第一章8 魔獣


 ・・どれだけ、願っただろうか……。この日を、どれだけ夢見て……っ。


 毎日……毎日願った。半年前から続く、絶望の時間。いや、正確には一年前からだろうか。一年前から、ラルズたちを取り巻く幸せの全ては枯れ果てて朽ちていった。


 両親の死に嘆き、悲しみに暮れていたラルズたちに追撃を仕かけるように、ラッセルという名の絶望が襲ってきた。逃れることはできず、成す術もなく、ラルズたちは支配者に屈服し、支配化された環境に苦しみ続けた。


 突如として奪われた幸せ。不幸の連続。悲しみの連鎖。肉体も、精神も、魂も、全て擦り減っていった。僅かでも輝いていた希望という名の光は摘み取られ、絶望という名の闇に飲み込まれた。


「――」


 泣いても、何も解決しなかった。祈っても、その度に裏切られた。願うことも、祈ることも、次第に回数は減少していった。逆に回数が増加していくのは、理不尽な現実への不平不満。そして――


 量産され続ける負傷と、悲鳴の山……。


「――っ……」


 たった扉一枚。慣れ親しんだ我が家の、何の変哲もないその扉を開けることができなくて。この部屋から――檻の中から解放されることは、半年間一度もなかった。


 近くて、遠い。届くのに、届かない。扉はラルズたちを歓迎せず、世界から完璧に隔離され続けた。


 ――やっと、やっとっ……!


 目の奥から、熱いものが込み上げてくる。


 世界への通行券は半年間受理されず、世界を見ることすら叶わず門前払いを余儀なくされる。使用の時を見失ったパスは、監禁された部屋の中でただただ紙切れと化していくと、諦めの境地に達していた。


 ・・諦めていた希望の燭台に、再び火が灯された。いや、最初から火は消えていなかった。とうに鎮火されたと思っていた炎は、燃え尽きる寸前で、淡く小さく、その熱を失っていなかった。


 消え失せるその寸前で、最高級の熱を――輝きを放っていた。


 ・・やっと、解放され――


「――ッ!!」


「――っ……!」


 ・・希望が姿を見せるとき、再び絶望が希望を潰そうと立ち塞がる。表と裏は表裏一体。希望と絶望、二つの相反する現実が、目の前に広がる。


 けたたましい獣の咆哮によって、ラルズは強制的に現実に連れ戻される。


 目の奥で溢れそうになっていた代物が、血の気が引くように奥へと避難していく。緊張感が身体全体を走り、手先が異様に冷たく感じ、感覚が迷子になっていく。


「――ッ!!」


 長い息を吐き捨てながら、扉の破壊者は重い音を響かせながら室内へと侵入する。光に照らされた存在を前にして、ラルズの目が大きく見開かれた。


「兄さん、あれって……っ」


「・・多分、魔獣……だと思う」


 目の前の紫黒色の巨躯を前にして、ラルズは唾を呑み込んだ。初めて目にする、人間とは違う生命体。


 ・・魔獣。その単語は、人々に畏怖と恐怖を知らしめる。古来より敵対関係が強く働き、化け物として人々から忌み嫌われている存在。過去から現在に至るまで、長い歴史の中でその関係性は証明されており、魔獣の被害に遭った人々の数はごまんといる。


 ・・父さんも、その被害の一人だ……。


 魔獣の歴史や誕生起源に関しては、未だに解明されていない点も数多く、その歴史の全てを紐解かれているわけではない。数多の研究者が調査を進めてきたが、解明されていない点も数多く、実態は謎に包まれている。


 魔獣は人間と同じように独自の生態系を作り、世界に生きている生命純者。魔獣という枠組みは一緒でも、生物的宿命を背負って産まれた弊害か、仲間割れや別種との争いも珍しくないとのこと。


「・・想像していた姿と、全然違う……。だってあれ、人みたいじゃんっ」


 レルの言葉通り、ラルズも同じ感想を抱いていた。


 強烈な威圧感を迸るその存在は、一見すれば人と見間違う身体的構造をしていた。


 体長は大よそ二メートル前後。紫がかった黒色の体表で全身を覆われ、暗がりの中でも薄く輝く淡黄色の双眸。睨まれれば身体が竦んでしまうような捕食者の眼。一度でも噛みつけば命の保証はないであろう獰猛な牙と爪。


 二本足で悠然と立ち、騎士や衛兵が装備するような、鉄製の鎧をその身に纏っている。人々の文明の力をその身に纏い、過酷な自然環境下で育まれた屈強な肉体は、先の扉を破壊した一幕で見せかけではないと立証されている。


 簡単に表現するならば――大男と狼を融合させたような存在。その見た目の強烈さは、一度見てしまえば忘れるのは難しいほどだ。


 が、しかし、


「あに、き。あれって……っ」


「――っ……」


 見た目の印象もさることながら、ラルズたちの視線を釘付けにしたのは、その狼姿の大男が手にしている「代物」。一瞬の間に恐怖に飲み込まれて虜にされる。


 身に纏う鎧と同等の素材で作り出されたであろう、鉄製の斧。刃先の銀色部分が廊下の光を反射し、照り具合が一層刃物としての価値を底上げしている。

 重量感が見た目から窺え、真面に振ることすら筋力を多大に要求する大斧。両手でも操るのが困難に思える斧を、魔獣は軽々と片手で持ち上げている。


 そして――、


 ・・ポタ、ポタッ……――


 斧の先端から垂れているのは、ラルズが何度も目にし、流してきた赤い液体。


 乾いておらず、まるで付着している血の持ち主を、今し方殺してやったと言わんばかりに、滴り落ちて音が鳴るたびに血の主張は続かれる。


「・・あい、つは……」


 呟かれた一言への返答は、愚問の一言で片づけられるのが妥当だろうか。


 まだ実際にこの目で確認はしていない。が、それでも状況を考察すれば、導き出される答えは、自ずと……。


「――ッ……!」


「こわ、い……っ、兄さんっ……!」


「――っ……!」


 魔獣は室内を物色するように、鼻を鳴らしながら視線を動かす。動作に際して生み出される小さな音一つですら、暴力的な色を帯びている。ラルズたちが委縮するのには十分な攻撃力を誇っている。


 狭い箱の中、シェーレとレルが恐怖を隠せず、ラルズに救いを求める。逃げ場所も無く、見つかりでもすれば命はない。


 牙で、爪で、斧で……。簡単に捕まって殺される未来が想像つく。こんな状況で恐怖を感じるな、なんて方が不可能だ。


「落ち着いて、二人とも……っ。大丈夫、大丈夫だから……っ」


 信用できない、その場を凌ごうと取り繕う、責任感のない言葉を二人に送る。説得力の欠片も含まれていない罰の悪さを自覚しながらも、ラルズは足りない頭を必死に動かす。


 ラッセルの支配から解放された、というのは最高の朗報だ。ずっと願ってきた支配圏から脱出でき、その出口が目の前に広がっている。外へと逃げることができ、地獄のような時間にお別れを告げられる。


 ――が、状況は依然として最悪の状態を維持している。再び暗雲が立ち込めており、危険度に関してはラッセルのころよりも遥かに引き上げられている。


 ラッセルの支配は、まだ「命」に手綱がかかっていた。お気に入りの玩具を手放したくない残虐性の子供心が残っており、奪うことはしても殺すことはしなかった。


 ラルズがシェーレとレルを想って耐え続けたゆえの結果ともいえるが、ラッセルが殺そうと思えばものの数秒で絶命に追い込める。恩情とは違うが、そこに線引きを敷かれていたこともあり、命綱は保たれていた。


 ――けど、魔獣にそんな事情は適応されない……っ。


 目の前の魔獣が、人間に友好的な感情を抱いているならば話は別だろうけれど、手にしている血塗れの斧がその説を真っ向から両断している。

 同じ世界に生きる生命異分子を、魔獣は屠ろうと行動するだろう。敵対関係が紡いできた、太古の昔から続く歴史の長さが、悲しいことに根拠として成り立つ。


「戦う……なんて論外だっ」


 唱えた選択肢を、一瞬で切り捨てる。


 体格差は歴然。ラルズたちは武器も無いし、何より魔獣と戦ったことなんて一度も無い。怖さと怯えが折り重なり、肉体に命令を下しても、命令を素直に遂行できない。仮に勇気をもって挑んだとして、待ち構えているのは「蹂躙」の二文字だけだ。


「隠れ続ける……のも悪くないけどっ」


 魔獣の機嫌次第、行動次第で左右され、不確定要素が多すぎる。悪くはない選択肢ではあるが、魔獣が退く以前に精神が崩壊して見つかる場合も視野に入る。


 体力も三人とも雀の涙ほどだ。栄養不足に疲労も積み重なり、長い間幽閉されてきた影響もあってか肉体的機能も著しく低下――走ることすらも難しい。

 シェーレとレルは大丈夫かもしれないが、ラルズは更に問題が一つ付き纏う。歩くだけで全身が阿鼻叫喚するラルズの肉体は、走れるかどうか怪しいラインだ。


 平気であると自分を誤魔化せても、肉体を騙すことはできない。主導権はあくまで肉体の方が握っている。


 精神的にも、身体的観点からも芳しくない。


 一刻も早く魔獣の脅威から逃れたい。だとすれば――、


「逃げるしか、ない……」


 必然的に残る最良の選択は逃げ――逃亡だ。魔獣から気付かれず、隙を見てこの家を脱出。そのまま遠くの方へと逃げ、魔獣の脅威から逃れる。これが一番建設的で、生き残れる可能性が高いだろう。


 方向性は確立した。あとは二人にその旨を伝えて、機を待つ。


「・・逃げよう。この森から――」


 シェーレとレルに方針を伝えようとしたそのとき、


「――ォ!!」


 爆発的な咆哮。鼓膜が痺れるほどの唸り声を上げ、魔獣は乱暴に室内を荒らしていった。


 使う機会がめっきり減った倉庫の物々を、次から次へと、意図も簡単にぶち壊していく。逞しい腕で、丸太のような太い足で、命を一刀両断できる凶器で。


 破壊の波は荒さをそのままに、近くに位置する代物を片っ端から粉々にしていく。暴れ、気の済むままに室内を滅茶苦茶に荒らしていく、暴力の嵐。


「い、やぁ……っ!」


「助け――」


「――っ!」


 叫び声を、悲鳴を上げそうになるシェーレとレルの口に両手を伸ばして無理矢理遮断する。今声を上げれば、確実に居場所がバレる。そうなれば、魔獣の手によって壊された残骸のように、ラルズたちの死体もその末路を辿る。


「抑えて、二人ともっ」


 シェーレもレルも壊れかけている。視界は定まらず、涙も止まらない。大きな音を発してはいけないと理解しているが、その理解を暴力が上回る。ラルズも、本音を言えば怖くて仕方がない。それでも、耐えるしかなかった。


 木箱は倉庫部屋の入口から遠くの方へと配置されており、癇癪の余波はまだ及ばない。だが、


 その問題も、数十秒もすればすべて等しく、同じ末路を辿るかもしれない。


「――ッ……!」

 

 破壊の限りは止まらない。跡形もなく、木っ端微塵に砕け散っていき、破片が室内に飛び散り、荒れ模様は広がっていく。一つ、また一つと形あるものが失われていく。


 近場にあるものは狩り尽くし、狩りの標的は遠くの代物にまで飛び火していく。


 ――どうしたら、どうしたらっ――!?


 刻一刻と、破壊の魔の手は迫りくる。全てのものを破壊し尽くすつもりか、魔獣の暴力は静まる気配が無い。この状況はまるで、ラルズたちはただ黙ってその順番を待っているようだった。


 希望が見え始めた途端、迫り来る死という名の絶望。


 思考が固まる。頭が真っ白になっていき、どうしたらいいのかわからずラルズは混乱し続ける。模索しようと頭を動かすも、具体的な策も、窮地を脱する名案も思い浮かばれない。


 ――死ぬ? 死んじゃう? シェーレと、レルが……?


 二人だけは絶対に殺させない。残された最愛の宝物を、シェーレとレルが殺されるなんて、そんなこと絶対に実現させない。だけど……、


 ――このまま木箱に隠れていても、いずれは殺される。そんなの言われなくてもわかってるっ。でも、かといって方法が一つも見つからないし浮かばないっ。


 命の締め切りが間もなく訪れる。二人だけいい、シェーレとレルだけでいい。このままじゃ全員死んで――……


・・・・


・・・・・・閃き。天啓。そんな代物とは程遠いが、打開策には違いない案が浮かび上がる。


 このまま三人とも魔獣の手にかかってしまうのであれば、いっそのこと俺が死に役を買って出れば、もしかしたら……。


 過程が組み込まれる。止まっていた脳内が一瞬で策を練り上げる。


 ――囮となって注意を一心に受ける。室内さえ出ることができれば、廊下を走って広い場所へと誘導できる。魔獣も新しく現れた獲物を放置したままにはしないだろう。逃さまいとラルズに構って追ってくるはずだ。


 家の入口から少しでも遠い所へと逃げ込めば、そこそこの間時間を稼げる。


 魔獣の注意と殺意をラルズが受け止め、その間にシェーレがレルが逃げてくれれば、二人とも無事にこの家を出ることができる。


 自己犠牲。それが最適な手段として方針を固める。怖いけれど、死にたくないけれど、シェーレとレルが死ぬことに比べればなんてことはない。自らの命一つ献上して、最愛の二人を救うことができるのであれば、十分すぎるお釣りだ。


 考えが及ぶ。決断も済ませる。ならば、あとは実行するだけだ。


「・・シェーレ、レル。いい、よく聞いてっ。今から俺が――」


 ――ッ……!!


「・・・・・・」


 ――遠吠え。それは室内ではない場所から聞こえてきた。声を聞いた魔獣は、止まることを知らなかった荒事をピタリと止め、扉の外に首を動かす。遠吠えは絶えず連続で発せられ、破壊の音の代わりとして獣の鳴き声が室内を吹き抜ける。


「――ッ……」


 斧を手にした魔獣は遠吠えに反応し、そのまま室内を後にした。重い足音は段々と遠くへ離れていき、室内に静けさが舞い戻った。


「・・・・・・」


 油断できず、慎重に木箱の中から様子を窺って数十秒。が、どれだけ時間が経過しても、魔獣が室内に戻ってくる様子は無かった。


 ……一瞬の安堵。の次に、ラルズは状況の悪化を嘆いた。いや、正確には初めから、そうだったのだろう。己の浅慮さを後悔すると同時に、命拾いしたと強く実感した。


 ――命拾いとは、ラルズの命のことではなく、シェーレとレルの命の方を指す。


「あぶな、かったっ……っ」


 ラルズはどこか、家の中に侵入してきた魔獣は一匹であると思っていた。否、そうであると思いたかった。しかし現実は非情であり、家の中に侵入してきた魔獣は、今の呼び声から判断するに単体ではなく複数匹。

 

 遠吠えの数量と声音からして、数は恐らく五、六匹は間違いなく存在する。もしかしたら、それ以上存在している可能性も。声音はどこか大型の魔獣と比べて幼さを覚えるものであるため、大型魔獣の部下と決定づけるのが自然だろう。


 逼迫していたとはいえ、憶測だけで判断し、あろうことかラルズは自らを囮として、その隙にシェーレとレルに逃げてもらおうと画策した。


 あのままラルズが姿を見せていたら、魔獣たちはラルズを発見――即座に包囲していただろう。


 ・・だけならまだしも、他にも生きている人間がいるかもしれないと魔獣側が考えれば、捜索に力が注がれることは自明の理。逃げる時間も稼げず、丁寧に調べられる結果として、箱の中に隠れているシェーレとレルが見つかるのも時間の問題だったといえよう。


 紙一重の極々。幾つもの偶然が重なって、最悪の事態を避けることができた。


「・・・・ふぅ……ぅ」


 シェーレとレルの口に伸ばしていた手を静かに離し、ラルズたちは深呼吸をゆっくりと行う。新鮮な空気が肺を満たし、流星のごとく流れていた時の拍動が落ち着きを取り戻す。


「・・生き、てる……。生きて、る……っ」


 口で唱え、己に言い聞かせる。命は、繋がれていると……。


「怖かった、ですっ。ほん、と、にっ……!」


「うん、うんっ……!」


「よく頑張ったね、偉いよ……」


 生きた心地がしないとは、正に今の状況を指すだろう。子分と思われる同種の遠吠えがなければ、ラルズたちは二つの外れくじを引いて殺されていた。


 結果として、ラルズたちの隠れていた木箱は見逃してもらえた形となった。


 ――が、依然として状況は最悪のままま。命の危機が一度は去ったものの、幾つもの偶然に救われた結果であり、脅威は蔓延り続けてラルズたちを取り囲んでいる。


 それでも今はただ、命が繋がれていることに感謝するだけであった……。


 


 


 





調査に精を出す者も一定数おり、魔獣学と呼ばれる専門的な学問も立ち上がっているらしい。

日数が経過するごとに、絶望に膝をついて許しを請うた。

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