第5話 せんせーは鬼ですか
土日が明けて、火曜日。第三回目の授業。
覚えたての杏奈の家までの道のりを辿る。バスを降り、横を通り過ぎた緑のキャップハットに会釈をして、インターホンを鳴らした。
……しかし、
「あれ」
反応がない。もう一度押してみる。
……だが数十秒待っても、インターホンから声が聞こえてくることも、玄関が開くこともなかった。
まだ帰ってきていないのか。車庫へ視線を滑らせる。車はない。
少なくとも、母親はまだいないみたいだ。だとしても、この時間帯は杏奈が家にいるはずだ。
時間帯の変更や休みの連絡もない。
それに――
ちらっと飛ばした目線を上に飛ばす。その先には、明かりの点いた杏奈の部屋が映った。
明かりが点いているということは、つまり帰ってきている証拠。
どういうことだ? そう小首をかしげたその時。
「ご、ごめんなさーーい‼」
大声の謝罪とともに杏奈が家から飛び出してきた。髪の毛は乱れ、息も切れ切れ。
「えっと……瀬ノさん……?」
「とりあえず中に入ってもらってもいいですか?」
言われるがまま玄関に上がる。目の前では杏奈が申し訳なさそうな顔をしていた。
「すみません……台本読むのに夢中になってて、気づきませんでした……」
それで思い出した。確か杏奈は練習をするための部屋があったと。
「まさか、ずっとその部屋で?」
「はい。ちょっと、練習したかった場所があったので。次の撮影で難しい台詞があって」
杏奈は人気子役。テレビの仕事で忙しいはずだ。
台詞を覚えるのだって、一苦労だろう。
部屋へ入る。すでに用意されていた自分の席に腰を下ろした。杏奈も席に着く。
「さてと。今日は数学なんだけど……」
「はぁーわかってますよ。それで、何するんですか?」
うんざりとした、
けれど今回は違う。夜なべして考えた秘策がある。
「瀬ノさんって暗記は得意なんだよね」
「はい、そうですが……」
「じゃあ、その数学の答え、写しちゃおうか」
「そんな私にできるわ――え、え? せんせーなんて言いました?」
「だから、その答えを写しちゃおうと」
「いいんですかそんなことして。授業しなくていいんですか?」
「これも授業の一環だよ」
「?」
杏奈が怪訝な色を浮かばせる。顔にいっぱいの「?」が張り付いていた。
「とりあえずテキスト――えっと、学校の問題集だしてもらってもいい?」
「は、はい……」
取り出した数学問題集の、杏奈が主に苦手とする図形と方程式を開く。
「なんで数学が嫌いなんだっけ」
「え……だから前にも伝えた通りですよ。数字ばっかでつまらないんです。国語とか社会と違って、その物語がありませんし」
杏奈は、多分だが演技の経験上、物語へ入り込める教科。すなわち歴史や社会、国語、英語などが得意。だから成績も高い。
以前、二回目の授業の時、一年の成績も見せて貰ったが数学はもちろんだが、総じて地理や公民、保健体育の成績も芳しくなかった。
ならすることは一つだ。
「じゃあ数学も暗記しちゃおっか」
「え……そんなことできるんですか?」
「とりあえず、やってみよう」睦目なりに考えてみた勉強法だが、実際は自信なんて微塵もない。だが、『瀬ノ杏奈』だからこそできるものがあると、考えたのだ。
授業用のノートと、教科書、問題集を用意してもらい準備は完了。
方法としては簡単で、まず問題とその解答を開く。それで解いて行くのだが……。
「瀬ノさん。ただ答えの丸写しをするわけじゃないよ」
「じゃあどうするんです?」
「まず一番最初に、その数学の問題の基本となる公式を書いて」
「はい…………書きました」
問題集にもよるだろうが、だいたいカテゴリーごとに分けられているため、一章で一単元分となっている。だから公式に当てはめれば応用、とまでは行かずとも大体解けるようにはなっている。
「次に解いて行くんだけど、設問の式を書いて、そこに過程を含めた答えを書いていく。それだけ」
「え?」あまり納得がいってないようだ。「これだけでいいんですか?」
「うんそれだけ」
でも、と付け足した。
「必ず過程を書く時は、さっき書いた公式と見比べながらするようにしてみて」
ここがこの勉強法においての重要ポイントだ。
暗算で求められるものもあるけれど、結局頭では答えに至るまでの「計算」が行われる。
その計算こそ「過程」なのだが、杏奈はそのプロセスがどうやらわからないようだ。
物語においても、結末までの道筋は極論「過程」で、違いは言葉か、数字かだけ。
ならいっそのこと「過程」ごと丸暗記させてしまおうという算段だ。
「あと、それ終わったら確認テストするから」
この一言に、杏奈が「鬼ですか?」と鋭い目で睨む。
ぶつぶつ文句を漏らしながらも、次第に言葉数は減っていった。
前半はノートに答えを写しただけで終了を迎え、休憩を挟み後半へ。
そして確認テストを解かせてから二○分後。ストップウォッチがなった。
すぐさま回収し丸つけへ。その間杏奈はエネルギーが尽きたロボットみたいに、背もたれへ寄りかかり動かない。
得点を書いて、杏奈に渡した。
「五○点……これ、わたし史上最高記録なのでは?」
「本当はもう少しとって欲しかったけどね」
「ちなみに何点です?」
「八○点くらいは……」
「せんせーはやっぱ鬼です」
間違えた問題の復習・解説を行い気づけば終わりの時間が近づいていた。
最後に宿題を渡して、睦目は部屋を出る。「じゃあねせんせー」という別れの言葉を背中で聞いた。一階に下がると、ちょうど帰宅した母親と玄関ででくわす。
「こんばんは。いま授業を終えたところで……」
「そうですか。お疲れ様でした」
メイクしても隠しきれない疲労が顔色に出ている。
相変わらず、目すら合わしてくれない。そのまま母親はすたすたとリビングへ入っていった。
どうしても、母親とは上手くいかない。
はぁーと吐いたため息が廊下に落ちて跳ね返った。
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