第1章 神の罠

「タイムマシンなんかありえない」

 彼はそう言った。

 その声は極めてよく響いて、この三六〇席ほどもある教室の、後ろ端に座る私のもとにもしっかりと届いていた。

 その手にはスマートフォンがあって、その画面でさまざまな色が揺らめいているのが見える。それがゲーム画面であることは、離れていても判った。

 彼は二〇メートルほどもありそうな広い教壇の左端から降りて、学生の席の前に立っていた。文化財指定もされているというこの講堂型教室の高い天井、その古びたステンドグラスが鈍い色を落とすなか、左手の高い窓から斜めに入った陽光が、その真っ白なカッターシャツを輝かせて鮮やかだった。

 大学教授、入手した資料によれば四六歳だが、もっと若い印象だった。学者然とした感じはしない。

「あ、あの」

 彼の目の前の席の女子学生は、講義の最中に、いきなり彼に取り上げられたスマートフォンのほうへ手を伸ばしかけたままの姿勢で動けなくなっていた。

「知っているよ。これは時間移動をテーマにしたゲームなんだろう? テレビやネットで見たことあるよ」

「ああ、はい・・・」

 学生は、講義中にゲームをしていたことを咎められると思っていたところへ、予想外の言葉をかけられたので戸惑っている。

 彼はそれには構わなかった。

「タイムマシン、時間移動、そういったプロットを用いた映画、小説、マンガがこの世界にはものすごく大量に創作されているのを知っているよねえ。しかし、そもそも、時間を移動できる装置には極めてシンプルな、根本的な問題があることには、ほとんどの作者も、読者も気づいていないか、あるいは考えるつもりがないとしか思えないよ」

 彼は教室の左端から教室全体に向かって呼び掛けた。

 この大学、国立東神大学は、兵庫県神戸市の東、六甲山の山麓に広大な敷地を拡げ、多くの建屋が雑木林とともに山肌に埋もれるように建っていた。旧帝国大学の系列の歴史ある総合大学だった。

「君たちはどう思うんだ?」学生たちに語りかけた。

「それは認知コグニション、あるいは洞察困難インパスの問題を言っておられるのでしょうか?」前列のひとりの男子学生がペンを指揮棒のように指先に持って訊いた。黒板に板書されたゲシュタルト心理学の単語を指していた。

「違う。認知でも、哲学でもない。理論物理学だの、相対論なんかのややこしい答えをこの教室で君たちに求めたりなどしないよ。もっと簡単な話」

 少しざわついた。聴講しているのは前列のほうにばらついて座る五〇人ほどだけだ。

 そこは心理学の講義ではあったが、一般教養講義だった。つまり心理学専攻の専門の教室ではなく、一般学生を対象とした基礎学科講義なのだ。あまり難解な講義などしないで、学問の歴史だとか、基礎的な内容を、用意された教材に沿って教えるのが通例だ。

 彼はゲームをしていた学生にそれを一言も咎めることなく、手にしたスマートフォンをその学生の机に置くと、壇上にゆっくりと戻った。

「映画バックトゥザフューチャーで、マイケル・J・フォックスが乗ったデロリアンは時速八八マイルで時間を超え、三〇年前のその場所にあった納屋にその速度で突っ込んだ。観たことある? 知らなくてもいいよ。まあ、すべてのタイムスリップ・ネタではそういう設定なんだが、同じ場所に出るわけだ。ではそれは可能なのか?」

 ベリーショートに刈り込まれたごま塩頭と、同じくごま塩の無精ひげ、痩せた、特徴の薄い顔で、五〇歳台後半のはずだが、そうは見えない。ピアス穴のない耳、黒眼鏡。しわが目立つスタンダードな白いカッターシャツ。紺色のパンツが不釣り合いに細身なのは、ファストファッションのものと見える。先の丸い黒靴はおそらく安全靴だろう。文理ではあまり見ないが、工科系の研究室では履いている者をたまに見かける。

 長い教壇の端で体を斜めに、横顔のまま視線でぐるりと学生を見ながら黒いロイド眼鏡を持ち上げる。それが彼の華奢な体つきと細面にやけに重たげで、学者っぽく見えるとするならそこぐらい。

 だが、その男、たちばな燿大あきひろは、一部の学術的な世界や、テクノ系オタクの界隈ではすでに相当なビッグネームだった。インディアナ大学進化心理学修士、カリフォルニア大セントバーバラ校認知工学、生理学修士、スタンフォード大学認知心理学博士、論文のサイエンス誌掲載一回、ネイチャー誌掲載一回、コグニション誌、ニューロサイエンス誌などの中堅論文誌掲載複数、タイム誌の記事になったことが二回、NYタイムズなど海外新聞に掲載されたことが実に八回、ワイヤード誌のコラムも書いたことがある。私は海外の大学にも数多く出入りしてきたが、こういう一線級が、こんな一般教養科の講義を受け持っていること自体、日本の大学制度のいびつさを示すものだと思わずにいられない。

 彼が本来専門とするのは認知心理学、そして認知工学で、これは人間の知能、認識、理解のメカニズムを研究し、工学的アプローチ、つまり人工知能AIに結びつけるものだ。

「では思い出せ。地球の自転速度は時速一六〇〇キロ以上、公転速度は時速一〇万キロを超える。太陽系はさらに銀河を時速八〇万キロ以上で公転し、銀河は実に時速二百万キロ以上もの高速で、拡大する宇宙を移動する。つまり三〇年前の地球は、ここから少なくとも以上離れた場所にあるはずだ。そう、映画の設定のとおりなら、時を超えたデロリアンはまず、なにもない宇宙空間に出現するはずで、地球上の納屋に衝突なぞしない」

 犯人のアリバイを解き明かして見せる探偵のように、両手を広げて見せた。

「天文学に興味がない人間でも、地球が動いていることぐらいは知っているはずだ。では、なぜ誰もそのおかしさに気づけない? 三〇年離れた地球は少なくとも時速数千キロの相対速度でもってその場所から移動しているだろう。タイムマシンで出現するためには、そもそも時間を越えるという問題を解決しただけではダメだ。その無限に近い距離と莫大な運動エネルギーの差を瞬間的に解消しなければならないはずだ。それはおそらく、時間を超えることよりちょっと難しい。なぜなら、知っての通り時間は一次元だが、空間は三次元だ。その場所は観測不可能で、ワームホールを作れたぐらいでは解決しない」

 構内がちょっとざわついたが、呻き声のような抑えられたものだった。

「少し考えれば、中学生でも解る矛盾だが、これがどういうわけか時間を越える仕掛けさえあれば、どの時代にも行けるとされている。どの小説やドラマや、さまざまな創作物で不思議のないもののように扱われ、多くの知識人や、科学知識の素養のある作者によって、タイムマシンだの、タイムリープのお話が山ほど産み出されてきたわけだが、それはなぜだ? どういうことなのか?」

 静かになった。声を出す者はいなかった。多くの者がその姿に視線を集めていた。

 彼は静まった教室のなかを、再び観察するように注意深く見回した。標本を観察するドラマツルギー。ロイド眼鏡が陽光を反射する。

「それは、われわれが自ら思考を限定しているために起こる。タイムマシンという仕組み、時間を超越できるとするその機械が実在する、とそう仮定したとき、どういう仕組みで、どう作るのかなどあらゆる不明瞭なことにいったん目をつぶったわけだ。ところが同時に、それの周りの関係するあらゆる問題についても、知らず、知らず、いっしょに視界から外してしまっているんだ」

 なるほど、心理学の講義らしくなってきた。

 彼は人差し指をこめかみに突き立てる。

「私たちの脳は、目の前の問題に対応するために、その莫大な記憶のなかを常に忙しく探し回って、関連する情報をかき集めながら対処している。人間の脳は体重の二%ほどだが全身の二〇%のカロリーを消費する。全情報を検索していたのではエネルギーを食いすぎる。検索時間がかかりすぎてフリーズしてしまう。そこで対面している目の前のことに強く関連するものや、似通ったものを優先的に検索して、そうでないものを思考から外す。つまり誰だろうと、普通の生活のなかでは時速二百万キロで宇宙を移動している自分を意識することなどない。そういうことだ」

 腕時計をちらりと見る。

「次回にはもっとそれを掘り下げた話をしよう」

 終講までまだ時間があるが、切り上げるつもりなのだろう。そのあとの予定が迫っていた。

「私たちはいつも、自分がちゃんと考えていると信じている。ちゃん見ていると思っている。ちゃんと論理的に判断していると、変な誘惑や、過った情報には左右されてなどいないのだと。すべてにおいて、ほとんど遺漏はないはずだと。だが、私たちは実際にはいやになるほど間違っている。これでもかというほど見落としている。論理的でない感情的な判断に簡単に陥っていて、いつまでたってもそれに気付けないでいる。誰かの言動に恐ろしく影響され続けていて、すべての結果があらゆる間違いを示して目の前に現れていたとしても、それを頑なに認めようとしない。自分が正しい判断をしているという根拠を必死に探し、わずかなそれにすがりついて素晴らしい証拠だと言い募る。そういう経験は誰もが少なからず持ってるだろう? だが、言っておくが、それは私たちの劣った部分というわけじゃない。悪い部分という意味じゃない」

 一歩踏み出した。教壇の前に落ちている陽光にその全身が包まれ、神々しく光を放つ。

「それは神が私たちに与えたロジックだから」


「どうも、橘先生、お迎えに上がっております」数分ののち、私は教室の奥の席から移動していって彼に声をかけた。

 壇上で振り向いた彼は、焦ったようすで資料の束をかき集めた。

「ああ、すみません。もう時間でしたか? ええと、高・・・さん」

「高坂です。高坂愛子。時間はまだ大丈夫ですよ」すでに会うのは四度目だが、まだ顔しか憶えられていないようだ。

「でも部屋へ行って、服着てこないと。明日の準備には現場であと二時間は欲しいです。今日、東京からですか?」

 この場所、経済系の第一キャンパスの本館から、彼の研究室がある理学工学系第二キャンパス自然科学総合研究棟まではだいぶ距離がある。共通学科系で使われる第二キャンパスの教室から、わざわざ本館に変更してもらっていたが、それでも一山登る感じだという。

「いいえ、滞在は神戸です。会社が東京にあるわけではないので」廊下を並んで歩きながら答えた。古い漆喰と石で作られた壁に、タイル張りの床の足音が硬い音を響かせる。

「え、ああ、JNSのひとでしたね。失礼」

 ジャーナル・オブ・ネイチャーサイエンスは学術筋では有名なアメリカの論文誌だが、私を派遣したのはそれと資本系列が同じ、アメリカの一般向け雑誌、レポート・オブ・サイエンスだったが、いまさら正す気にもならず、スルーした。いまから向かう彼にとって大きなイベントを間近にし、緊張しているせいもあるだろうと忖度もした。

 私はフリーランスのサイエンスライターで、普段はシカゴで仕事をしていた。この雑誌社からの依頼でここにいた。ライターといって聞こえはいいが、学術論文のインパクトファクターを評価するような高い学識経験はなく、一般向けの自然科学ネタの文章を書くのがせいぜいの貧乏物書きだ。日本語のスキルだけを買われてオファーを受けたわけだった。

 私は海外生まれの私生児だった。ハイスクールぐらいから、ほとんど学校に通わず、私を支援してくれた養父の仕事を手伝って世界の各地を転々とし、大学は出たものの定職に就かず、その代わりいろいろな国の大学の学科を渡り歩いて今に至った。物書きや取材はいわばアルバイトで、知り合いのコネで食いつないでいるような現状だ。この仕事もかつて世話になった編集者からの紹介で、日本にくるのは数年ぶりのことだった。

 この橘という男を紹介され、この数日、仕事内容を取材してきたが、ほとんど相手にされていない。というか、無視のしかたに意図的なものを感じる。

 さらに数分ののち、事務局センターの裏に回したタクシーに乗って、山麓を下って街に向かった。

 遅い朝の港の景観を眺めながら坂を下る。記憶がよみがえる。神戸にはまだ子供のころきたことがあるだけだった。ここにはあまりよい記憶は残っていない。

「いよいよ、ですが、緊張されていますか?」

 高くなりつつある朝日が大阪湾に遠く反射して、港湾地区のくすんだ空気を通って鈍く光る。キリンのような姿で林立するガントリークレーンの姿をシルエットで揺らす。

「いや、それほどでも」相変わらず気持ちのこもらない、空気を素通りするような返事。

「結果はおそらく・・・、まあ、固いと思うので」言いながら視線が左右するのは、言葉とは裏腹なものがあるのだろうと見て取れた。

 そのあといくつかの質問をした。橘への専属取材は、多くのメディアから申し込みがあったはずだが、私の会社が選ばれていた。海外メディアであることと、学術誌との関係を考慮した大学側の判断であろうと推察していた。

 一五分もかからず、神戸の繁華街三ノ宮の中心部を山側から迂回し、山手の北野地区に昨年できたばかりだという外資系ホテルの車寄せにタクシーが滑り込む。スーツ姿の者、普段着風の者、作業着風の者が混ざった集団が待ち構えていた。

 橘が何人かの者たちと言葉を交わしながら進むあとを、私は歩いていた。外国人も何人か見られる。公の場なのでタイトなスカートのブラックスーツに、ヒールのある慣れない靴を履いていたため、彼らの速足には追いつけない。

 ひとびとの声が生む喧噪が、御影石を敷き詰めた広い車寄せにこだまして私を押し包んだ。


『神脳位』対局メディア関係者控室―――

 結婚式会場の案内よろしく立てられた木札の案内板は、海外誌がオファーするほどのイベントとしては、ひどくこぢんまりとして見え、対局の前日ということもあってか、メディアブースとして用意された部屋の人数もまばらだった。

 橘は、プロフェッショナル『将棋』のタイトル戦に臨もうとしていた。もちろん、橘が戦うのではない。橘の作った人工知能、AIシステムがプロ棋士のトップと戦うのだ。

 全五局で争われるその戦いの第一日目は、今日ではなく明日の朝から開始される。対局する双方は、この前日からこのホテルにて待機することとなっている。

 メディアブースはおそらく小規模な結婚式などが行われる会場を転用したものと見え、柔らかすぎる絨毯は明るい色で、高い天井にはオペラ座を思わせるような巨大なシャンデリアが、部屋の広さに不似合いに堂々と威を張っていた。

「あ、愛子さーん」そのなかに手を振る者がいた。

 走り寄ってきたその男は、雑誌レポート・オブ・サイエンスの日本語版を出版する桜田出版から派遣されてきた編集者で、いっしょに橘を取材している白井しらいしゅうという男だった。

「なれなれしく下の名前で呼ばないでよ。仲がいいとでも思われたらどうすんのよ」

「なんでっスか、仲良くしましょうよう」脂っぽい丸顔がにやけている。三〇歳を超えているくせに、ショートマッシュの髪型にタイトなスーツは若作り過ぎて似合っていない。ノータイ、グレーシャツがクールに見えないのは体形のせいでなく態度のせい。パンツの裾がやたら短いので、すね毛の足首が見えている。

「私の品位が疑われる」

 チャラい男だが、いちおうサイエンス雑誌編集なので、結構な高学歴だし、それなりの知能と学識はある。

 そのとき、どよめきが上がって、控室にいた関係者たちが一斉に席を立った。ほとんどの者がロビーへ向かう通路に走ってゆく。ひと気が消えたメディアブースの中央に据えられた一二〇インチの液晶画面に、ロビーの映像が映し出されていた。

 黒々とした影が、ロビーの端に現れていた。それはカラスの濡れ羽のような濃い紺藍の和装の着物で、羽織も掛けない着流し、懐手のまま肩をいからせて足早に歩く。周囲から声を掛けられているが応えるそぶりもなく、傲然と顔を上げたままだ。

 坂田源治郎さかた げんじろう、三八歳、幽気をまとうその姿は、気安く近づこうとする者の足を一瞬たじろがせる。異様なまでにやせ細った四肢が着物の上からでも伺える。そのきちんと刈り込まれた白髪のない黒髪や、剃り跡もない綺麗な顔の手入れなどがいかに清らかでも、その青白い顔の大きな目が、彫りの深い眼窩と、やつれ隈に縁どられてまるで髑髏のように見え、病人の風貌に見せてしまう。

「行くわよ」私と白井も、踵を返してその場を後にし、廊下を駆けてロビーを見下ろせる二階のせり出しに立った。その姿は記事などで何度も見たが、直接見るのは初めてだった。

 二五メートルプールがそっくり入るほどの広さの吹き抜けのロビーは、中央にかけて落ちくぼんだ形状で、その中央を囲む形でソファや、調度が配されている。その鮮やかな緋色の絨毯の中心を、黒々としたからすが行き過ぎる。二階、三階までの手すりにも多くの人が現れて見守る。その誰もが息を止める。その容姿、たたずまい、それだけでなく、その体から毒を含む空気が溢れ出てきそうな、禍々しなにかがその内部に充溢しているような、形容しがたい怖さを感じさせずにおかない、そんな男だった。

 その坂田のすぐ後ろを、色を合わせたような黒ずくめのパンツスーツを着た長い黒髪の女性がついてゆく。北美川きたみかわ涼音すずね。坂田の秘書、あるいはマネージャーというような立場で、メディアに顔をまったく出さない坂田の代わりに外向けの対応を一手に担う。高学歴を裏付ける知的な美貌とともに、国体バレーボール選手でもあったという長身はここから見ても際立っている。姿勢がよく、肩幅の広い体格は男性勝り。

 私は彼女を知っていた。こんなところで会うとは、そして、そんなことをしているとは、思ってもみなかった。最後に会ってからかなり経っているが、その優れた容姿は驚くほど変わっていない。

 私自身は生まれてからほとんどを海外で生活していて、将棋については詳しくないどころか、単語を知っていたレベルだった。それについてあらためて調べるまで、日本でプロ棋士なるものの戦いがいかに注目を浴び、その世界でA級といわれるトップ棋士の力がどれほど神掛かったものであるかを知らなかった。

 そんな私でも、坂田の天才は尋常のそれでないと容易に分かるものだった。

 日本の将棋愛好者人口は五三〇万人、そのなかで天才、神童と呼ばれ、抜きんでている者のみが入れる奨励会員がおよそ二〇〇人、それを超えプロと呼ばれる四段以上は一六〇人しかいない。そのなかのさらにトップ十一人がA級棋士と呼ばれ、超人的な強さを自他ともに認める者たちだ。

 坂田は、そのトップが競い合う八大タイトル戦を、実に二年にわたってすべて占有し続けているのだ。

 対する橘は、学者として天才と呼ばれる類の男だったが、坂田は世の中では天才を越える神と呼ばれていた。棋士でありながら工学修士の資格を有し、将棋におけるAI研究では学者はだしの知識を持ち、数年前まで、芸術、美術などさまざまな分野で秀でた才能を発揮した実績がある。ここ数年はほとんどの人間関係を断ち、将棋に没頭し、ほぼすべての対局で勝ち続け、たまに敗れるときは、なんらかの戦法を試している過程だろうと言われていた。

 特に、これは世界的にも特異なこととして報道もされていたことだが、坂田は将棋ソフト、AIとの対局も何度か経ている。

 そして

 それは、認知工学、情報科学のみならず、将棋界でもすべての者が、ありえないことと口にする事件だった。

 人間は現代のAIにはもはや勝てない。それは現代ではすでに周知の事実とされる。

 一九九七年、チェスのAIソフトDeepBlueは、不世出の世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフに勝利した。二〇一六年には囲碁の最高位イ・セドルを、AlphaGoが退け、そして同年、将棋の名人位佐藤天彦をPONANZAが制した。それから年月が経ち、AIの技術と計算機性能はさらに上がり続け、いまでは人間が勝つことは物理的に不可能とされているのだ。

 将棋の棋譜パターンは一〇の二二〇乗といわれ、すべての手を読みきることは、世界最高位のコンピュータでも物理的に不可能で、どこまで読み切れるか、そして経験に基づいた戦略をどう有利に進めるかが、棋力の差になる。しかし、パソコンレベルの将棋AIソフトでも一秒間に数千万手を読むことが可能となっている。それだけでも太刀打ちできるレベルににない。

 坂田はロビーの中央を歩みながら袖に含んだ手を出した。その手には手帳ほどの大きさの紙の束が握られていた。

「おお、出ましたね、マジシャン坂田」白井がつぶやく。同じ張り出しの手すりに肘を載せて下を眺めている何人かのメディア関係者たちが同じ単語を口にしているのが聞こえる。

 坂田はバインダーに挟まないシステム手帳のページを常に携帯していることが知られている。トランプカードのようにめくって、また書き込む作業をいつも繰り返しているのだ。眼下を歩み過ぎてゆく姿にも、右手のペンを出すようすが垣間見えた。彼は対局場にも常にそれを持ち込む。対局には電子機器でなければ持ち込みを禁止するルールはないが、一般にはタブー視される。その姿から『マジシャン』とも呼ばれ、そのメモには彼を超人ならしめる謎が隠されているとされるが、メモの中身を見たものは誰もいない。

「見えました?」

「ここから見えるわけないでしょ」

「なにが書いてあるんでしょうねえ」

 坂田の姿が場内に消えると同時に捌けるひとの群れと同じく、私たちはそこを離れて二階奥の会議室に向かう。メディアの通行証と別に持つ関係者証は、途中に立つ警備員を障害にしない。この奥に入れるのは、専任取材を許された私たちだけだ。

 その部屋は二〇㎡ほどの狭い部屋で、宿泊するビジネス客向けの会議室と思われる部屋だった。什器を奥へ押しやって、アルミニウムシルバーの大きなパソコンの筐体が数台設置されていた。

 橘はそこで、何人かのスタッフや、学生たちと、なにかの打ち合わせを行っている最中だった。確か、通信速度の調整をするのだと言っていたはずだ。

 橘が作ったAIソフト、坂田と戦う予定のそれはここにはない。東神大学の理科学施設棟にあり、この場所にあるのはそれとネットワークを結ぶための設備だ。

 彼は私と目を合わせたが、言葉をかけてくるでもなく、話を続け、それきり置き去りにした。相変わらず、この男の素っ気ない態度にはイラつく。

「あいかわらずっスねぇ」白井がため息をつく。

「研究肌のひとにはいますよねぇ。雑誌記者の取材なんてうざいって思ってるんでしょうけど、それでももうちょっと愛想よくしてもよさそうなもんでしょ」

「そうね。そもそも、こういう企業イベントに参加している時点で、メディア露出は意識してると思うし。ふつうはどういう報道のされ方をするかも気にするものなんだけどね」

 そんな橘も、坂田については驚異的というより、超自然現象と言っていた。

 AIに全勝していることがどういうことなのか。すべての手を読み切ることは不可能で、対局すべてにおいて最善手を選び続けることはできない。すでに人間のレベルを越えているとされる現代のAIソフトですら、すべての対局で勝つことはできない。それに勝ち続けられる謎とはなんなのか。そこにはAIではなし得ない、人間の知能だけが持つ隠された能力が、あるいは超人坂田だけが持つ能力があるというのか。

 橘は、研究者としてそれを知るために坂田との対局を受諾したのだと言う。

 その後、続々と関係者が集まり始め、あわただしい雰囲気が高まっていった。

 全五局で行われる「神脳」位対局は、映画やドラマなどを有料配信する大手外資系のサブスク・メディアがスポンサードし、独占放送権を持ち、企画し運営している。国内の放送事業者や出版社が束になっても敵わない資本力で、賞金額も驚異的だったが、そのオファーを坂田が受けたことが世間では驚きをもって受け取られていた。

 ここ数年、坂田は八大タイトルと、一部の公式タイトル戦を除いて、企業主催の一般公式戦には顔を出しておらず、一切のメディア取材をも受け入れていなかった。棋戦後の取材すらほとんど無視する偏屈ぶりで、政府や、慈善団体、そのほかあらゆる高額のオファーにも意を介さなかった。

 そもそも、橘のシステムは、坂田がかつて相手にしたAIソフトとはレベルが違っていた。そのシステムは、もともと将棋だけでなく、どのような命題にも対応する汎用的学習システムを目的として開発されたもので、東神大学だけでなく、国内主要五か所の大学ともリンクした巨大な並列クラシファイシステムを使って学習処理されたAIだった。

 すでに試験検証で一般のAIソフトに圧勝し、棋力を現すレーティングという判定で一〇〇〇〇を超えていた。プロ棋士でも二〇〇〇を超えるものが少ないといわれているのだから、人間との比較はすでに意味がないとされ、いかに坂田であろうとも、これと戦えば、そもそも勝敗を競うものにすらならないと考えられていたのだ。

 それに対して、坂田は一転してメディアの取材に応じ、勝てると言い切ったのだ。

 これに反応した海外メディアが企画を持ち込み、この戦いが実現した。正規の棋戦とは明らかな一線を画すAIとの戦い、海外メディア企画のこの『神脳戦』を、坂田はどういうわけかすぐに受諾した。しかも、同時期に行われる主要な一般戦を回避してまでそれに臨むとした。それは、棋士らしくない態度と評され、子供じみた意地を張っているとも評されていた。


 翌日、第一局―――。

 対局会場は、ホテル最上階の日本料理の店を借り切って行われていた。真っ白な檜の柱と水墨画の襖絵だけで、花活けの飾りもない二〇畳ほどの和室で、明るい障子窓の雪見から神戸の海が垣間見えている。

 そこに坂田はひとり座している。

 昨日と同じ紺藍の着物姿が、白い畳と障子の部屋のなかでその場だけ、洞穴のように光を失わせていた。

 坂田と、AIの手筋を代行する白いロボットアームだけが、人間同様に棋盤を差しはさんだ姿でいる。そして、通常の棋戦であるような時間や遂行を管理する立ち合い者がいない。それらはすべてAI画像処理で判定され、時間のアナウンスも自動音声でなされる。そのための機材が、立会人代わりに棋盤の周囲に設置されている。

 それを私は、橘とともに下階の会議室でディスプレイ画面越しに見ていた。その隔離された人工物だけの空間で、金糸の座布団のうえにひとり座す人間坂田の細い肩が、ひとならざる巨きな力に抗う脆弱な人間の姿のような、象徴的ななにかを感じさせずにはいられなかった。

 そして先手番、坂田の第一手目から会場には異様などよめきが上がった。

 先手3八金―――。

 メディアブースと併せて設けられた解説のための特設会場が、別なディスプレイに映し出されている。そこで大盤解説と呼ばれる大きな模擬盤を背に、有名棋士が解説をしている。彼は自嘲とも揶揄ともとれない笑いを含んだ顔で説明した。

「いやあ、初手3八金ですかぁ。よくわかりませんねぇ。しかも、これは・・・」

 それは、かつて二〇一六年に、名人佐藤に対して、AI将棋PONANZAが初手で差したものと同じだったのだ。その当時も、AIが差す不明手として物議をかもした手なのだと解説は述べた。

 どよめきはそれで終わりではなかった。

 序盤から数手は、それぞれが定跡にしたがうものと見えていた。坂田が角換わりを狙うのに対し、AI側は受けずに矢倉に構える気配だなどと、大盤を指しながら解説者は告げていた。

「坂田名人、守らないっスねぇ」

「守った・・・ほうがいいわけ?」白井は私よりは将棋に詳しい。それゆえに派遣されてきたのだろう。

「AI将棋はなにやってくるかまったく分かんないわけっスよ。ノーガードで打ち合うと怖いっスから、まず矢倉なんかで守り固めて、定跡が固まってない棒銀とかで攻めるのがセオリーと言われていますね」

 しかし、その途中から坂田は変進した。

「4七銀?」会場に上がるおお、という声と併せて、解説者の声が裏返った。

「これは・・・、まさかここから腰掛銀、かな・・・いや、そんな」白井がつぶやく声が大きくなる。

「いや、ここで4七銀ですか、3三桂跳ねの頭を気にしていますかね・・・。いや、そもそもまだ跳ねないでしょうし、3七歩と差されると・・・、いや解らない」画面上の大盤解説者の声も上ずって聞こえる。説明できないものを言葉にしかねて苦慮するさまが見て取れる。

 そして、ほぼノータイムで差された後手AI側の手は、3三桂馬。

 再びどよめきと、解説者のうめき声。

「そこ開けちゃったら矢倉の意味が・・・」白井の声が終わらないうちに、坂田の手が動く。

 先手8八飛車―――。そして、ノータイムで差される後手1五歩―――。

 どよめきが大きくなり、メディアブースで立ち上がるものが多くいた。

「無意味だ」

 私の横で、吐き捨てるように橘が声を出した。その表情に、驚きと戸惑いを隠さない。

 驚いて見る私と目が合う。

 私には盤上でなにが起こっているのかを知る由もない。橘はこの将棋AIをプログラミングしていることからも分かるように、アマチュアでもそれなりの棋力を持っていると聞いている。

「4七銀からの数手は、悪手そのものだ。数字を見てもそれが分かるだろう」

 彼が差す手元のディスプレイには、いくつかのウェブ画面が表示され、そこに数字が踊っている。近年の将棋対局では、並行していろいろなAIソフトによる形勢判断がなされ、数値化されて報じられていることが多い。それによれば、坂田の差した手は、最善手どころか、最悪手よいってよいものだ。その手を指した時点で、坂田の優勢ポイントが下落している様子を、ほとんどのAIが指し示している。

「なるほどねぇ。でもまだ序盤なんで数字の差はそんなに大事じゃないっスよ。でも無駄手は無駄手っスよねぇ」白井の間の抜けた声には緊張感がない。

「でも、どうしてビーナもがそれに併せるように悪手を選択しているんでしょう?」橘の前でディスプレイをモニターしている学生スタッフが、困惑を露にしながら振り返る。

 ビーナとは、橘が今回持ち込んだAIシステムの名前だ。おそらくはヘブライ語の知性や理解を意味するBINAHからの命名だろう。

 橘は学生の質問には応えず、唇を噛んで画面を凝視していた。

 坂田は懐から、紙束を取り出してめくり始めていた。しばらくそうしたのち、ペンを出して書き込みをする様子がモニターに映し出されている。

 メモなどの記録を持ち込む棋士は、少なくともプロ棋士にはいない。電子機器は禁止されているが、それ以外のものを持ち込むことはルール上禁止されてはいない。だが、プロ棋士の並外れた記憶力はそれを必要としない。対局中の手順はもとより、過去の棋譜、そして学習した莫大な数の棋譜の多くを暗記している。したがって、メモの意味がそもそもない。

 そのプロ棋士の最高位にある坂田のその行為の目的はなんなのか、誰にも分かっていない。

 そののち、数手の交換があったが、いずれも異様な手筋であったことは、会場の混乱具合と、大盤解説のへどもど振りからも明らかだった。

 そして、坂田は長考に入った。

 大盤や、画面の盤面を前に、多くの棋士や関係者が一様に渋面を落としている。

 その盤面にはあたかも意図的に均一に配置されたかのように、駒がばらばらに置かれている図がある。

「みんななにを騒いでいるのかサッパリだわ」

「そうっスねぇ。要は定跡どこいったって感じっスよ。坂田名人もAIも同じだけど、やりかけて止めちゃうし、元戻した駒もあるし、それまで差した手が無駄になるのお構いなし。ノーガードで攻めるのかと思えばそうでもなく、かといって守るつもりもなさそうで、なんか子供が駒を適当に置いているみたいにしか見えないんっスよねぇ」

 私には高位棋士の手筋の良し悪しなど分からないが、AIと人間棋士との戦いが、過去どのようにされてきたのかの知識はすでにある。

 将棋において初手から投了に至るすべての棋譜を読み尽くすことは不可能である。したがって、勝負の終盤に差し掛かるまでに、まず序盤から中盤にかけて、いかに有利な状況を作っておくかが目標となる。そこで、一三〇〇年におよぶとされる将棋の歴史において、攻めや守りに有利となる戦型が研究、構築され、『定跡』と呼ばれる多くの序盤の駒組み、差し順が作られている。

 かつてのコンピュータ将棋では、これら定跡と、それを用いた莫大な数の過去のプロ棋士の棋譜を学習させることで、プロ棋士に比肩する棋力を獲得させるに至った。しかし、人間棋士との戦いでは、わざと定跡を外した手を指されると、コンピュータ側は正常な判断ができなくなるといったことも発生していた。どうしてもAIの学習が定跡の手順に偏ってしまうためだ。

 しかしほどなく、『自己学習』の技術が生み出された。過去の棋譜に頼るのでなく、AIが自分自身の複製との対局を何千何万回と繰り返し、人間の棋士が試したことのない棋譜を新たに生み出して学習する。かつて囲碁王者を倒したAlpaGoに対し、自己学習で作られたAlphaGo Zeroは一〇〇戦一〇〇勝という、驚異的な能力を示した。

 それによって棋力を獲得したAIは、人間の常識が通じない奇手を連発することで知られ、どのようにその手を生み出したのかは、人間の知識では追いつけない。

 では、坂田が繰り出しているこの手はなんなのだ。

 AIビーナが差したものが、定跡を外した新しい有効手であるとして、では坂田は?

 一時間あまりの長考ののち、坂田が打った手にはもはや、どよめく様子は見られなかった。大盤解説によれば、それもやはり奇手だったようだが、すでにそれには誰も動揺しなくなっていた。

 つづく中盤までの手は、両者ほぼノータイムで差され続けられていた。

 AIビーナが人間のような長い思考時間を要さないのは理解できるが、坂田がほとんど考慮時間を費やさず差し続けているのは驚異だった。通常の一日制の棋戦での持ち時間は双方三~五時間だが、AI側の早さを考慮して、待ち時間は六時間に設定されている。しかし、坂田はそれを要しないかのようだった。

 そしてそれよりも、その場の誰もが驚愕していたのは、徐々に、そして確かに、坂田が優位な局面になりつつあることだった。

 序盤を過ぎると、ビーナも、そして坂田も、異様な奇手はほとんど差さず、最善手とされる手を次々と差していた。会場が何度もどよめくたび、それぞれが妙手を差していることは、ディスプレイに表示されたレートの数字が物語っていた。

 私の横で、橘は食い入るようにビーナのモニター情報をのぞき込み、助手たちと言葉を交わしながら指図を送っている。その顔は紅潮し、上着を脱いだシャツの背に汗の染みが浮かぶ。

 AIビーナを坂田は凌ぐのか。

 その坂田の序盤から中盤の手を、その場の誰も理解できていない。では坂田は、数百年棋界が作り上げてきたものをすべて超越するような、定跡を凌駕する手を自ら生み出しているというのだろうか。

 多くの者の胸に、坂田が健闘する、あわや勝つことへの期待は確かにあった。それはもしそうなら胸躍るたぐいの期待であったはず。それはAIビーナが出すであろう奇手への興味と併せて熱を持っていた。

 しかし、坂田が見せているものはそれらを根こそぎ覆す、あまりにも非現実的な衝撃だった。当初に会場に満ちていた期待の熱気や、興味の興奮がどういうわけか冷めてゆくのが分かる。会場や、メディアブースで交わされていた声が少なくなっている。

 代わって冷たいなにかが足元から流れ込んで、その場を満たしつつある。

 多くの者の胸がざわめく。

 それは恐怖だ。人知のおよばないなにかに相対したときに、誰もが感じるそれだ。

 その会場のなかで、人囲いが途切れるようにすっぽりと空いた空間があった。その中心に北美川涼音の長身のスーツ姿が、黒いモダンアートオブジェのように屹立していた。

 私は学生のころ、しばらく日本の大学に通った時期がある。そのときに同じ研究室にいたのが彼女だった。べつに仲がよかったというわけではなかった。むしろ、その逆だった。

 彼女といっしょにいたのはたしか、環境学の研究室だっただろう。その分野では世界的にも指折りのその研究室に、他の地方大学から研究員としてきていて、しかも国体選手を兼任しているという、いわゆる傑物だった。プライベートでの付き合いはなかった。知能が高く、仕事が緻密で、行動が沈着な彼女と、時間にルーズで、スケジューリングが下手で、整頓が苦手だった私とは反りが合わず、何かにつけて衝突することが多かったことしか覚えていない。そののち、彼女がどうしていたか、なぜ坂田の秘書をやっているのかなど知る由もない。

 その背筋の美しい立ち姿は、雑然とした周囲の中で巍然として映えて動かず、画面に映されている坂田の姿を瞬きもせず見つめる表情もまた、美麗な作り物のように動かない。

 長年、彼のもとで献身的に働く彼女には、坂田との男女の噂も絶えないようだった。坂田は確か、妻を事故で失ってから永いはずで、独り身であるから下世話に騒がれる根拠もないはずだろう。そんな彼女が真摯に彼を応援しているであろうことは間違いない。しかし、その姿が私には、そういったものを超えた、もっと切迫したなにか、一切の弛緩を許されない凄まじい緊張感のようなものに感じられていた。

 終盤にかかる局面、坂田は徐々に時間を使い始めていた。

 何度も手のなかの紙束を繰りなおすようすが見られた。

 終盤に入ると、最後の投了図までに可能な手筋の数は少なくなり、もはや天文学的数字ではなくなる。一秒間に数千万手を読むAIに、終盤までに優位に立たれると、それを挽回して勝つことはほとんど不可能に近いとされる。もしも優位に立っていたとしても、一手でも最善手を外せばそこで、簡単に優勢が逆転する。

「AIはともかく、坂田八冠、早いですね」大盤解説についたもうひとりの女流棋士解説者の声は、その心の不安を表すか細いものだ。

 詰めにかかる終盤、勝利に近い側のほうがより緊張し、神経を摩耗させる。トップ棋士の戦いでは、終盤でほとんどミスをしない。優位な立場からそれを失わず、一手を過たなければほぼ確実に勝利に届く。しかし、わずかな読み漏らしが優位のすべてを失わせる。逆に、劣勢の側は、優位側が読み切っていない手を探して深読みの応酬が繰り広げられる。

 坂田は時間を使ってはいたが、普通の棋戦の終盤のそれと比べると、少ないといわざるをえないのだ。それがその場の誰しもにとって異様なことであるのは私にも感じ取れた。


 そして一局目、途中からの坂田の優勢は揺るがぬまま、圧倒的ともいえる大差で坂田の勝利に終わった。一六時二二分。AIビーナ投了。わずか九六手だった。坂田は持ち時間六時間のうち、二時間あまりを残して勝利した。

 控え会議室でビーナのモニターをしていた橘は、呆然としていた。

「ありえない。そんなことは」横にいた私に言ったのではないだろう。ひとりごとをつぶやいた。

 坂田は、これまでも何度かあったように、感想戦を拒み、席を立った。むろん、通常なら行われる棋戦後の記者取材など受け容れるはずもなかった。

 用意されたホテルの自室に、黒羽の裾をひるがえして帰ってゆく坂田の後ろで、北美川涼音が、軍勢の殿を務める武人のごとくに立ちはだかり、詰め寄ろうとする関係者やメディア取材に対して取材やコメントは対局の間、一切受け付けないことを繰り返し告げていた。

 坂田の姿が消えると、会場の空気はさらに冷めてゆく。

「普通なら、感想戦やら、振り返り解説やら、みんな気になる棋譜を話し合ったりして、棋戦のあとはすごく会場が賑わうもんなんっスがねぇ」白井が周りをきょろきょろするのと同様なしぐさをする者たちが会場内に多くいる。自分で消化できないなにかを、どこかで誰かに助けてもらいたい心理の現れだろう。

 途中から繰り出された坂田の複数の手筋は、見る者の多くの想像を越えるもので、将棋の常識では悪手、緩手としか見えないその手が、どんどん存在感を増して行く盤面を誰もが目にしていた。それがどのように有利に働いているのか、それがもたらす結果をどうして坂田があらかじめ予測できるのか、坂田本人がいなくなったいま、解説できるものはそこに誰ひとりいなかった。

 私はそれらを眺めながら、目前の出来事への驚きよりも、心の中に生じたが募っていた。釈然としないなにかがのどの奥に引っかかって落ち着かない。

 柔らかい絨毯をヒールで蹴って振り返ると、会場奥の廊下へ走った。

「高坂さん。どこいくんスか!」白井の声は無視した。

 白服の警備員の前を、関係者証を高く掲げながら通り過ぎ、緋毛氈のような絨毯と、金糸の織り込まれた壁紙の廊下を奥まで抜ける。STAFFと書かれた木調パネルのドアを肩で押して開けた。

 その先は、政治家など要人や、一部の高級客を最上階スイートまで届ける、いわゆるVIP向けのエレベータホールだ。

 緋色の絨毯の上に、黒い穴がふたつ。

 坂田源次郎がそのおおきな眼球をこちらに向ける。その姿を、北美川涼音の長身が覆い隠した。

「ひとこと、聞かせてほしいことが」弾む息を抑えてそれだけを言った。

「申し訳ありませんが、先ほども申し上げたように、取材はお断りしています」彼女の声もまた鈴の音のようだ。

「そうね。でも私は・・・」

「専任取材の担当であってもお断りしています」さえぎる声は、荒らげてはいないが鋭さがあった。その事務的な突き放した口調は、ビジネスのレベルでしか私と口をきく気はないという意思を、これでもかと突きつけているようだった。

「高坂さまのことは、一度ご挨拶しておりますので、もちろん承知いたしております」

 関係者の顔合わせは数日前にしているし、挨拶もした。なつかしそうに肩を抱き合うようなことはないだろうと思ってはいたが、会ったその際の、道端の犬のフンでも見るような渋面を見れば、過去を確かめ合う気すらないことは瞭然だった。

 背中でドアが再び開く音がする。

「高坂さぁん。どうしたんですぅ?」

 白井のほうに視線を送りもせず、彼女は私のほうへ詰め寄ってきた。

 長身を寄せて、上から三白眼で睨め下ろされるのかと思いきや、腰を折って頭を傾けながら柔らかく身を近づけ、ゆっくりと言った。

「いかなる方でも、坂田はお話することができません。今回のご契約の節にもお約束しておりますので」化粧や洗髪料の香りすらしない。

 すい、と身を引く。その大きな黒目に天井のLEDライトが映って濡れた線を描く。

 流れるように遠ざかる彼女の後ろには、すでに坂田の姿はない。

 そのまま私は一歩も動けず、エレベータに吸い込まれる彼女の姿を見送った。

「いや、ムリっスよ。普段から誰とも会わないことで超有名なんスから。記者取材どころかですね・・・」

「将棋連盟の偉いさんや、政治家とかにもって言うんでしょ。知ってるわよ」腰に両手を当て、鼻でため息を吐いた。

「だったらなんで?」

「どうしても訊いときたいことがあった。納得いかない。なんかおかしい。彼女もそう。なに? お話ができません? なんか変。なんか」お話はしません、じゃなくて、? 彼女の憂えたような表情は、拒絶というより、不可能なのだと言っているような。つらいこととして告げているもののような。

「なに言ってんスか」

「そうだ、橘は?」

 再び踵を返して広間へ向かう。後ろで白井のどたばたとした足音がした。


 橘燿大は記者取材を受けていた。そのときの表情は平素とさして変わらない様子だったが、目線が落ち着かないまま左右に動くさまは、その動揺を表すものだった。AIビーナに異常があったわけでなく、正常動作の範囲内であったこと、坂田に圧勝すると誰もが予想していた結果を覆された要因がなんなのか、これから分析が必要であるといったことを述べていた。

 私は控え会議室に戻ろうとする橘に、廊下で歩み寄ろうとした。

 橘は私の眼前に、手のひらを広げて押しとどめた。

「すまんが、いま君に話すことはなにもない。さきほど記者に話したこと以上の情報はなにも話せない。なにも解っていないんだ。理解してくれ」

 その扱い方に腹の底が熱くなったが、そこは黙ることにした。橘の表情はそれほどに打ち沈んで見えた。

 釈然としないなにかだけが、私の腹腔の底に残された。

 人々が去り始め、一時、獣の咆哮のようだった会場の喧噪がゆっくりと引いてゆく。広いロビーに幾重にも反響して届くそれは低い唸りのようで、なにかの動物の、死に際の鳴き声のような気持ちの悪いものに聞こえた。


 橘のその苦悩は、その翌日も翌々日も続いていた。

 東神大学の理科学研究棟の電算機室は、彼が講義をしていた旧校舎とは対照的な、近代的な設備の整った建屋だった。コンピュータを扱うオフィスや、研究室では当たり前となったフリーアクセスフロアのカーペット床は、一枚めくれば下に大量の電源コードやケーブルがとぐろを巻く二重底で、ヒールで歩くと軽い音がする。

 飾り気のない白いビニールクロス張りのコンクリート壁に囲まれた広いフロアの一角を、取ってつけのような華奢なパテーションで区切った部屋があり、そのなかで橘は、昨日の対戦で吐き出された大量のデータと格闘しながら、ビーナのサブシステムをこね回していた。

 壁際を占拠した段ボール箱の山や、使われていない古いパソコン機材が載ったスチール机が部屋を圧するなか、折り畳み机にこぼれ落ちそうに載せられた複数のディスプレイの前で、二人の学生と話し込んでいる。

 髪が乱れて、目の下に皺が深い。

 私と白井が入っていったが、こちらをちらりと見ただけだった。相変わらずだ。

 この神脳戦は、主要タイトル戦のように全五局で争われるのだが、通常一〇数日の間隔が設定される一般棋戦とは違い、わずかに三日をおいて実施されることになっていた。しかし、この全五局の戦いの間、途中でAIビーナのシステムを改変することはルール上禁止されている。したがって、彼らが急いでなにかをしなければならないわけではない。それでも昨日のことは彼らに衝撃であったのだろうことは明白で、その苦悩をなぜと問うならそれは野暮というものだ。

 私は二日待った。橘が落ち着くのを。

「そうは言ってもですね、ビーナには乱数が入ってるんですから、再現性を意図的にとか、そもそも再現期待を持つこと自体無理じゃないですか」

「しかし、SVMで解いてはいないはずなんだ。ヒューリスティック域でないとあの解は出ないはずだ」

「あのう、ちょっといいかしら」学生との会話に私は割って入った。

 橘は振り向いたが、視線を合わせたのは一瞬だけで、すぐに目線を外した。

「すまんが、今はいそがしい。夕方にしてもらえないか」

 私は二日待った。彼がそれに気づくのを。

「橘さん。そりゃないっスよ。ここ二日間ぜんぜん話させてもらってないんスよ。それにいま研究したってシステム触れないんでしょ」ここで白井の言葉に耳を貸すようなら、そもそも私たちを放置などしない。

「それは理解するが、私だって大変なときなんだ。君たちだって学術研究に関わる者なら理解できるはずだ。それに、さきの記者向けに言った言葉以外に、まだなにも分かっていないんだ。お話しできることはなにもない」

 私は二日待った。私の違和感が解消するのを。

 次の瞬間、私はヒールでフリーアクセスフロアを強く蹴った。

 そのまま橘の両足の間に片足を踏み込む。彼の白衣の胸倉をつかんで押し込んだ。

 橘は踏み込んだ私の足に引き足をひっかけ、そのまま後ろのエンジニアチェアにどしんと尻もちをつく。

「いいかげんにしてよ」私は握った片襟を放さず、彼に覆いかぶさって告げた。

 橘の両目が驚愕に開かれている。

「話はなにもない? 記者に言った以外に? あたしたちをなんだと思ってんの? あなたたちの勝手なやりとりの観客オーディエンス? これでもサイエンス記者なのよ? 科学はつねに開かれた評価と批判のもとでしか発展しない。それは机の上の数字にだけ愚痴ってたってダメってことよ」

 言いながら、彼らが検証していた机の上のデータプリントの束をつかみ取った。ぐしゃりとしわになったそれを彼の胸に押し当てる。

「あなたはおとといのビーナの出していた不可解な手が、なぜ差されたのかシミュレーションで解析しようと試みたけど、SVMのモデルであの手は再現できない。評価関数が多すぎて、単純解析すると勾配消失してしまう。特徴量は取れない。粒度も決まらない。そうなんでしょ。解析するにはビーナのログを使って逆モデルを組まなきゃ、でも次の対局までそんな時間はない」

 橘はもう驚いてはいない。視線を外さず、正面から私の顔を見上げていた。

「いや、モデルは私のオリジナルだ」

「そんなことを言ってるんじゃ・・・」

「いや、分かっている。言いたいことは」

 私は手を放して後ろへ下がった。橘はうつむいて、ひとつ息を吐いた。

 白井と学生は、ただ茫然としている。

「無意味だということは私にも分かってるんだ。焦ったところで、時間をかけた解析をしないままで、いまできることはほとんどない」

 彼は椅子から立ち上がって、もう一度息を吐いた。

「君の言うとおり、記者や一般向けに言う言葉と、君たちに説明すべき内容とは違う。雑に対応して悪かった。謝ろう」小さく体を傾けた。

「あ、そう、そうっスね。取材ができればそれでいいんスよね・・・」白井が泳いだ視線のまま。合いの手を入れようとする。

 私はもう一歩引いて、両手を腰に置いた。

「私はね。取材なんてどうでもいいの」

 白井と学生が動きをそろえて振り向く。

「納得がいかないの。それはあなたもだと思っていたのよ」

「納得とは?」

 私は机の上には多くの資料が乱雑に積まれている。それに手を突いて見下ろす。

「動作は正しいんでしょ」

「そうだ。ここにはビーナのコピーシステムがある。一昨日のログは残っているから同じ動作はさせられる。動作が正常であることは分かっているが・・・」

「根拠が説明できない」

「おおむねそのとおりだ。ビーナに実装された多層ニューラルネットのそれぞれの動きは正しいが、メタ学習層を経由した結果は想定から大きく外れている」

 AIの深層学習ディープラーニングは、それまでのソフトウェアができなかったことを実現してきた。既存のプログラムは、入力インプットに対して目的となる結果アウトプットが正しく出るように設計され、逆に言えば、設計した動作以外のことは全くできない。しかしAIは、数多くのデータから原因と結果の関係を自動で学習し、答えを出す仕組みを自ら作り出す。想定しない入力にも正解に近い答えを見いだすことができる。将棋のAIは人間の考えおよばない奇手でプロ棋士を翻弄してきた。

 それは、なにをどういう理屈でその結果にたどり着いたのかは人間に理解することができないということと同義なのだ。AIというロボットの頭のふたを開けるとそこには、見ただけでは理解不能な膨大な数値の集積があるだけだ。

「AIの考えは解らない。では人間ならどう?」

「人間?」

「普通に考えて、坂田の能力がいかに高かろうともAIを容易には凌駕できないはずでしょう。坂田はAIを熟知しているかもしれないけれど、自らの頭脳でAIと同じこと、あるいはそれ以上のことができるわけがない。そうでしょ」

「いや、坂田名人の考えてることなんて、それこそ理解不能っスよ。A級棋士が雁首揃えて解らないって言うんスよ? 橘先生にだって、そりゃ解らんスよ」

 白井の言っていることは理解していた。だからこそ違和感が強かった。

「私には将棋の手の良し悪しなんてまるで判らない。知識がまるでないから。でも誰かが言ってた。子供がばらばらに駒を置いてるだけのようだって」

「いや誰かって、それ僕じゃん」

「つまりアルゴリズムが違うと言いたいのかね」橘はうつむき加減だった顔を上げると、考え込むふうで目線を左右にした。そうして、机の上の資料を見渡した。

「坂田名人がAIと同じことはできない、つまり違うことをしているとしたら、それはなんなのかしら?」

「ここにあるモデルではないモデル。将棋のためではないモデルなのだというならそれは・・・」

「かれらはのかも」

 対局中、AIビーナもまた悪手としか思えない手を何度も指している。坂田のすること、AIがすることなので、不可解なことが起こっても誰もそれを不審に思っていない。私を除いて。

「していないって・・・、将棋を?」白井が片目をしかめながら首を前に突き出す。

「なるほど、いや、それは・・・、それはいくら坂田名人でもムリだ。それこそ不可能なことだ」橘の表情は、不可能と言いつつ、先ほどまでの懊悩とは違う生気をにじませるものだった。

「でもそれを確かめる手段がひとつだけあるでしょ」

「手段って?」白井の首がさらに傾く。

 この対局の前、二週間にわたってこのAIビーナは使。過去のソフトと人間との対局でも、一定期間ソフトを持ち帰って試使用することが一般的な条件になっている。ソフトの側はあらかじめ相手の過去の棋譜などを詳しく学習させられるが、人間側があらかじめAIの手筋を研究することができないのでは、人間側にとってあまりにも不公平となってしまうからだ。その期間以降はもちろん、AI側の改変は許されない。

 坂田が使っていた間のビーナのログには、坂田がどのような使い方をしていたかが残されているに違いなかった。そこには坂田の将棋の謎の答えが必ずあるはずだ。

「もしかして、名人がビーナを使ったときのログを見ろと言うのかね。残念ながら、それは無理だ」

「ああ、そういうことっスか。そりゃムリっスねぇ」

 私を除く三人が首をうなだれる。

「ええ? どうして?」

「いや、だってそうでしょ。対戦はまだ続くんで、ログ見せるってことは相手に自分の研究内容や、予定している戦法を見せるようなもんですからね。許可されないっスよ」

「だって、ログ見たとこで、AIは対戦期間中は改変できないんでしょ。人間とは違うでしょ」

「どこにウェイトを置くかぐらいの戦法を切り替える意味での調整は許されるっスよ。人間同士の対局だって前の内容見て戦法変えたりするっスから。だいたい、調整するにしてもしないにしても、対戦期間中に相手の手の内を見るのは道義的に許されないっス」

「ええ」胸倉つかんでドヤった私の立つ瀬はどうなる。

「ああ、いいよ。ありがとう」

 振り向いた先で、橘は、微笑んでいた。

 なにかにおびえていたような先ほどまでの態度とは明らかに変わっていた。私たちの顔を交互に見比べて、そして右手を私の前に差し出した。

 私はうつむいてため息を吐いた。

 その手を握る前に聴いておきたいことがもうひとつあった。

「坂田もそうだけど、あなたもそう。あなたたちはなんでそこまでこの戦いにこだわってんの? なんでそこまでして戦わなきゃいけないわけ? 汎用AIの研究に、将棋の勝負なんて必要ないでしょ」

「ふむ」橘はちょっと驚いた顔して、そしてしばらく考えてから応えた。

「進化遺産とかミスマッチ仮説とかいう単語は知っているよね」

 そもそも橘が認知心理学や、進化心理学の学者なのをすっかり忘れていた。

「なに? 優越欲求だとでも言うの?」

 私たちの判断や行動は、ほとんどの場合、本能的な欲求に強く影響されている。人類は約二百万年前には生物学的にいまの脳とほぼ同じ大きさの脳を持っていたといわれているが、石器の時代からからさまざまな道具、芸術、交易などの文明が一気に発生したのは、つい四、五万年前のことで、つまり、知能を得た人類史のうち九八%あまりはただの類人猿エイプの群れだったのだ。

 私たちの行動原理のほとんどは、それ以前、六〇〇万年におよぶ猿人の時間に形成された本能に由来するものであるとされている。私たちはちゃんと考えて行動しているつもりでいて、じつは本能的な要求に従ってしまっていることが多いのだ。本能による心理行動にはさまざまなものがあるが、私たちを苦しませるもの、争わせるものの多くは、『優越欲求』だと言われる。フロイトやユングが、リビドーと呼び、集団的無意識などと呼んでいたものだ。

「それじゃ、まるで感情でしか動いてないって言っているようなもんじゃない。そんなの科学サイエンスじゃないわ」

「何世紀もにわたって人類は、本能や感情を抑制すべきものとして哲学や論理学を駆使してきたが、それにはいまだ成功していない。あるものをないものとするのは誤りだと分かってきたのが近代心理学だ。科学サイエンスだよ」

「バカみにたいに聞こえるけど」

「胃腸が消化するメカニズムを完全に解明したとしても、それで腹が減らなくなるわけじゃない。争い、競い合う本能的な心理も、それと分かったからといってなくなりはしない」

「はぐらかしているように聞こえるわ」

「いや、とにかく、ログの調査がいまできないとしても、君の指摘は意味の深いものだった。私も見方を変えてみようと思う。違う道筋が見えた気がする。研究を続けるよ」

 私はその右手を握って言った。

「そうよ。それでこそ。それが科学サイエンスでしょ」

 しかし翌日、その橘の抱くわずかな希望の熱も、科学の持つべき可能性も、それらすべてを坂田は、人知を超える力で蹂躙していった。

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