第7話 おい、どうだったんだよ!

 後半の授業を終えリビングへ顔を出すと、母親が背筋を伸ばした綺麗な姿勢で、テレビを眺めながらコーヒーを嗜んでいた。所々にある観葉植物が、部屋に自然な彩りを加えている。柑橘の香りに、渋く深い匂いが混ざっていた。


 その美しい横顔はどんな空間に居ても様に映る。彼女の周りだけ、優雅な時が流れているようで声がかけづらい。ふと、母親がこちらに顔を向けた。睦目が頭を下げると、母親は慌てた様子で立ち上がり「授業は終わりましたか?」と紅色の唇を動かす。


「はい。授業は終わりました」


「あ、お母さん帰ってきてたの?」


 陸目の後ろから追うような形で杏奈がリビングに入ってくる。


「ええ今さっき帰っきたところよ」


 杏奈が母親の傍に近寄った。


「では、少しお話したいのでお時間よろしいですか?」


 そう真面目でトーンで言って、目の前に並ぶ二人を見やった。


 杏奈と母親は同時に頷くと近くのリビングテーブルに腰をかける。


 自分も、向かい合わせに腰を下ろす。そして対面にいる母親に向かって、陸目は真剣な面持ちで話しを切り出した。


「これでトライアル期間は終了となりますが……これからどうするかは、お二人によく話し合って決めて欲しいと思っています。ここで気になることがあれば訊いてください」


 トライアル期間の終わり。すなわちこれで自分が選ばれるかどうかが決まる。


 こればかりは、自分でもどうにもならない。あくまで自分は雇われる側。決定権はそちらにあるのだから。ちなみに最終的な判断は塾長と保護者、生徒との相談となる。ここでの評価が上々でも、担当として選ばれない可能性は十分にある。


「杏奈、先生の授業、どうだった?」


「わたしは楽しかったよ? 授業もわかりやすいし、なにより話がおもしろいし」


 そう言われると嬉しいものだ。ずっと自信を持てないでいたから不安だった。


 母親が訊ねる。


「陸目さんは、他の生徒の担当なさっているのですか?」


「お恥ずかしながら、瀬ノさんの担当が初めてでして……」


「では、これが初めての授業、ということでしょうか」


「……はいそうです」


 「なるほど……」母親は腕を組み思案顔をする。「杏奈が子役として働いているのはご存知ですね?」


「はい。それはご承知の上です」


「……杏奈は、ただでさえ仕事で忙しくて学業を中々できていません。文系科目の成績はいいですが、他が……それで、この家庭教師を通して少しでも勉強の負担を減らしたいのと、なによりちゃんと学校を卒業することができればなと思っています」


 ……杏奈は人気子役だ。これは、母親として当然の思いだろう。


 以前塾長が話した事を思い出しだ。


 ――家庭教師という仕事は、保護者や生徒との信頼関係で成り立っています。教師になるということはつまり、様々な期待やプレッシャーを背負いことになると思いますが……その期待に応える覚悟はありますか?


 教師を目指す身として覚悟を決めたつもりだった。でも実際直面すると、ちゃんと期待に応えられているか、相手に信頼を置かれているかとか考えてしまい怖くなる。


 睦目は、自分が思っているよりかなり臆病なんだなと、他人事ながらに感じてしまった。


「でもお母さん、わたしは陸目せんせーでもいいと思うけど」


「杏奈!」説教するような口調に変わる「あなた前のこと忘れたの? それであなた――」


「やめて! 今その話はやめて……」


 杏奈に暗い翳が差した。こんな表情の杏奈は、見た事がない。


 前、とはいつの事だろうか。睦目はテレビの中の杏奈でしか知らない。聞こうにも部屋を満たす空気の重圧に、口を開くことさえ許されなかった。


「…………ごめんなさい。変な空気になってしまいましたね。たしか、塾長と話せばいいんでしたっけ」


「はい」


「……ではここで杏奈とよく話し合ってから、塾長さんに連絡したいと思います。期限とかありますか?」


「トライアル期間を終えてから、三日間ですね」


「そうです、か。わかりました。陸目さん。改めて、授業お疲れさまでした。夜も遅いので、気をつけてお帰りください」


 その母親の一言を最後に、陸目は門を出る。

 梅雨が到来しじめじめした気温が続く。ぽつぽつと闇の空から落ちてくる雨粒が陸目の肌を強く打つ。


 狭い路地に降る淡い光を頼りに進み、ちょうど来ていたバスに乗り込んだ。


 雨で濡れ結露した窓に頭を預ける。


 ……杏奈の、あの悲しそうな顔を忘れることはできなかった。


    * * * *


「なぁ桜山」

「ん~?」

「それで家庭教師の方はどうなんだ?」

「さーどうだろうな」

「どうだろうなってお前な―」


 休日が明けて月曜日の放課後。陸目と庄司は教育学部棟の一階にあるラウンジにて、雑談を交わしていた。


 眼前を覆いつくすような大きなガラス張りから見える景色は、鬱々とするような鉛色の空が広がり朝から止まない雨粒が無数に張り付いている。


 あれから三日が経った。いまだに塾長からなにも連絡がないまま。


「なぁ桜山さ、もし担任に選ばれなかったらどうするつもりよ」


「んーやめるかなー」


 バイトに採用されてから数週間、自分のもとに生徒が現れることはなかった。


 もしも今回、瀬ノ杏奈に選ばれなかった場合、今後新しい生徒が来る確率は低い……と思う。


「まぁバイトなんてそんなもんだ。気にすんな。何か困ったらオレに言えよな、助けになるかもしれないし」


「うん、ありがとう」


 その時ポケットにしまっていたスマホが振動した。マナーモードにしているから音が鳴ることはない。取り出すと『塾長』からだった。


「――っ⁉」


「おい、早く出ろよ!」


「う、うん――はい桜山陸目です」


『陸目さんですか。瀬ノ杏奈さんの件でお話があります』


 ごくりと、唾を飲みこんだ。緊張で手汗が滲みそれを服の裾で拭う。


『――無事、採用が決まりました。今後の日程と授業内容についてお話したいので本社へお来しください。では、失礼します』


 それだけ言って通話は終了した。高鳴る鼓動が全身に響き渡る。携帯を握る手が――嬉しさで震えていた。


「おいどうだったんだよ!」


 ゆっくりと庄司の方を向き、口を開く。


「…………家庭教師、採用だって」


 こうして陸目の初めての生徒が決まった。

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