お気に入りの靴が履けなくなったあの日のことをふと思い出したときにでも読む百合

よなが

本編

 キリンに惨敗しているよ。

 初デートに47分遅刻してきたペンギンに、いったいどれだけ私の首を長くさせれば気がすむのよと言ったらそんな台詞が返ってきた。


 なるほど、慣用句に沿った私の婉曲表現、すなわち遠回しな糾弾を彼女はどうやらただのジョークと捉えたらしい。

 いつもの私だったら、笑ってあげられただろうけれど今日に限ってはそうもいかない。

 デートの約束をしたのが水曜日で、そこから日曜日の今日に至るまで私自身がどんなふうに過ごしたのかを振り返れば、まったくもって愉快になれないからだ。

 齢17にして、初めて胃薬を飲み、幼少期ぶりにてるてる坊主を作って吊るし、万一に備えていわゆる勝負下着も買ったのだ。


「どうしたの? わたし、笑顔の海美が好きだよ。ほら、笑って?」


 なんてやつだ。

 怒り心頭に発しそうになっている私の、罪なき頰に平気で両手を伸ばしてきて、表情を無理やり変えようとしている。なんて……柔らかで綺麗な指先。試しに一本咥えてしまうのは引かれるだろうか。五本丸ごとだとかえって味気ないというか、口いっぱいは息苦しい気がする。ああ、でも彼女の一部でそんなふうに満たされているのは悪くないかも。


「顔真っ赤。何を考えているの? ひょっとして怒っている?」


 ぱっと手を離したペンギンが怖々と訊いてくる。私は全身全霊できりりとした面構えを作って「怒っていたわ、とてもね」と言い、胸の前で腕組みまでしてみせた。


 今いるのは駅前、噴水がある広場だ。午後二時を迎えようとしているそこには日曜だけあって、待ち合わせをしている人が多くいる。でも彼らは所詮、エキストラ。ペンギンがようやく現れたその時をもって私の意識から即座にフレームアウト。


「怒っていた……? 過去形だね」

「そう。けれど、遅刻に関して何の謝罪もないなら――――」

「帰っちゃう?」

「それはない。断じてない」


 やっと会えたというのにどうしてそんなことしないといけないんだ。昨日一日、会えていないことで吐き気や目眩がしていたというのに。いや、それは初デートに対する緊張が大きいか。

 いずれにせよ、何も成し遂げられないまま帰宅したら、吐いて血涙を流しかねない。


「そうね、謝ってくれないなら今着ているカーディガンを貰い受けることにするわ」

「これ、どう? 秋っぽく暖色系にするかで迷ったんだけどね、着慣れているものにしたの。特別にオシャレするってわたしの柄じゃないかなーって」


 ペンギンは手を両手を小さく広げ、私にその淡いブルーのカーディガンを見せる。インナーは白地の黒でライン細めのボーダーカットソー。そしてパンツルック。


「可愛い。もう全部可愛い」

「なのに、脱がしたいんだ?」

「ちがっ……! さっきのはそういう意味でないわ。貰うとしても一日の終わりに私のと交換すればいい。それなら寒くないでしょ」

「え? 今日の海美、重ね着風でもワンピースだよね。丸ごと入れ替えるってこと? というか、わたしじゃ、ぶかぶかだよ。胸は変わらないけど」

「わ、私は着痩せするタイプだから」

「それって脱いだら凄いってこと? なんかえっちだね」


 言葉を失うとはまさにこのことか。

 羞恥心が音を奪い、私はただ口をパクパクとさせた。そんな情けない私の片手をぎゅっと掴み、さらには指を絡ませ、ペンギンは微笑む。


「ごめんね。次はぜったい遅刻しないから。ほら、行こう?」


 ずるい。惚れた弱みというやつで私はすっかり彼女を許してしまって、その手に引っ張られて広場を後にする。


 今日も彼女はペンギンの顔を模したバレッタをつけている。それが彼女のあだ名の理由。みんなが彼女をペンギンと呼んでいる。それぐらいいつもつけているのだ。

 可愛くデフォルメされたケープペンギン。目立ち方は必ずしもいい形ではなくて、クラスの子や道行く人が彼女に向けてくる視線はダサいと暗に言っていることもある。


 ペンギンにとってそのバレッタは亡き祖父との思い出の品だ。小さい頃に彼と二人でとある動物園を訪れた際にお土産として買ってもらったものらしい。だからこそ外したがらないし、堂々とつけている。

 前に「もし隣にあったオットセイを選んでいたら、アザラシって呼ばれる度に訂正しないといけなかったからペンギンを選んでよかった」と話していた。


 私たちは同じ高校に通う二年生で、付き合い始めてまだほんの一週間足らず。

 初めて話したのは一年生の冬だからまだ一年も経っていない。

 世間一般を参考にするとペンギンは大勢に一目惚れされるような女の子ではない。かく言う私も、今でこそ食べちゃいたいぐらい愛しているけれど、第一印象は……「なにゆえペンギン?」って感じだった。


 彼女は私を入れて六人しかいなかった天文部にやってきた七人目。動機はふたご座流星群の観測。しかし天文部としての観測会は開催しておらず、紆余曲折を経て私の家で二人で観測することになったのだった。

 星を見たがった彼女だが、星空に対する知識に乏しく、88星座にペンギン座がないのを知ると「イルカやウミヘビはいるのに?」と唇を尖らせていたのを覚えている。


 そんなこんなで恋に落ちたのは季節が二度移り、夏を迎えてから。

 夏休み中によくいっしょに宿題するために集まって、それが自然と遊びに繋がって、そして極大期の前からペルセウス座流星群を観測するために二人で夜空を見上げるようになり、極大期を過ぎた頃には、この子のことが好きなんだって自覚していた。


 二人きり、主に肉眼での天体観測。

 電話越しになることもあったけれど、彼女の家庭が比較的寛容で家もそこまで離れていなかったから午後11時近くまで私の家にいることも少なくなかった。

 進学塾や予備校に通う受験生だったらこの時間でも勉強しているのかなとか、遠くの空の下にいる人はまだ朝食を食べているところなんだよねとか、十年後もこの星空と隣にいた子のことを覚えていたいねとか。

 そういう話をしながら時を重ねた。


「海美? 今度はどうしてそんな遠い目をしているの?」

「少し思い出していただけ」


 初デート、向かう先は駅から徒歩15分の科学博物館。そこのプラネタリウムが先月、何やらパワーアップしたということで興味があったのだ。

 天文部の先輩は子供騙しだなんて不服そうだったけれど、それは独りで行くからだ。

 恋人との星空は本物だろうが偽物だろうが特別で素敵に決まっている。もしもペンギンが楽しめなかったらクレームいれてやろう。


「わたしも来る前に思い出してたんだ。海美からの愛の告白」

「えっ!? そんなのもう忘れて……ほしくはないけれど、今言うことじゃないわ」

「『朝も昼も、星の見えない夜だって。ずっと一緒にいたいの』だっけ。わたしが海美のことを大大大好きでよかったね。いつもの帰り道で言うにしては、ちょっとクサいもん」

「お、想いが溢れちゃって。くぅ……!」


 実を言えば天文部としての次の観測会終了後にでも告白しようと決意を固めていたところだったのだ。そのときのための決め台詞であったわけである。

 けれども、月曜日の帰り道でのペンギン、その横顔に見惚れすぎて不審がられてしまい、勢いで言ってしまった。冗談だと流されてしまわないように勇気を振り絞って強く抱きしめもした。その場でフラれていたのなら、今頃は海の藻屑になっていただろう。


 科学博物館に着くと、プラネタリウムの上映時刻までは展示物を観賞したり、体験したりすることにした。私たちは小中学校は別々であったが、近い時期にこの博物館を訪れているのが話してみてわかった。


「ねぇねぇ、その頃の海美は誰かに恋していたの? 男の子でも女の子でも」

「さぁ、どうだったかな。十歳の私って今では百億光年よりも遠く彼方の存在だから」

「ん? まだ七年しか経っていないよね?」

「そうじゃなくて……。とにかく、覚えていないわ。ませている子は彼氏を作っていた気もする」


 一カ月しないうちに別れていたはずだ。

 理由はたしか、カレーの食べ方が許せなかったと話していた。食に対する主義や価値観の相違はそのまま生き方の違いだよね、などと当時の私が言えなかったのは確かだ。


「ちなみにそっちはどうなのよ。浮気していないでしょうね」

「海美ってば、付き合う前の過去に遡って全時代のわたしをものにしようとするのは傲慢だよ? でもまぁ、そんなところも好き。安心して。あの日見たペンギンぐらいだから、気になっていたの」

「それは…………お祖父様と訪れた動物園で見たっていう?」

「うん。海美、いくらなんでも動物相手には妬かないでしょ」


 仮に今からでもペンギンが犬や猫を飼って、頭を撫で、毛並みを整え、散歩やお風呂、就寝を共にするのなら……。想像するだけで羨ましさしかない。よかった、嫉妬で狂うことはなさそうだ。たぶん。





「ねぇ、海美。正直に答えて。ううん、ちゃんと考えて、それで教えてほしいの」


 ペンギンが通常より二割、いいや三割ほど真剣味がある口調で私にそう囁いてきたのはプラネタリウムの上映が始まる直前で、既に薄暗い空間に隣り合わせで座っていた時だった。繋いでいる手に力がいっそう込められて、いったい何事かと身構える。


「あのね――――わたし、ペンギンをやめちゃっていいかな?」


 言われたとおり私は考えた。

 頭上で作られた星々がきらめいている最中に、私はひたすらに考えていた。


 そしてプラネタリウムが終わる。やばい、全然楽しめなかった。


 私たちは会場から出る。博物館の中、ベンチと自販機がある休憩スペースへと無言で移動する。私は彼女がプラネタリウムの感想を言う前に、先に切り出した。


「お祖父様はあなたのことが大好きで、そしてあなたもお祖父様が大好き。そうよね?」


 彼女は黙って肯く。


「もしも私が何かアクセサリをプレゼントするのなら、ずっと肌身離さずつけていてほしいって思っちゃう。逆に贈ってくれたとしたら一生大事にしたい。大好きだから。ただ……もしも、こんなことを想像したくないけれど、もし仮に離れてしまうことがあったなら、そしてもう二度と触れられなくなる日が来たのなら……形ある思い出に囚われてほしくない。勘違いしないでね。思い出すこと、偲ぶことがいけないって話じゃなくて。つまりね、前に進めるのなら、別の誰かがその手を引くときが来たのなら、それが幸せだと感じられるなら……手放していいものもあるって思うの。たとえるなら、エンペラーペンギンだってずっとは潜ってはいられない、でしょう?」


 彼女は私をこれでもかとまじまじ見つめ、それから優しげな笑みを浮かべた。


「最後の喩えはよくわからなかったけどさ」


 私の心を的確に抉ってくる前置きだ。


「やっぱりわたし、海美のことが好き」

「あ、ありがとう」

「こっちこそだよ。べつにね、試すつもりで聞いたんじゃないけど、どんなふうに答えてくれるんだろうって思っていた。そのことで頭いっぱいでプラネタリウムをあまり楽しめなかったの」


 ゆっくりと。彼女はその髪から大切な思い出の品を外して、それを両手で包み込んだ。


「でね、今のを聞いて……もっと好きになった。内容よりも、海美が本気で私のことを想って大真面目に、伝えたいことを伝えてきてくれている、それがすごくわかって、嬉しくて、愛しくて、もうなんか胸がいっぱい」


 目を閉じた彼女の姿はまるで祈っているようだった。


「ねぇ、これからは名前で呼んでほしいな。そらって」


 平仮名二文字のその名前を彼女はあまり好きじゃないと話していた。途方もなく広大な夜空を二人で眺めながら話してくれたのだ。「わたしには大きすぎるよ」って。


「そら。今ならきっと二人で飛べるわ」

「え? 海美……そんないい顔して、よくわかんないこと言うのはほどほどにね?」


 まさかのダメ出しだった。

 今のムードだったら、肯いてくれると信じていたのに。でも、こうやって言ってくれるところも好き。


「善処するわ」

「うん。あのね、こういう時は普通にさ、初々しい恋人たちのデートが迎えるありふれた山場でいいんだよ」


 そう言って、そらは座ったまま私の両手を掴んでくる。


「……キスしよ? ロマンチストな海美が今ここでわたしたちの初めてを許してくれるならだけど」


 私は6秒だけ悩み、いくつか思いついた台詞はゴミ箱に捨て、頬を仄かに赤く染めた彼女を見つめることに集中した。時に言葉は不要ってことだ。

 私たちは唇を重ねて幸福感に包まれる。まるでたくさんのペンギンたちが夜空を幸せそうに泳ぐ夢でも見るみたいな、なんてね。

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お気に入りの靴が履けなくなったあの日のことをふと思い出したときにでも読む百合 よなが @yonaga221001

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