第6章 魔王は地獄に立つ

 アジス・ラマクリシュナムは、東京行きのぞみ新幹線の座席で伸びをした。

 学生として日本に来て、いろいろなアルバイトをしたが、トランスポーターはいい仕事だ。列車や、バスで指定された荷物を運ぶだけで金になる。とくに東京への荷物は格別だ。なにしろ指定席に座って一時間半ほど自由にしているだけでいい。帰るまで東京で遊ぶこともできるわけだから。

 企業から企業へ、工場から店舗へ、緊急や、重要性の高い荷物を個別で運ぶハンドキャリー業者というものがある。宅配や、郵便で間に合わないものや、貴重品などを運ぶためのものだ。それらの業者への依頼を実際に運ぶのは、貴重品でない限りアルバイトであることが多い。

 名古屋で依頼を受けた荷物は、営業所で受け取って、指定された新幹線に乗った。その巨大なトランクは彼の席の後ろに置いてある。すさまじく重かったが問題ない。新幹線での大型荷物は、申告をして車両端の荷物スペースに置くのがルールで、そのまえの一番Dの席に座っているのだ。

 座席まえのトレイに広げたポテトチップスに手を伸ばし、もう片手でスマートフォンのゲームアプリを起動しようとしたとき、電話が鳴った。彼が座る七号車は、あまり知られていないが座席での携帯の通話が許されている。ネットでしか予約ができないビジネス席として用意されているものだ。

 番号を見ると、クライアントからの電話のようだ。緊急の場合、会社を経ないで直接の連絡もあるが、必ず受けるように指示されている。

「はい? カスガ・トランスポートの担当です。どうかされましたか?」日本にはすでに二年もいるので、日本語は流ちょうなものだ。

「俺が送った荷物を持っているな?」

「ああ、はい。東京行きですね。カトウさま、ですよね?」

「いいか、よく聞け。その荷物には非常に危険な爆発物が入っている」

「え、えっ」荷物のなかは、確か洋酒の瓶詰と聞いている。

「注意しなきゃ爆発する」

「え、え・・・、そんなお話は聞いてないっていうか・・・あの」冗談ではない。危険物の搬送はアルバイトの仕事ではない。

「ネットニュースは見ているか?」

「え、はい? ニュース?」

「峠ノ越という名前はニュースになっていないか?」

「え?」

 思い出した。名古屋に近い岐阜の刑務所から脱獄した男が、どうやら数年前におきた大きな爆弾テロの真犯人だったらしいと、そして新しいテロを計画している疑いがあるとも。

 そして、その名前は憶えていないが、奇妙な名前だったことは憶えている。トウノゴエという名だったかもしれない。

「え、う、いや冗談だろ」

「よく考えろよ。もし冗談でなかったらどうするんだ? あんた、『新幹線大爆破』っていう昔の映画、知ってるか?」

「え、爆破・・・」

「日本人でもないあんたには、そりゃまあムリか。まあいいや。昔は速度を検出するためには特別な計測器をつけるしかなかった。だが、いまは簡単に測定できる時代だ。その荷物はGPSを載せて速度を検知している。いいか、聞けよ? その列車が名古屋を出て加速したあと、

「え」

「聞こえたか?」

「二三〇キロを・・・爆発・・・? え? なにを言って・・・」

「聞こえたみたいだな。信じないならそれでもいいが、車掌か、警察に伝えたほうがいいぞ」それきり電話は切れた。

 アジスは呆然とした。ただ画面を眺めた。

 友人たちの誰かのいたずらか? いや、電話番号はあらかじめ連絡されたクライアントのものだ。ハンドキャリーの料金はやたら高い。いたずらにしては金がかかり過ぎだ。それに今日、彼が荷物を運ぶバイトのことなど誰にも告げていない。

 心臓がばくばくいい始めた。

 ――よく考えろよ。もし冗談でなかったどうするんだ? もしも本当に爆弾だったなら。

 窓の外を見る。田が広がる中を滑るように走っている。新幹線は時速何キロで走るんだったか?

 青くなって立ち上がり、周囲を見た。満席ではないが、かなりの座席は埋まっている。車掌の姿はない。

 そうだ、警察に電話を。

 そのとき、後ろのドアが開き、男が駆け込んできた。男はアジスのまえで止まると、後ろのトランクを見て、そしてアジスの顔を見た。

「あなたがトランスポーターっスか!」

 ぴったりしたスーツを着た小太りの、丸顔の男で、パンツの裾にすね毛が見える。髪が汗で額に貼りついている。

「あなたが運んでいるものはヤバいんス」いきなり小声になって、彼はそう言った。



 あんなひどいことになるなんて、僕は想像もしてなかった。

 高坂女史はいきなり姿を消すし、橘センセイとその助手は、クピディタスと劫を使って、峠ノ越の手がかりを解析しようと躍起になっていて、僕は蚊帳の外だった。

 北美川涼音は、美人が台無しになるのも構わず顔をゆがめて泣き続けていたが、警察の事情聴取で連れていかれてそれきりだ。

 僕はただ、おろおろとしているだけだった。警察も、誰もかれも、僕には興味を示していなかった。

 すでにネットニュースでは峠ノ越の脱獄が報じられていて、証拠のファイルが発見されたことなどから、彼が六年まえの大量殺人事件の犯人である可能性が高まったとも報じられていた。

 その時点では、峠ノ越が残したファイルの情報から、大阪府警は新たな計画の断片を読み取っていた。大阪の大規模商業施設、ユニバーサル・ランド・大阪での避難が急遽開始され、周辺の警備、捜査が進められていた。それはすぐにネットで拡散されて、警察がそれをまだ伝えていないにも関わらず、峠ノ越が新たなテロを起こすという噂が、ものすごい勢いで日本中に広まりつつあった。

 僕は呆然とそれらのできごとを眺めていた。

 その電話は、高坂女史からのものだった。

「いい、なにも聞かず、なにも言わず、まず新幹線の駅に向かって。タクシー乗ったら連絡して。いい? 分かったわね?」

「ええ? なに言ってんスか? なんで? いったい、どこにいるんスか・・・」

「仕方がないのよ。あなたしか頼れるひとがいないのよ。お願いよ。急ぐのよ」

 お願いするような話しかたじゃあない。美人だし、頭はいいけど、とにかく嵐のようなひとだ。ひとの都合など爪の先ほども考えていなさそうだ。東京へ向かうと言ったきり、なにをしているのかまるで分からない。だが、これまでの彼女の行動には、すべてに意味があった。勘なのかなんなのか知らないが、論理的なものだけでないなにかが彼女を動かしているのだ。

 僕は仕方なくそこを離れ、携帯でタクシーを呼ぶと、新神戸駅へ向かった。

 六甲の山が間近にせまり、緑に覆いかぶされるように建つ新神戸の駅は、その時間には観光客の姿もまばらで、改札へ大あわてで駆ける僕の姿だけが異様だっただろう。彼女は、僕が神戸出張でもってきた荷物を回収する時間すら許さなかった。

「急いで、時間がない。東京行きのぞみ28号に必ず乗って。乗ったら電話して」彼女はタクシーのなかでの通話でそう言った。

 扱いが雑すぎ。

 僕はタクシーのなかで、会社や、取材先に電話した。彼女がしていない会社への言い訳など、面倒ごとに追われ、時間ぎりぎりで駅に着き、その列車にはなだれ込むように乗り込んだ。

 走り出した列車のなか、自由席五号車の扉の前で、ぜいぜいと息を吐いた。

 しゃがむと、パンツのサイドの縫い目が、パリっと嫌な音を立てた。太り気味のうえに、無理な走りかたをしたせいだ。

 ちくしょう。なんでだ。

 客は少ないとの予想に反して、自由席はほとんど埋まっていた。

 早く座りたかったが、電話は客室の外でするしかない。

「いま、どこにいるんスか? 東京に向かったって聞きましたけど、着いてるんスか?」

「いいえ、まだよ。飛行機のWifiで通話してる」なるほど、そういえば、通常の電話ではなかった。SNSの通話だ。

「東京でいいんスか? あの、事件は大阪で起こるみたいって、ニュース見たんスか?」

「ああ、あんたもそう思ってんの? そんなわけないじゃない」

「え?」

「騒がれ始めて、もう一時間近く経ってる。大阪の施設の客はみんな避難してるだろうし、警察が押しかけてるだろうし。そんなことになったら、峠ノ越はどうすると思うの? 爆弾持ってそこいく? 逃げるでしょ?」

「え、ああ、まあ」

「坂田は峠ノ越に復讐するつもり。だけど大阪がターゲットだとそれは果たせない。坂田はファイルを残していった。警察に渡るのも分かってた。あの坂田がこうなることを予測してないわけがない」

「ええ・・・、それじゃ、警察の割り出した大阪のデータは間違いって・・・、それか、峠ノ越か、坂田の用意したフェイクってことっスか?」

「確かじゃないけど、少なくとも、坂田が予測した峠ノ越のターゲットは別にある。橘が進化させたクピディタスはすごいことになってる。ファイルをまだ解析してるけど、手がかりらしいものを掴んでるのよ」

「え、センセイが? なんでそんなの知ってるんです?」

「なんでって、電話してたからよ」

 僕は放置かよ。

「坂田はファイルを残していった。消すこともできたはずなのに。それはこんなフェイクを見せるためじゃない。なにか、別な目的がきっとある」

「なにが判ったんスか?」

「時刻だけ」

「時刻?」

「そう、17と13という数字。確証はないけど、クピディタスがあのデータのなかから、重要と思われる数字を選び出した。クピディタスはこれを時刻だと言ってる」

「一七時一三分ってことっスか。じゃあ、それにあらかじめ間に合うようにこの列車を・・・? でもそれなら、飛行機のほうが早かったんじゃ・・・」

 返事がない。

 ざわり、とした。汗をかいた背中が寒かった。手のなかの座席券を見た。一七時一三分はこの列車の東京駅の到着時刻だ。

 爆弾魔がその計画に記した時刻が、この列車の到着時刻。

「え・・・」

 一七時一三分などというみょうに半端な時刻。それが差すものとは、誰でも列車や、飛行機などの時刻表を思いつくだろう。

「いや・・・、あなたの乗ったその列車がそうだと決まったわけじゃないんだけどね・・・。飛行機だってあるし、東京以外の場所だってあるわけだから」

「嘘つけええ! あんた、これだって思ってただろ! だから乗せたんだろー!」

「だいじょうぶよ」

「なにがだよ! け、警察には! 警察には言ってないのかよ! 列車止めればいいだろ! 止めなきゃまずいだろ!」

「警察には言ったわよ。JRだけじゃなく、ほかの交通機関にもね。だけど、時刻らしいってだけで、日本中の列車止められるかっていうことよ。警察は自分たちが解析した大阪しかあまり見てないみたいだしね。それに、峠ノ越は夕べ脱獄したばかりなわけで、峠ノ越の計画が、いくらなんでも昨日の今日はないだろうって思ってるって、あの谷川って刑事も・・・」

「ああああ! だからって、僕を殺すなよ!」

「ええと、あとで電話する」

 ぷつっと電話が切れた。僕の血管もぷつっと切れた。

「どうしろっていうんだよ! チクショー!」

 そうだ、話は簡単だ。大阪か京都あたりでこの列車から降りればいいのだ。そうだ、そうしてやろう。

 だが結局、僕は降りられなかったのだ。


 飛行機やイベント会場には、必ず荷物チェックが入る。大量の爆発物を持ち込むことは不可能に近い。だが、駅が多数ある列車や、バスなどの地上交通は、持ち込み荷物をいちいちチェックすることはまずできない。時速三〇〇キロ近い速度で走る新幹線でも例外ではない。

 あれから一時間あまり。列車はすでに名古屋を過ぎていた。

 橘センセイたちはクピディタスと劫を使って、この峠ノ越のテロに挑戦しようとしていた。残された峠ノ越のファイルから、意味のある情報を次々に取り出しはじめていた。峠ノ越のやろうとしていることの断片的な情報だ。

 世界最高速の劫に載ったクピディタスは、いよいよ怪物になりつつあった。

 文字認識、画像認識、言語理解、多重意味検索、普通なら数か月はかかる学習ロジックを、進化型汎用AIクピディタスはものの数分で構築してゆく。全世界ネットワークにつながったクピディタスは、あらゆる知識を自律的に獲得している。

 だが、そのために、おそらく橘センセイたちは、禁断の領域にクピディタスを踏み込ませているに違いなかった。

 その結果、わずか一時間で、名古屋の小規模な荷物配送業者をピックアップして調べ上げ、ついにはこの列車を指定した一件の配送依頼に到達していた。

 クピディタスがファイルの情報から手荷物業者にたどり着けたとしても、顧客の守秘にかかわるであろう配送依頼のなかまでどうやって調べることができたというのか。兵庫県警の谷川という刑事は、組織におもねらず力になってくれたようだが、それだけではこんなに早く答えをだせるとは思えない。

 みずから学習アルゴリズムを生み出してゆく全知のクピディタスが、どうやってその答えを導いているのかは、おそらく橘センセイにも、誰にも理解できないところに達しているだろう。高坂女史が恐れていたセキュリティや、倫理の壁を、やすやすと超越する超知能の危うさが、僕にも分かり始めていた。

「列車のなかでその業者の配達員に会って、爆弾が運ばれていないかを確認してほしい」

 橘センセイは電話でそう言ってきた。僕はそれを受け入れざるをえなかった。

 もしも万一、悪い予想が当たっていたなら、警察が列車を止める。そうでなくとも新横浜で僕は降りる。それが条件だった。思えば、それは断ってもよかったのだ。鉄道警察官も乗っていたことはあとで知った。


「止められないんスよ! 止められない! どうするんスかぁ!」

 アジア系の外国人学生らしいその配達員に会って、峠ノ越からの電話の話を聞いた僕は、携帯に向かって叫んだ。

「落ち着いて、まず警察の判断をあおいでちょうだい。待ってて、もうすぐ橘のクピディタスが次の答えを出すはずだから」高坂女史の電話はいつもガチャ切り。

 爆弾だと判っても列車をなどと誰が想像しただろうか。トランクを開けるなんてもちろんできない。そもそも、爆弾を処理できる人間などいるわけもない。

 その新幹線には、鉄道警察隊一名が警乗していて、ほかにJR委託民間警備員一名も乗っていた。その配達の男から話を聞いた警官は、すぐに警察本部へと通報した。警察とJR関係者が騒然となったことは言うまでもない。

 大阪の計画がフェイクだったのか。それともこの列車のほうが攪乱なのだろうか。その可能性もある。だが、いまは目のまえの爆弾が現実のすべてだ。

 新幹線ってこれほど揺れるもんだったか? 僕は前シートに当たりながら揺れる銀色のトランクをじっと見る。キーロックがかかった金具が二つついた知らないメーカのもので、搬送会社のロゴが大きく印刷されたカバーが上半分にかけられている。

 峠ノ越の電話から一〇分。

 客室には、警官と、警備員、僕と、そして連絡を受けてきた車掌の四人だけがいた。車両故障と偽って、早々に七号車の客をグリーン客室へ誘導したためだ。アジスという配達員は、車掌詰め所に送られていた。警察本部と電話をしている鉄道警官に、僕たちは注目していた。

「分かりました」電話を切った警官に、僕たちは詰め寄った。

「どうするんです? 止めるんです?」

「いま本部で検討している。とりあえず、二四〇キロまで減速して、最悪、新横浜には停車しないことは決定した」

「停車しないって・・・、東京に着いちゃったらどうするんです?」

 すでにその新幹線は、豊橋を過ぎ、終点の東京まで一時間も猶予がない。警察が検討しているといっているが、対策をとるにしたってまったく時間が足りそうもない。

 新幹線には、爆弾を処理できる人間はもちろん、工具の類すらもほとんど載せていない。かといって、乗客に協力を求めればパニックになるのは間違いない。

 僕はじつは中学生ぐらいまでは立派な鉄オタだった。東海道新幹線の終点、東京から先には軌道がないことは知っている。東海道線の軌道のさきに東北新幹線を直結する工事は、かつては検討されていたが、結局見送られた経緯がある。いまのままなら東京駅の先の軌道終端、日本車両のビルに激突することになるだろう。東京までの間に本線から外れる退避線はいくつもあるだろうが、時速二四〇キロで進入できる場所も、その速度で周回できる長さの軌線もあるわけがない。

 ごうごうと音が変わり、窓の外が暗くなる。トンネルに入ったのだ。

 四人は輪を作って立ちすくんだまま、押し黙った。列車の揺れに合わせて、踊るように四人の体がシンクロして揺れていた。どの顔色も死人のように青白く見えたのは、トンネルの暗さのせいばかりではないだろう。

「とりあえず、まず、実態は隠して、協力できそうな人員がいないか客にアナウンスしてみましょう」車掌がそう言って列を離れた。

 そのとき、僕の携帯がふたたび鳴った。橘センセイからだった。

「白井さん。いま、クピディタスが出した対策を警察に渡したところだ。あなたにも協力してもらわないといけない。すまないが」

 ほんとうにすまなさそうに声を小さくした。あんたのせいではない。あの女のせいだ。

「警察がこれを受け入れて、現場に指示を送ってくるまで待っていては間に合わないかもしれない。だからいまからそれを君に伝える。それを実行して欲しいんだ」

 それはなんとなく予測がついた。警察組織がどう検討するかは知らないが、決定にはそれなりの時間を要するに違いなかった。あと四〇分も残されてはいない。できる準備は進めるべきだ。


 そしてさらに一五分後、僕たちは列車の最後尾、一号車の連結部に立っていた。

 車掌の社内アナウンスの呼びかけで集まった二人の消防官が参加していた。ほかに期待した、機械系エンジニア、警官や、自衛官の乗客はいなかった。奇妙なアナウンスをいぶかしんだ乗客も多かっただろう。別な車掌が対応しているはずだが、乗客が騒いだとしても、もうそれに構っている余裕はない。

 トランクは、すでに一号車へと移動させてあった。

 トランクを開けることはできないが、走る列車内で、ぐらぐら揺られているわけだから移動させることは問題ないはずだ。警察官と警備員が慎重に動かし、一号車、二号車の乗客は七号車などへ移動させて無人にした。乗客は、ここにいないもうひとりの車掌が誘導している。

 連結部に立つと、その足元にはサン板と呼ばれる連結部のカバープレートが、すり手のようにもみ合っている。このまま一号車の連結を外せることができれば、一号車を置きざりにできると考えもしたが、連結部は、内ホロの部分まで金属で覆われていて、なかからはとても外せるようにはみえない。車掌に訊くと、やはり連結機は外からは外せない。走行中は連結器に数百キロの荷重がかかっていて不可能とのことだった。

 一号車連結部の隣のドアでは、二人の消防官がドアの横の壁に取りついていた。

 クピディタスが示したひとつの手段は、車外に爆弾を捨てるというものだった。

 現行の新幹線に開けられる窓はない。だが、ドアはドアコックを手動で操作すれば開けることが可能なのだ。ただし、新幹線のドアコックの扉は、時速三〇キロ以上でロックがかかる仕組みになっており、走行中にそれを操作することはできない。

 ドアコックの扉を壊す。これが次の手段だった。

「うりゃあ」消防官の肩の筋肉が盛り上がって緊張している。その手には登山ナイフと、ドライバーがある。ナイフは乗客のなかの登山客から提供してもらったものだ。

 七〇〇系ドアコックの扉はドアフレームの横の上部にある。

「まだか、くそ」何度も力を込めているが、開く気配がない。

 すでに列車は静岡を過ぎて、三島に差しかかろうとしている。

 扉が曲がってできた隙間にバールを差し入れた。

「くあ」

 バキンと音がした。

「開いたぞ!」その場の数人が叫んだ。足元に工具の落ちる金属音がした。

「ドア開けます!」車掌がドアコックに取りつく。

 その風圧はすさまじいものだった。時速二四〇キロの風は、僕たちの体を押し戻し、その場にしゃがみこませる。風をはらんだ消防士たちの上着が、パラシュートのように膨らんでいた。

 この風圧に対抗して、四〇キロはありそうなトランクを果たしてどれほど遠くに投げ捨てられるのだろうか。落下と同時に起こるであろう爆発から、列車は免れられるのか。

 考えている猶予はなかった。

「トランクを!」

 僕は、警備員といっしょにトランクを押した。揺れる社内で、疲れ切った足が力なく崩れそうになり、アルミの壁パネルに肩をぶつけて支えるしかなかった。

「どうする⁉ 捨てる場所はあるのか⁉」

「本部は⁉」

 警官が、携帯を持っていた。

「成功しました! ドアが開きました! 指示をお願いします!」

 ドアの外には、清水市内の街並みが見えていた。

 多くの建物が線路近くまで密集している。こんなところでは爆弾は捨てられない。

 ごうごうと風が男たちの身を揺する。僕の髪も乱れて頬をかきむしっている。風が汗を冷やし切って、首筋が凍えたようにしびれていた。

 時間がなかった。東京に近づけば、さらに市街地になって爆弾を捨てる場所がなくなる。

 そう思っていた次の瞬間、トンネルに入った。

 僕は死んだ。

 そう思ったのも不思議ではなかった。

 時速二四〇キロの列車は、通過時、トンネルの大気を爆発的な力で圧縮する。そのすさまじい圧力は、開いたままのドアから衝撃波となってそこにいた数人を襲った。僕たちはトランクを抱えたまま、反対側のドアのあたりまで吹き飛ばされ、硬い壁と、消防官の肉の圧力の下で僕は悲鳴を上げた。

 暗闇がその場を支配し、開いたドアから列車の音が、頭蓋骨を割るようなすさまじい絶叫となって僕の声をかき消していた。

「大丈夫か⁉」悲鳴をあげ続けていたのかもしれない。僕が目を開けると、消防官たちは烈風のなか立ち上がっていた。

「車内に入ろう!」風に負けぬよう、叫ぶように言う警官の髪を、激しく風がなぶっている。

 男たちは、支え合って客室のなかへ入った。

 僕は、騒ぐ心臓を押さえながら荒い呼吸を繰り返し、しゃがみこんだ。手足を動かしてみた。幸いけがはないようだった。

 だが、じっとしているわけにはいかない。

 それくらい経ったのか分かっていなかった。ようよう立ち上がる僕のうしろで、警官が携帯を掴んでいる。

「待てと言ってる! まだ、なにも指示がない!」

 最初の通報からすでに二五分ちかくが経過したが、その間、警察本部からもJR本部からもなんの指示もなかった。

 ドアを開けて時速二四〇キロでトンネルに入ればどうなるかくらい、本部は予測できたはずだろう。ドアを開けることはあらかじめ分かっていた手段なのだから、開いたあとの指示を寄こすぐらいできないでどうするのか。

 誰の胸にも同じ焦燥が爪を立てていた。

「どうするんだ! 捨てるのか、捨てないのか! どこで捨てればいいんだ?」

 トンネルではトランクを捨てることはできない。

 僕の携帯が鳴っていた。

 慌てて取り出して耳に当てる。だが、電話ではなかった。橘センセイからのSNSだった。高坂女史とも共有している会社用のグループだ。

 文書ファイルが入っていた。新幹線での長い通話は切れるので、文書にした旨のメッセージがあった。

 しばらく読んで、そのファイルの怖ろしい内容に、僕は唾を吞んだが、乾いた口から嚥下するものはなにもない。

 僕はそこ書かれた指示に従って、携帯のマップアプリを開いた。

 その場の皆に向かって叫んだ。

「み、みなさん、いいっスか! ここから先、由比、蒲原トンネルを出れば、新富士、三島、熱海と、トンネルをはさんで都市部が続いていて、捨てられる場所がほぼない! それを過ぎればもう小田原、平塚の大都市のなかっス!」

 全員が僕の顔を見ていた。

「爆弾を捨てるとすれば、このトンネルの先、富士川のうえしかないっス!」富士川にかかる五七〇メートルの富士川橋梁、そこを過ぎればもう捨てる場所はない。それもクピディタスの指示だった。

「しかし、本部の指示がまだだ!」

「トンネルを出るまであと何分もないっス!」

 それぞれが顔を見合わせた。

 消防官が意を決して立ち上がった。

「やるぞ!」

 すでに蒲原トンネルに入っていた。時速二四〇キロの列車は、四・九キロのトンネルを抜けるのに、八〇秒ほどしかかからない。富士川はトンネルの先すぐにある。

 消防士二人と、警官がトランクを抱えてドアの前に立った。

 トンネルのなか、黒い風が彼らの全身を揺すっている。

「富士川の橋は大きなトラスが両側を覆っているんじゃなかったっスか!」僕は昔に見た写真を思い浮かべて、車掌に訊いた。

「ああ、あります・・・。 在来線の橋ほど大きくはないですが!」

「大丈夫なのか! ほんとうに成功するのか⁉ 投げられるのか⁉」

「成功率は、七三パーセントだと言ってるっス!」クピディタスはそう言ったのだ。

「確実じゃあないのか!」

「失敗したらどうなるんだ⁉」

 その瞬間、光が世界を覆った。トンネルを抜けたのだ。

 目のまえに、富士川の河川敷が広がっていた。猶予はない。

 強く歯を噛んだ。

「投げるしかない!」誰が叫んでいるのか判らない。

 投げようと、男たちが身を乗り出させたその瞬間、目のまえを富士川の鉄橋トラスの柱が轟音を発して走り去る。数メートルあまりの間隔で立つ富士川橋梁トラスの隙間は、二四〇キロのスピードではほとんど視認できないほどの速さで消え去る。

 男たちはひるんだ。

「投げろ! 投げるんだ!」

 衝撃をあたえれば、爆発してしまうかもしれない。トラスや、あるいは橋脚にぶつかれば、その瞬間に、橋ごと破壊するかもしれない。二四〇キロの列車は、羽をつければ空へ飛び立つこともできる莫大な運動エネルギーを持つ弾丸も同じ。後ろ車両が脱線すれば、車両全体が線路を外れて橋脚に、または河川敷の先の民家へとその全エネルギーを放出するだろう。

「くそ!」誰かが吠えた。

 八・五秒。

 富士川橋梁五七〇メートルを走り抜ける時間だった。

 逡巡する時間など許されなかったのだ。トランクを投げることはできないまま、行き過ぎる民家のまえで、男たちは尻もちを突いてへたり込んだ。

 そのまま僕はしばらく外を見ていた。

 建物の数が少なくなった場所を通るたび、ここでも捨てられたか、ここはどうかと思いがよぎった。少しでも人家のあるところで爆弾を捨てられるわけがない。それは分かっていた。

 富士市から沼津にかかる地域。見上げれば、銀冠に雪をたたえた壮大な富士の姿が、人間の業に苦しむ僕たちを、矮小なものと言わんばかりに見下ろしていた。


 そうしてクピディタスは、最後の手段を示していた。

 それは、東京駅を通過させるというものだった。時間を稼ぐことができれば、爆弾を捨てる手段も、列車の連結を解除する手段もふたたび可能性をもつ。

 僕たちは、トランクを一号車の客車に戻し、自分たちも席にもたれていた。

 ぐったりとしているのは、僕ばかりではなかった。

「通過させるって、どういうことなんだ? 東海道線は、東北線とはつながってないんじゃなかったのか?」鉄道警察隊の男が車掌に訊いている。

 東京駅の東海道新幹線一四から一九番線は、東北新幹線二〇から二三番線には連結していない。

「東海道新幹線も、それに東北新幹線の列車もメンテナンス時は品川にある大井車両基地へ操車するんです。それで、二〇番台の東北新幹線も東海道線下りの軌道を通して品川へ移動させます。東京駅の手前にはこの軌道分岐があるんです」

 つまり、東海道線には東京から先に軌道はないが、東北線には、東京手前に品川までの軌道がある。この分岐を操作すれば、この列車を二三番線の東北線へ通過させることが可能だということだ。

「でも、当然ですが、その分岐は低速で運送するためのもので、時速二四〇キロで通過させることはできません。そもそも、武蔵小杉から先は線路が蛇行していて、もともと減速区間なんです。ここをいったいどれぐらいの速度で通過できるのか・・・」

「どうするんだ?」

 代わって僕が応えた。

「減速するんスよ」

 クピディタスが示した策とは、減速をおこなうという賭けだった。

「峠ノ越はGPSで速度を検知していると言ったスけど、衛星GPSはもともと位置を測定するためのもので、速度を測るには精度が低いんスよ。そもそも、トンネルに入ると信号を捉えられない。なので、この速度検知はサンプリングタイムが長い、ようするに、自動車のスピードメーターなんかのように、すぐ速度に反応するわけじゃなくて、速度の検出にはかなり時間の余裕があるはずなんス」

「余裕って・・・、具体的にはどういうことなんだ?」

「東海道線には最長で八キロ近いトンネルがあるっス。だとすると計算上、だいたい二分間はGPS測定できないはずで、逆に言えば、少なくとも仕組みになっているはずなんス」

「そ、そうなのか?」

 しかし、わずか二分のあいだに減速し、遅れた距離を取り戻すよう加速しなければならない。それが可能かどうかはぎりぎりで、爆弾がその予測どおりの仕組みであるかの確証もないのだ。それは彼らには言わなかった。

 何キロまで減速するのか? JR本部はこれの対応に追われている。

「それに、東北線とは周波数の違いなどあって、通せばよいというほど簡単ではないはずです」車掌がそう言った。

 多くの者がため息を吐いた。時間はあと一五分ほどしかない。

「それには準備が必要っス」僕は言った。力ない体を鼓舞して立ち上がった。

 僕の携帯には、そのための指示が送られてきていた。減速する二分間、トンネル通過時のようにGPS信号をジャミングする必要がある。それにはアルミシートなどでトランクを覆ってしまえばいい。アルミシートは、キャンプ用品や、災害用品として用いられることの多いものだ。それは乗客の持ち物から探すしかない。

 そして、それを持っている可能性の大きい乗客の座席位置を、。JRの協力を得ていたのかどうかは分からない。しかし、JRの情報だけで、乗客が登山客かどうかなど判るわけがない。それこそ、ハッキングでもしない限りは不可能だったはずだ。

 それも、この短時間で。

 寒気がした。

 僕たちの列車はその最長八キロの新丹那トンネルのなかにいた。

 東海道でもっとも長い闇。

 暗い影が窓を覆い、行き場を失った列車の叫び声がまた、トンネルのなかに響きわたっていた。



 そのとき、私は東京駅にいた。

 履きなれないパンプスで足が痛かった。汗ばんだ髪が頬に貼りついてくる。後ろにつかんでゴムで束ねた。

 午後五時にかかった東京駅は通勤客でごった返しはじめていた。

 多くのひとの呼気がその場に充満し、生あたたかいねっとりとした空気になって埋めていた。多くの会話の声が重なり合って形を失い、うなり声のようになって八重洲口へ向かう連絡通路にこだました。

 新幹線が全線、東海道新幹線、東北新幹線、上越新幹線も前面運休する旨の掲示が出ていた。新幹線ホームからは退避するようにとのアナウンスが流れ、多くの警察官の足音が、丸の内駅舎の大理石の床と、高いドーム天井に響きわたっていた。

 羽田に着いてから、新幹線での事件にクピディタスが示した手段と、白井たちの苦闘のようすを電話で聞きながら、私はふたたび強い違和感に苛まれていた。

 峠ノ越が望むような、大規模な殺戮を起こしたいのであれば、彼はなぜ爆弾の存在を知らせてきたのだろうか。知らせないままでも列車は爆破されていたはずだ。速度で起動する仕掛けもまったく必要なものではない。

 列車は東京に向かってきていた。

 これは攪乱か、さもなければ、峠ノ越が企てているより大きな破壊のその一端なのではないのか。

 クピディタスはその化け物じみた能力を発揮しはじめている。だが、いかに進化しようとも、おそらく坂田には届かない。

 私は最初から、この峠ノ越の思惑を挫くことができるのは坂田しかいないと考えていた。坂田はその超人的な洞察で峠ノ越の行動を読もうとしていたはずで、峠ノ越の現れる場所に坂田は向かうにちがいないのだ。私は白井たちが新幹線で事件に巻き込まれるよりももっと前から、東京で峠ノ越と、そして坂田のあとを追っていた。

 二時間まえ、白井が新神戸で新幹線に乗ったころ、私はすでに橘に連絡し、をクピディタスに学習させることを始めてもらっていた。

 坂田はもうひとつ残していったものがあった。それは北美川が持っていた、彼の携帯電話だった。そこには膨大な彼のメモが保存されていた。六年にもわたって一時間ごとに記されたそれは、あまりにも高度な知性と、そして凄まじいまでの執念を綿密に記したものだった。

 どれほど高度なAIでも、教師データとなる情報がなければなにも学習することはできない。いかにクピディタスでも、峠ノ越の思考は学習できない。なぜなら彼のパーソナルデータがなにもないからだ。しかし、坂田ならどうか? そのメモはほかの人間にとってはほとんど価値がないだろうが、AIにとってはそこから生み出せるなにかがあるはずなのだ。

 私は電話を待っていた。

 それは賭けだった。私には坂田のような洞察力も、クピディタスのような知能もない。

 血流が滞って手は震え、行き場のない血液が心臓を昂らせていた。列車の到着まであと二〇分もなかった。

 携帯は鳴った。

「もしもし・・・」私は応じた。非通知の電話。おそらく公衆電話から。

「君は誰で、どういう目的なのかね?」予想どおりの声がした。

「坂田ね?」

 私は彼からの電話を待っていた。くるはずだと信じていたが、そうでない可能性は決して低くはなかった。私の心拍は、安堵と緊張で上下に踊った。

「警察に報せていないところから察するに、なにか目的があって電話させているんだろう? それはなにかね?」

 おそらく彼の記憶には私はもういない。だが、それは必要なことではない。

「クピディタスが教えてくれた。あなたに助けてほしいことがある」

 クピディタスは峠ノ越の計画の場所を明らかにはできなかった。だが、坂田の過去の行動と心理を学習し、いまの彼の行動を予測した。

 それは、戸越にある小さなベーカリーショップだった。メモのなかでは六年前たった一度立ち寄った場所として記録されていたに過ぎなかった。しかし、記載された筆跡や、メモの順序が示すその重要度を読み取ったクピディタスは、いま最も可能性の高い立ち寄り先としてこのショップを示していた。

 私にはそのショップに向かう時間はなかった。警察に伝えることもしなかった。伝えれば、坂田を拘束できても、この列車も、峠ノ越を止める手段も失われる。私はショップに電話をして、ある品を買い求める客に伝言を渡すように託していた。

 東京には坂田の妻と娘が死んだ場所がある。六年まえに破壊された商業施設は再建されている。しかし、警察に捜索されている坂田は、いまそこを訪れることはできない。だが、この最後のときに、なにかをなそうとするだろう。

 六年間、一度しか立ち寄らなかったそこが、どうして坂田の現れる場所なのか、ケーキを買ってどうしようというのか、どうしていま、危険を冒してまで坂田はそこに現れるのか、私には想像もつかないし、クピディタスがどうそれにたどり着いたのかを理解することもできない。

 普通なら、連絡しろとメモを残してあったからといって、六年越しの復讐をひかえた坂田にとって、電話をする必要などありはしない。だが、人知を超えた知能を持つ坂田にも、私のような者が食い下がることのできる弱点がある。

 それは記憶だ。坂田は記憶を失ってゆく。それを補うのはわずかなメモだけだ。そこに記されていない予想外の事態が生じたとき、それが彼の計画の障害になるのかならないのか、それを判断できるじゅうぶんな記憶が彼にはない。判断するためには、電話をするしかない。

 電話をしてきた坂田は、もうそのショップには留まってはいないだろう。彼がどこにいるのかはすでに分からない。

「峠ノ越のデータに、一七時一三分という値があった。これはこの時間に東京駅に着く新幹線の時刻。そして、峠ノ越はこの列車に爆弾をしかけてる。列車は減速すると爆発すると峠ノ越は言ってる。この話、分かる?」

 間があった。

「いや、分からない。どうしてほしいのかね?」

「峠ノ越を止めたいの」

「君は、峠ノ越のその話がのでしょう? なら私に訊く必要はない」

 そのとおりだ。私はその爆弾はカモフラージュで、本当のターゲットはほかにあるのだろうと思っていた。でなければ、爆弾の存在をわざわざ知らせる必要はない。大阪の施設と同じく、警察やメディアの注意をそらせるつもりなのだと。

 思考は読まれた。

「でも、それが間違いだったら? そんな予想を上回るなにかを峠ノ越がもくろんでいたら?」

、私に電話させたんでしょう? なら結果は出ている」

 それもそのとおりだった。坂田は私の思惑をやすやすと看破した。

 列車の爆弾が、ほんとうに峠ノ越のターゲットだったとしたら、坂田はその場に向かい、峠ノ越と対峙するつもりのはずで、警察にも、誰にもそれを邪魔はさせないだろう。私の問いに坂田は拒否を示すはずだ。

 坂田は無言で電話を切ることもできた。私たちにはそれで、どちらとも判断できなくなったはずだ。彼が、どうしたい? と訊く時点で、ターゲットではないと判断できる。坂田はそう言っているのだ。ターゲットでない以上、カモフラージュだと結論され、爆弾はフェイクである可能性が高い。

 だが、坂田がどう考えてそう言っているのか、私には確信がない。彼の考えを読むことなど私にできるわけがない。

 峠ノ越がカモフラージュでない爆弾を用意しなかったという保証もない。カモフラージュや、攪乱を目的とするなら、それが実際に爆発してもなんら不思議ではない。

 坂田がほんとうのことを言っているのかどうか、私には確信がない。復讐のために大勢の犠牲を顧みないような、そんな人間だと信じたくはない。この爆弾がカモフラージュに過ぎないと坂田が言うのなら、たとえそれが嘘であっても、それを防ぐことへの協力を拒めないはずだ。

「それだけではダメ」

 また間があった。

「いいでしょう」

 そのあとの通話は短かった。

 坂田は私に教えてくれた。

 峠ノ越は自分と同じ、優越欲求の怪物なのだと坂田は言った。峠ノ越にとって、遠く離れた場所で多くの人間を殺しても意味がない。峠ノ越は破壊、殺戮を行うその現場で、魔王のようにその場の支配者にならねばならないのだ。

 彼は地獄を必要としている。

 私はそれを、コインロッカーの並ぶ八重洲口に向かう暗い通路のなかで聞いた。

 声を吞んで、そして走った。

 喧噪が遠く、自由通路に私の硬い足音だけが高く響いていた。




 JR関東、東海道新幹線総合指令所では怒号が飛び交っていた。

 新幹線鉄道事業本部輸送課輸送指令長、磯貝いそがいただふみは、当直長の席から立ち上がって、怒鳴り声をあげた。

「静かにしろ! 関係ない奴は出ていけ!」

 冷静を保たねばならない。それは分かっているが、限界だ。

 前方の壁いっぱいに広げられている総合表示板、左側の東海道線のブルーグレーのアナログ表示には、運送中の新幹線は一本しか表示されていない。のぞみ28だ。

 のぞみ28に爆弾が載せられているという報せを受けてから、指令所には必要以上に多くの人間が押しかけてきていた。列車、旅客の指令には必要もないのに遅寝番の者まで駆り出されているうえに、管理部門の上役や、それに警察関係者が入ってきて、後ろは立錐の余地もない。

 新幹線総合指令所では、一日約三六〇本、一時間に一四本にもなる緻密なダイヤを管理する。七〇人以上が常勤する巨大な指令所だ。ずらりと並ぶ端末の各所には、列車、旅客、運用の各司令員が座って操作をしている。

「新横浜、通過!」「新横浜、通過!」輸送列車指令員の復唱の声がする。

「きたか」

「あといくつだ!」

「一〇九秒です!」

 山陽線を含む全線の一時停止が発せられた。のぞみ28を除く東海道線全区間の車両の退避線への導入はすでに終わった。東北線の停止、退避もぎりぎりで間に合った。

 地震などで、一時全線運転停止は珍しいことではない。異物騒ぎもままあることだ。だが、こんな爆弾騒ぎは・・・。

「まだか、電気。工務は?」磯貝は苛立ちを押さえながら後ろに声を出す。

「まだです! 待ってください! 間に合わせます!」東北線に通すには周波数切り替えが必要だ。

 本部では当初、そんな爆弾の通報だけでは信じるに値しないと考えられたようだった。それはそうだろう。不確かな情報をもとに列車を高速で運転させて大事故にでもなれば、責任問題だけでは済まされまい。

 その通報が、脱獄したあの大規模爆破事件の犯人からのものであったことが、警察によって確かめられるまでは。

 列車を停止できない。そんな事態はこの国の鉄道の歴史上にない。止めずに通過させるという判断は早かったが、それから先をどうすべきなのか。そう迷っているさなかに、警察から対策案の連絡がきた。

 磯貝の周りには数人が囲んでいる。いずれも固唾を吞んでいる。

 机の上には手書きの運行図表ダイヤグラムがいくつも広げられていた。自動運行はすでにオフラインだ。運用司令員が作った運行図の数字は、普通の運用では決して作ることがない数字を記していた。

 時速二四〇キロ―――。犯人指示の速度に一〇キロ余裕を持たせた数字だ。

 通常、新横浜から先は最高でも二〇〇キロ、武蔵小杉から先は一一〇キロまで減速する。新幹線が二四〇キロで通過するためには、曲率半径二五〇〇メートルが必要だが、とくに武蔵小杉では、半径六〇〇メートルしかないのだ。

「あと三〇秒!」

 何人かは床で、電卓を叩いて計算をまだやっている。

 武蔵小杉から一〇〇〇メートル手前で急制動をかけ、時速一八〇キロまで減速して武蔵小杉を通過する。その速度は計算脱線限界までほとんど余裕がない。

 その後、時速三〇〇キロまで急加速するが、西大井ではふたたび二二〇に落とすしかない。これでほんとうに大丈夫なのかは、いまここにいる誰にも確実なことは言えないだろう。工務と運行の指令員ぎりぎりの合作なのだが、その基礎ダイヤを送って寄越したのは警察で、世界最高の計算機『劫』が計算したものだと言った。

 運行マニュアルもなしに、軌道線の強度データもなしに、そんな計算ができるわけがない。しかもこの短時間に。誰がそんなものにゴーサインを出したというのか。

 こんな運行はありえない。もしも失敗すれば大惨事は目に見えている。乗客になんと言ってあるのかは旅客司令員任せだが、この運転では怪我人が出ても不思議ではない。

 磯貝は、手に持ったダイヤグラムプレートを強くつかんだ。

「あと八秒!」

 のぞみ二三の運転員とは通話が直通になっている。手動操作は指令から送るしかない。

「一秒!」

「非常制動! 減速!」

「減速!」運転員の復唱が聞こえる。

 回生ブレーキと、緊急用ディスクブレーキを併用するため、デジタルATCは使えない。運転員の手動操作に頼るしかないのだ。

 後ろの旅客指令員が、電話で列車にいる車掌に減速開始を叫んでいる。列車内では爆弾をGPSから隔離する作業がタイミングを合わせて実行されているはずだ。

 磯貝の周りで、数人がストップウオッチを構え、数人がスマートフォンのタイマーを凝視している。

「減速完了!」「減速完了!」

「武蔵小杉、通過します!」磯貝の指は震えた。

 総合表示板では途中経路は分からない。机の上に載せられたラップトップPCの画面に、マップ表示の路線状況が表示されている。

 ごくりと唾を吞む。

「通過!」「通過!」

 ほうと息を吐くものが多くいたが、磯貝にその余裕はない。

「加速!」

 担当司令員が言うより早く、磯貝が叫んでいた。

「〇・八二秒遅れです!」床でダイヤグラムを描いている司令員が叫ぶ。

 一秒の遅れは、時速二四〇キロでは四三〇メートルもの差になる。

「三一〇まで上げろ!」

「三一〇まで上げると、五〇秒かかります!」

「減速距離を詰めろ! それしかない!」床に向かって叫んだ。その声よりまえに床では何人かが、制動タイミングの再計算をやっている。

 次のカーブとなる西大井まで五キロほどしかない。その先、大崎のS字カーブを乗り切れるのか? そうして最後、東京駅手前の分岐を時速一八〇キロで通過させなければならないのだ。

 新横浜駅での利用客の避難は間に合わなかったと聞いている。東京駅では在来線を手前で止めるつもりのようだが、駅の利用客が多すぎて、誘導はまだ新幹線ホームにとどまっているらしい。

 磯貝は、かつて入社三年目で東京駅の改札業務についていた。それから車掌、運転士を経て列車指令となった。東京駅は、あのころとは違う。一日八〇万人以上が利用する日本最大の巨大ターミナルだ。列車ホームのほか、地上二階、地下一階、一万一三〇〇平米におよぶ巨大な商業施設をもっている。夕方のラッシュ・アワーにかかるこの時間に、大きな事故が起きれば、どのようなことになるかは想像もつかない。

 あと五分ほどの間にすべては終わる。

 磯貝は、灼かれて熱いと感じて額に手を当てたが、その手のひらを濡らしたのは水のように冷たい汗だった。



「あと二秒!」車掌が叫んだ。

 僕は一号車の客車で、トランクを凝視して震えていた。

 列車は品川駅を、時速二八〇キロまで加速しながら通過した。建物を揺るがして轟音が響き、林立する高層ビルが、電柱のように流れ去る。

「いまです!」

 僕は手に掲げていたアルミシートをトランクにすばやくかぶせ、抱きついて隙間を埋めた。すでに武蔵小杉から三回これをやっている。うまくいっているのか、いっているから爆発しないのか、爆弾自体がウソなのか、もうなにも考えられなくなっていた。

「減速します!」

 強い衝撃がきた。車体が不気味な音を立てて軋む。振動がどんどん大きくなっていくのが分る。減速しているとはいえ、田町のカーブに時速二五〇キロ近い速度で突っ込んでいるのだ。この先、芝浦や新橋のあたりでも減速はほとんどできない。

 僕の体ごと、トランクは激しく揺れている。窓のむこう、三田通り越しの東京タワーが、見たこともない速度で視界から消える。

 あと二分。

 そのとき、僕の携帯が鳴った。

「白井! それは爆弾じゃない! それを置いて、別な荷物を探して!」高坂女史の声が、列車の音のなか、とぎれとぎれに聞こえた。

「爆弾じゃない・・・?」

「いい、送るわSNSを見て!」彼女がなにを言っているのか思考が追いつかない。

 急いで画面を切り替えた。そのSNSには座席シート番号が記されていた。まさか、これからこの座席の荷物を探せというのか? ムリだ。

「ど・・・、どうしろって・・・」

「いい、白井! その新幹線はいまから二三番線を通過する。その真下、地下一階に手荷物預かり所がある! 爆弾はそこにある!」

「ええ・・・、どういう・・・」

 時間は過ぎていく。僕は激しく揺れるトランクを放すことができない。

「いい、峠ノ越がかつて起こした渋谷のテロは、施設の基部を破壊して大規模崩落を起こさせるテロだった。もしも同じように地下の構造を爆破するとしたら、建屋とホーム全体の崩落が起こればどうなるか!」

 ぎりぎりと背筋が痛んだ。

「クピディタスが調べた! そのトランクじゃない別な荷物が依頼されてる! それがGPS! 地下の爆弾と連動する装置! 早く‼」彼女は叫んだ。

 その声に、考えるより先に足が動いて立ち上がり、走り出した。

 遅れて思考がきた。この列車がくるのに合わせて崩落させるつもりなのだとしたら。そして、そこには減速できない時速二〇〇キロ近い列車が突っ込む。

 

 僕は走った。

 すでに消耗した体はいうことをきかない。大きく傾きながら激しく揺れる車内をまっすぐに進むことができない。つかんだ座席の把手が汗で滑った。

 トランクは爆弾じゃない、フェイクだ。捨てられても構わないようにだ。そして、別な荷物にGPSを載せている。それは小さな荷物でいい。それが東京駅に達すると、連動して

 窓の外を見る。新橋のカーブにかかっていた。有楽町を過ぎれば東京駅の分岐まで何秒もない。

 それでも走るしかなかった。示された座席は六号車だった。

 五つの車両をどうくぐったのか記憶がなかった。

 着いた。ここのはずだ。かたまりのような、肺で圧縮された呼気を吐いた。

 その座席に座っていたのが、誰だったのか、男だったか女だったかも記憶にない。座席前トレイに置かれていた小さな箱にはトランスポーター企業のロゴがあったことだけは見た。

 その席の誰かが反応するよりも速く、僕はそれを掴むと、ふたたび駆けた。

 あと何秒残されているのか分からない。駆けるしかない。

 後ろで待てと叫ぶ声がする。

 ぜいぜいと喉が鳴り、何度も左右の座席にぶつけた肩が痛む。

 強い風が吹いていた。一号車のドアを開けて待っていたのは、連絡を受けていた車掌だった。僕がなにをしているかを理解していた。

 その瞬間、ずしんと列車が揺れ、僕の体を後ろへと引き倒した。すでに東京駅の直前に到達していた。二三番線への分岐を前に急減速したのだ。ホームまで五〇〇メートル。

 僕のなえた足は、ドア直前の連結部で挫け、通路の床に転げ落ちるように倒れた。

「これを投げ捨ててくれ!」車掌の手にそれを渡す。

 車掌がそれを投げるのを、丸の内の馬場先通りから見える皇居の緑と交差して、それが宙を飛ぶのを、おぼろになる視界の隅で見た。

 東京駅通過まであと二秒か、一秒。

 それが峠ノ越のGPSだったのかどうか。

 僕にはそれは分からなかった。できるかぎりのことをするしかなかった。なぜなら、示された峠ノ越の荷物の座席は

 次の瞬間、床に倒れた僕の体を、下から強い衝撃が襲った。

 やはり一個だけではだめだった。

 終わりがきたのだ。



 私は履いていたパンプスを捨てていた。

 東京駅の石調のカラータイルは滑りやすく、そして裸足の足に水のように冷たい。

 裸足で八重洲北口のホールを走り抜ける私を、多くの者が奇異の目で観たことだろう。

「すぐに! すぐ伝えて! 間に合わない!」携帯電話に叫んでいた。

 大まかな説明はした。すでに警察とJRには伝わったかもしれない。だが、伝言ゲームをして待っている時間がない。数秒を争う。

 坂田は私に、峠ノ越のその爆弾の計画を詳細に教えてくれていた。私はそれを橘に伝えて対策を促した。

 この広大な東京駅のどこをどういけばよいのか、私に分るはずがない。それは地下中央通路と言ったはずだ。中央と書かれた表示板を頼りにそちらへ走った。

 すでに東京駅では、利用客の避難誘導が実施されていた。日本で有数のもっとも人の集まる場所、東京駅の夕方のラッシュ・アワーだ。駅から出ようとする人々、そして東京駅にやってきて立ち往生した人々で、八重洲口はすさまじいことになっていた。

 熱気でごったがえすその坩堝のなかを、何人かにぶつかりながら、大勢の通行人を分けて走った。

 八重洲中央口の改札で駅員数人が私を待っていた。

「高坂です!」

「うかがっています! こっちです!」手招きをしている。

 橘か、高山刑事の配慮だろう。だが、改札から濁流のように流れ出る人々がさえぎる。

「そこどいてて!」

 私は改札わきの銀色のアルミ格子の柵にまっすぐ走ると、右手を載せ、一気にそれを跳び越えた。スカートを翻らせた姿に瞠目した駅員の姿があったが、それに構う余裕はなかった。

 足を止めることなく、改札内へ走り込む。駅ナカ商業施設が並ぶ広い通路には、すでに利用客の姿はあまりない。

「こっちへ!」駅員が指し示す、新幹線のりかえ口まえの階段を駆け降りた。

 銀の鈴のオブジェを走り抜けた先、東京駅中央地下通路、その南側通路の奥には、数多くのコインロッカーが立ち並んでいた。その先、いちばん奥には手荷物預かり所がある。

 そこには多くの警官の姿があった。そして駅員の制服、JR関係者とみられる作業服の者たち。いずれも緊張感を漂わせ、しかしなにをするでもなく立っていた。

 私は携帯を手に持ったままだった。橘の通話を待っていた。

 東京駅東北新幹線二三番線、その直下、ここに峠ノ越の爆弾がある。

 ここには駅最大級の一二〇〇個を超えるコインロッカー、そしてこの駅最大の荷物預かり所があるのだ。その莫大な荷物の数には誰もが愕然としていた。それをすべて運び出す時間などすでにない。巨大爆発の危険があるそれを、運ぶ場所もどこにもない。

 そしてそれは、列車の到着と同時に起動させるよう、列車に載せたGPSと通信する。たとえトランクが捨てられ、列車が止められても、そののちに、GPSを手にしたトランスポーターの誰かひとりでも指示された東京駅にそれを配達すべくやってくれば、爆発する。

 それが真実であれば、列車の二三〇キロ以下での爆発という話は罠だと判るが、それを信じて列車を止める決断を、警察は下すことができなかった。

 爆弾を運び出すことはできず、爆弾がどれかも分からず、そして列車を止めることもできない。

 すでに列車到着まで数分しかない。

 そこにいた誰もが、縛られているような拘束感を味わって歯噛みする。

「もう時間がない! ここを退避する! ここにいる者は所定の地域まで移動しろ!」

 私服の警察官らしい男が怒鳴っていた。

「待って!」私はそこへ走り込んだ。

「あなたは?」

 私は叫んだ。

「説明してる時間がない! ロッカーは捨てていい! 手荷物預けのなかで、だけを運び出す! 時間がない! 早く!」

 坂田は私にその解答を示していた。

 東京駅は防犯カメラだらけだ。峠ノ越は自分の足でそれを置きにくるようなリスクを冒さない。東京駅には多くの利用客が、駅止めでトランクを宅配してくる。新幹線で使ったと同じハンドキャリー業者をあらかじめ使えば、それは列車が着くよりさきに駅に届けることができる。それはロッカーや、宅配用ボックスではなく、手荷物預けしかない。

 残り三分だった。

 そこにいた男たちが、ラグビーチームの突進のように手荷物預け所のなかへなだれ込んでいた。

「そとへ出して! そのまま! 動かすだけなら爆発しない! 運んで! 丸の内地下中央口! 急いで!」

 一〇数人の男たちがトランクをいくつも運び出し、トランクの車輪を使い、あるいは台車に山積みにして動き出す。

 叫びが、金属音が、車輪の音が、地下通路に乱反射してその場を埋めていた。

「でも、駅から出しても、どこへ⁉」誰かが叫んでいる。

「駅からは出さない! いいからいけ!」

 私は携帯を握っていた。列車に乗った白井に電話していた。坂田の答えとは別に、クピディタスが出した答えが送られてきていた。それを彼に送らねばならなかった。

「白井! それは爆弾じゃない!」電話をしながら、走った。

 預かり所の場所からおよそ五〇メートル、同じ地下一階の、丸の内地下中央口改札の前に走り込む。

 地下一階までと知られる東京駅には、さらに地下深く、地下五階に相当する奥底にたったひとつホームがある。総武線東京駅。

 丸の内地下中央口改札前エレベータは、地下五階の総武線ホームへ直通しているだった。

「総武線! 退避しました!」

「急げ!」

「早く!」

 あと一分。

「放り込め!」一〇個あまりのトランクがすし詰めに押し込まれ、エレベータの扉が閉じた。深層地下五階の閉鎖空間は、よほどの破壊にも耐えられる。

 丸の内地下中央口のホールには、東京駅のなかや周囲で密集するひとびとの声が、うなるように響き渡っていた。

 あと一〇秒。

 エレベータの動作する音は聞こえない。

 そして地響きが轟いた。



 その数分ののち、私は東京駅の八重洲口大丸前の外堀通りに立っていた。

 冷たい風が吹いていた。

 現場はまだ混乱していた。爆発の直前よりも大勢の警官が到着し、駅周囲のひとの波はその激しさを増し、ひとびとの声と熱気で駅の空気は煮えたぎっていた。

 消防車両の警報音が、空に高く鳴り渡っている。

 私は事情の説明を求められていたが、人々の混乱に乗じるようにしてそこから抜け出した。

 危険な賭けだった。果たして、列車の通過とともに、総武線ホームで爆発が起こった。しかしそれは、想定したよりも小規模なもので、爆発音と、振動は起こったが、ホームの一部を破壊しただけだった。

 それも坂田の予言のとおりだった。

 峠ノ越は地獄にいなければならない。爆破予告のため、東京駅は厳重な警備がなされ、多くの利用客は避難していた。それは彼の望む場所ではない。

 峠ノ越がこの事件で使用したものは、簡単な通信機材と、トランクなどだけで、すべてを名古屋から送ることで実現しただろう。その準備は収監されるまえにすでにあったに違いない。だが、実際に駅を破壊するには大量の爆発物が必要だ。攪乱目的のために大事な爆薬を大量には消費できない。

 峠ノ越の本当の計画の場所はここではない。その計画はいまだ判らない。残されていた峠ノ越のファイルの緻密さ、複雑さからは、もっと大きな規模の計画であることも感じられる。

 かつての渋谷の事件ののち、その巨大な破壊は世界中に恐れられ、その殺戮は畏怖された。坂田の言う峠ノ越の怪物的な欲望は、それに歓喜しただろう。より巨大な破壊が、より直接的な殺戮が、彼の優越の甘露になる。この東京駅のような遠隔な破壊などではなく、その場に支配者として立っていなければならない。

 それは挑戦的な事前の予告など必要としない。複雑な仕掛けである必要はない。渋谷の爆破は極めてシンプルで、計算されつくした大規模破壊だった。

 坂田は言った。峠ノ越はおそらく、自分の計画が漏れていることを危惧していると。

 峠ノ越は、新幹線の計画を時間どおりに、おそらく六年前に作った計画書のとおりに実行した。六年前とは列車のダイヤも変わっている。列車を変えてもよかったはずだが、あえてそれをしなかった。東京駅で爆弾が爆発したというニュースはあっという間に広がる。峠ノ越はそれを注視している。

 計画が漏れていて、妨害されることがなかったかを。

 坂田にとって、のか。そこまでを読み切って、私たちを翻弄したのだろうか。一七時一三分の時刻へ私たちがたどり着いたのは、もしかして峠ノ越の罠、あるいは坂田の罠だったのだろうか。

 坂田は峠ノ越のその計画を、あのファイルのばらばらのデータから読み取っていたことになる。六年前より以前から工学系の知識もあった坂田は、それを解読できる知識と、そして尋常でない高度な頭脳を兼ね備えている。それとも坂田はやはり、いくつかのデータをすでに削除し、私たちに残すファイルを選別していたのだろうか。

 いずれにしても、あの枚数のないマジシャンのメモにそれらすべてが記されているとは信じられない。あらかじめここまでのすべてが予測され、だけがメモに記されていたとすれば別だが。

 もうなにも分からなくなっていた。

 分っていることは、私に残された手は坂田に会うことしかないということだけだ。

 その場所はここではない。

 外堀通りに冷たい風が吹いていた。まばらな並木が身を揺すっていた。

 夕暮れが近づいてきている。

 靴を拾いに戻ろう。

 私はもういちど走り始めた。

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