04 曽良

「芭蕉先生」


「何ですか、惣五郎さん」


「先生の旅、同行させてもらえませんか」


 そうすれば。

 惣五郎もまた、俳諧の中の道を。

 己の目指す俳諧の道を。


「見出すことができるのではないかと――」


「ありがたい話だが、お断りします」


 芭蕉はにべもなかった。

 ただ、意地悪で言っているのではない。

 西国から出て来たばかりの惣五郎に、いきなりまた西国へ赴くたびに付き合えというのも、酷な話と思ったからだ。

 それに。


「君は――まだ自身の俳諧を勉強が浅いと考えていますね」


「……はい」


 だから、芭蕉の弟子になりたかったのだ。

 芭蕉はそんな惣五郎を優しく見つめる。


「断っておきますが、弟子入りを拒むわけではありません。なればこそ……今少し、今少し俳諧の勉強をして下さい。それは私でなくても、この杉風さんぷうをはじめとして、他の者についていればできる」


 惣五郎は、一体芭蕉が何を言いたいのか不分明だった。

 きょとんとした表情の惣五郎。

 それを見て芭蕉は、くすりと微笑んだ。


「実は今回の旅は、前々から郷里に――母の墓参に行こうと思っていたので、行く旅です。そして私はこれを試金石にしたい」


「試金石」


 惣五郎はその言葉を口の中で何度も唱えた。

 すると、芭蕉の意図が、ほんのりと見えてきた。


「芭蕉先生」


「はい」


「試金石ということは……今回の旅を元に……もっと大きな、長旅を」


「そうです」


 芭蕉は得たりかしこしと相好を崩す。

 滑稽さを競ったり、何句も何句もと作句するのも良い。

 だが芭蕉は、侘びや寂び、そして旅情を元にした俳諧をしたい。

 「阿蘭陀流」などと称して、自由な句を詠んだ、井原西鶴のように。


「西鶴だけではなく……西のように、私は旅に出たい。そう、北へ……」


 眩しそうに上を仰ぐ芭蕉。

 その芭蕉の目には、もう、北の情景が映っているに相違ない。

 惣五郎は、と頭を下げた。


「芭蕉先生、ぜひ、ぜひにこの惣五郎をその旅のお供に」


 横で杉風が聞いているが構いやしない。

 これほどの「旅」を。

 これだけの「俳諧」を。

 共にできるという好機を逃してなるものか。

 惣五郎のその必死さに、芭蕉は微笑む。


「惣五郎さん」


「はい」


「さっきも言いましたが、まず、勉強をして下さい、俳諧の」


「勉強……」


 不得要領の惣五郎に、芭蕉は教える。

 これだけの旅の供になる以上、相応の俳諧の造詣が要る。

 共に作句するにせよ、記録するにせよ、それは必須だ。

 そう言われて、惣五郎はあることに思い至った。

 芭蕉は……その俳諧について学べば、ついて来ても良いと言っている――と。


「先生」


「……まあ、杉風さんは魚屋の稼業があるし、他の弟子にしたってそうだ。その点、惣五郎さんなら藩仕えをやめたとのこと。あと、まだ若い。男盛りだ。そういう理由もありますよ」


「……はい!」


 惣五郎は目に涙をためていた。

 よほど、嬉しかったのだろう。



 貞享元年八月。

 芭蕉は西へ発った。

 いわゆる、「野ざらし紀行」の旅である。


 ――野ざらしを心に風のしむ身哉


 この紀行にあたって、詠んだ句がこれである。

 この句から、この紀行の題名が付けられたのだが、この句はこの旅をするにあたっての、芭蕉の気持ちを表している。

 すなわち。


「野ざらし、つまり死してもかまわぬと……死して野にその屍をさらしてもかまわぬというお気持ちか」


「……然様さようでござるなぁ」


 これは旅立ちの芭蕉を見送った、惣五郎と繁文の会話である。

 元武士と武士ということもあって、妙に馬の合った惣五郎と繁文は、芭蕉を見送った後、江戸の町を連れ立ってそぞろ歩いていた。


「……で、貴殿は芭蕉先生といずれは旅に出ることを目標に」


「はい。学ぼうと思っています。俳諧のこと。それだけではなく、これまで、この国に生まれ出でたふみのことを学んで、ぜひ芭蕉先生のその旅にお付き合いする時、役に立てたいと思います」


「その意気やし」


 繁文は惣五郎の肩を抱いて励ました。

 それからその肩を抱いたまま、ふと「それなら号を名乗らねばな」と呟いた。


「貴殿のその惣五郎という名のままでも良いが、やはりこういう流れならば、やはりその学びを得たことを表すために、何か号を名乗られてはどうか、惣五郎どの」


 そう言われた惣五郎は、少し考えるような仕草をしてから、言った。

 ……見上げながら。


「……曽良」


「そら」


 繁文が反芻するように口にし、それからどう書くのだと聞いた。

「曽良。かつての良きものを知る、という意味と、それと……」


「天か」


 そこで繁文は、にかっと笑った。

 今、西へ旅立った芭蕉も仰いでいるであろう、青い空。

 そして、昔の人々も見上げただろう、青い空。

 はたまた、これから先の、未来の人々もまた、眺めるであろう――


「青い空を。私は、そういう青い空になりたい。芭蕉先生という日を輝かせる場である、青い空に」


 繁文はうんうんとうなずいて、それから、言った。


「ならば貴殿は――」


 抱いた肩から手を放して、繁文は言った。


「河合曽良、ということになるのかな」


 然様です、と曽良はうなずき、そして二人は別れた。

 繁文は藩の仕事のために行き、曽良は俳諧の学びのために。

 だが、その二人は、否、杉風らが皆離れようととも――


「空の下にいる。みんな、いる」


 芭蕉はふと、そんな声が聞こえたのか、天を仰いだ。

 そして誰ともなく、こう言うのだった。


「さあ、旅を始めよう」


 ──と。




【了】

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芭蕉 ~旅の始まり~ 四谷軒 @gyro

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