせしようって思ってて! 三田さんとお付き合いすることになったんです!」


 久保田さんが呆然として森さんを眺めている。私は無言で森さんの言葉を受け取る。


 三田さんが少し遅れてやってきて、森さんに言った。


「さわこ、そろそろ仕事に戻らないと」


「えーだって私が尊敬する岩坂先輩には、ちゃーんと報告しないとって! 祝ってもらえますよね、先輩?」


 ふわりとした髪を揺らし、私の顔を覗き込んでくる。


 三田さんが森さんをさわこ、と呼んだことに、ぎゅっと胸が痛んだ。私は一度も、下の名前でなんて呼ばれたことはなかった。そりゃそうか、ただの後輩を名前で呼ぶわけがない。


 視界がゆらりと揺れる。吐き気を覚え、血の気が引いていく。何か答えなきゃいけないと思ってるのに、上手く言葉が出てこない。


 そんな私を、不思議そうに森さんは見ていた。


「岩坂先輩? なんか怒ってますー?」


 しびれを切らした久保田さんが、いらだった声で森さんに言う。


「ねえ、伊織ちゃんも忙しいから、また後にしてくれない? 今こんなことを話してる場合じゃ」


「なんで先輩怒ってるんですか? 私何か悪いことしましたか!? どうしよう、三田さん、私が何かしちゃったみたい」


 目を潤ませてそう言う森さんのすぐ横で、三田さんは困ったように視線を泳がせているだけだ。この状況をどうしていいか分からないらしい。私たちの異様な雰囲気に、周りもざわざわと騒ぎ始める。


 サークルで泣かれたあの日の光景が、フラッシュバックした。


 目の前が真っ白になり、上手く息が出来ない。苦しい、胸が痛い、嘘でも笑っておめでとうって言わなきゃいけないのは分かってるのにーー



「へえ、偶然。三田たちも付き合いだしたんだ」



 私の隣に立った人が、ふらつきそうな体を支えながらそう言ってくれた。肩に熱い体温を感じながら、その声を聞いて少し冷静になる自分に気が付いた。


 大丈夫だよ、そう励ましてくれている気がした。


「柚木?」


 三田さんが目を丸くする。そんな三田さんににっこり笑顔で返し、柚木さんが言う。


「奇遇だね。実は俺と岩坂さんも、昨日から付き合い出したんだ」


 その交際宣言に、ずっと息を呑んで私たちを見ていた周りの人たちもどよめいた。久保田さんに至っては、柚木さんを三度見ぐらいしていた。森さんたちは唖然としている。


 だがすぐに、森さんが小さく笑った。


「え? そんなはずなくないですか? だって岩坂先輩が、柚木さんとって。しかも昨日は」


「あ、岩坂さん、昨日俺が貸した上着、持ってきてくれた?」


 森さんを無視して、柚木さんが訊いてくる。私はあっと思い出し、隠すように置いておいた紙袋を取り出し、柚木さんに手渡した。


「すみません、これ……!」


「ありがとう」


 柚木さんは中身を取り出し、確認している。それを見て、森さんが笑顔を消した。三田さんは、なぜか顔を固めている。


 柚木さんは涼しい表情で続けた。


「昨日、夕方岩坂さんと会ってね。ずっと言えなかった気持ちを伝えたんだ。彼女も同じ気持ちだったみたいで、めでたく付き合うことになって」


 そういった柚木さんに続き、空気を読んだ久保田さんが、やけに大きな声で言った。


「伊織ちゃんそうだったのー!? おめでとう! ずーっと柚木さんに憧れてたもんね、やったじゃん!」


 多分、久保田さんは私と柚木さんの変な関係に感づいているのだと思う。その上で、今一番いい返答をくれた。


 そのおかげで、周りの人たちがわっと嬉しそうな顔になり、私たちに話しかけてきた。私は『好きな人を後輩にとられた女』ではなく、『憧れてた人と付き合えた幸せな女』に変わったのだ。


「そうだったのー!? おめでとう! 全然気づかなかったよ!」


「でもお似合いの二人だよ! 柚木さんも岩坂さんも凄くいい子だしさあ」


「てゆうか、柚木、お前絶食系じゃなかったのかよ! ただの一途だったのか!」


 みんなが私たちに詰め寄ってくる。その勢いで追いやられた森さんと三田さんは、少し離れたところでじっと私たちを見ていた。特に森さんは、笑顔もなく私を見ている。


 口々にお祝いの言葉を言ってくれる仲間たちに、嘘をついている罪悪感で胸がチクチクと痛む。だが、嘘だとしても、変な空気が流れていたさっきより、今の方がずっといいと思った。やっぱり柚木さんの言う通り、嘘も方便だったのかもしれない。


 私は困って全く言葉を発せられてないが、そんな私をフォローするかのように、柚木さんはにこやかにみんなからの質問に答えている。


 とりあえず、これでよかったんだ。


 私はそう自分に言い聞かせた。






 

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