第37話 閑話:隠密頭 雲霧助五郎

天文18年(1549年) 12月那古野城

 雲霧 助五郎(魚商・滝川忍衆 隠密頭)


 三の丸に幾つかある建物の屋根からは、三の丸広場を横切る清洲方がよく見える。空では、闇夜を照らす月がやや陰りはじめ、幾人かの武士達が提灯を準備しようと動き出しているのが俺にはよく見えた。


 「灯りを持つ者かららねばならぬな……」


 月夜に雲をもたらした風が吹く屋根の上で、誰に言い聞かせるわけでもなく、そう呟いた俺の言葉も白い息と共に風に流され闇夜に消えていった。


 かねての手筈通り、屋根にて機を伺っていたが、殿滝川一益が先導する清州方が三の丸広場を半分ほど通り抜けた頃、先頭を歩む殿に付き添う篠岡様が手に持った滝川家の旗を、大きく一回ししたのが見えた。空ではちょうど、大きな積雲に月が隠されたところであった。


 「篠岡様の合図……、頃合いか」


 ひょいと先ほどまでいた屋根から地面に降り立つと、忍び独特の縮地を用いて清州方の灯りを持つ武士めがけて走り寄る。それと同時に、広場を囲うように点在した家屋から、俺と同じ黒い忍び装束を纏った者達が同様に駆け寄ってくる気配を感じた。


 「ぐっ、あぁ……」


 手に持った提灯と共に、俺に切り裂かれた武士が短く絶命の声を上げ、辺りに闇が訪れる。清州方のあちらこちらで、ここと同様に提灯を持った武士たちが倒れ伏す音が響くと同時に、刀を抜く音、鎧が犇めく音、武士達の喧騒が広がっていった。


 俺は袈裟懸けに斬り殺した武士をそのままに、清洲方の行列の先頭へと走り続ける。森殿や前田兄弟の戦名乗りが遠くに聞こえ、剣戟の音が聞こえ始めた戦場を走り抜けた先では、逆上する坂井甚介が刀を抜き、我が主人に向かって叫びながら斬り掛かったところだった。


 「おのれ滝川ぁっ!! 裏切りおったなぁ」

 「否、裏切るとは信頼し、仕えている者に使うもの。その方等を信じた事などござらん。某の忠義は三郎様……、織田弾正忠家にあり!! 」


 此度の手柄首の一つ、坂井大膳はこの混乱を上手く避けて清洲方の武士達に紛れ込んだようだが、坂井甚介の方は果敢にも、殿滝川一益に挑みおったようだ。助太刀など要らぬだろうが、ここで何もせずにおれば後で家老・篠岡様に何を言われるかわからぬ……。


 「助太刀、御免っ!! 」

 「くっ!! 曲者めっ!! 」


 坂井甚介と刃を交わす殿にそう叫ぶと同時に、俺は苦無くないを敵の首筋へ飛ばした。


 「おっと、びっくり……。こりゃあ、すけさんか。ありがとさんっと」

 「く、くそぉ……。卑怯な……」

 「安心せい、峰打ちじゃ……」


 俺の介入に一瞬、動きが固まったように見えた殿だったが、すかさず怯む甚介の額に強烈な一撃を加えると、意識を失った甚介をそのまま生け捕ってしまった。


 納刀しながら言った殿の最後の台詞はなんだか芝居がかっていたように見えたが……。それはともかく、刀の峰とはいえ、あれをくらえばどんな大男であろうとひとたまりもないな……。


 「まったく……戦に卑怯も何もないのよ。いやぁ助さん、助かったよ。こんな暗い場所で戦うのは甲賀以来だ」

 「はっ。しばらくは月が雲に隠れる故、この暗闇が続くかと……」

 「はははっ、これぞまさに雲隠れってやつね。まぁ、暗さは忍び衆にとっては味方だ。槍衆や援護の森殿や蔵人さん達にとっては辛いだろうけど」

 「たしかに……。しかし、それ故のこの白鉢巻で御座います。これがあれば同士討ちはせぬかと」

 「そうだな。多少はこれでなんとかなるか」


 そう言って額の白い鉢巻を締め直す殿。周りで聞こえる喧騒を他所に、俺は殿が打ち倒し、気絶した坂井甚介を縛りながら少しの間会話をした。


 今では尾張滝川家を興し、このように刀術も優れた立派な当主となられたが、甲賀に居た頃は、軟弱者と評されていたのだ。だが、そう評されるきっかけとなったのは俺かもしれぬ。


 「闇夜のいくさと言えば、助さんに助けられた夜を思い出すなぁ」

 「あまりよい思い出では御座りませんが……」


 殿の仰る闇夜の戦。あれは、天文9年頃、山城国と近江の境での出来事だった。


△△△

天文9年 山城国某所


 その当時、まだ下忍であった俺は、六角家より山城国での要人暗殺の命を受け、滝川家の同輩数人と任務に赴いた。その中には当時、元服直後だった滝川家嫡男である殿滝川一益もいた。


 我らは山中にある目的の屋敷を取り囲み夜を待った。そうしてやってきたのは月の隠れた真っ暗な闇夜。あとは中に踏み込むだけであったが、その屋敷で我らを待っていたのは依頼の男ではなく、我らを待ち構えた伊賀者の忍び達であった。


 「甲賀者が罠にかかったぞっ!! 全て斬り殺せぇ」

 「くそ……罠であったか。ひ、退け……助五郎……」

 「お、おかしら……」


 かしらを務める中忍がなんとか俺を庇ってくれたおかげで屋敷から逃げ出せはしたが、襲撃は失敗。参加した甲賀者達で森まで逃げ込めたのは俺と数人の同輩だけであった。


 「甲賀者が数人森に逃げたぞ!! 」「必ず探し出して殺せ!! 」「依頼人からは生きて返すなとのお達しだ」


 後ろから迫る伊賀者の声から逃れようと必死の思いで山中を駆け抜けた俺は、得意の隠形術を駆使し、皆で集合場所と定めていた山小屋までやっとのことで辿り着いたのだった。


 「す、助五郎殿っ!! よかった。無事な者が他におったか……」

 「若様……。戻ってこれたのは我らだけですか……」


 泥だらけになりながらなんとか山小屋へ辿り着いた俺が戸を開けると、そこに居たのは青白い顔で不安そうな表情をした殿覚醒前だった。まだ他の者も来るかもしれないとしばらく身体を休めた俺達だったが、休めたのはほんの半刻ほどであった。


 「おい、助五郎……外から気配が」

 「これは甲賀者ではありませぬな。移動しなければ……」


 疲労から眠ってしまったが、物音で起きた俺達は小屋を取り囲む気配で目を覚ました。もはや一刻の猶予もない俺達は仲間の戻りを諦め、甲賀まで逃げることを決断するほかなかった。隠し戸を抜けた俺達は、再び山中を甲賀に向かってひたすらに走り続ける逃避行を始めた。


 「見つけたぞ!! 甲賀者はここだ!! 」「矢が当たったぞ!! 奴は手負だ!!」


 森の木々を利用して逃げていた俺達だが追手の伊賀者の数が多く、あと少しで甲賀者の領地といったところで運悪く敵の放った矢が俺に当たってしまった。


 「お、おいっ!! 助五郎、腕から血が……」

 「わ、若様。これくらい大丈夫でございます……」


 その後も木々を飛び移りながら逃げ続けたが、出血のせいか、だんだんと遠のく意識に、俺は木から足を滑らした。


 「助五郎ぉっ!! 」


 遠のく意識で最後に聞こえたのは、俺の名を呼ぶ若様の叫び声。それと同時に誰かに抱えられながら木から落ちる感覚と、地面に打ち付けられる衝撃で俺の意識は途絶えた。


 「わ、若様? 」


 俺は一体、どれだけ気を失っていたのか……。意識が戻った時、俺は腕の傷に布が巻かれた状態で木の根元に寄りかかっていた。辺りはいまだに夜の暗闇に包まれた森の中。木から落ち、気を失ってからそれほど時間が経っていないことは明らかだった。


 「す、助五郎”さん”。よかった……。意識が戻ったみたいですね」

 「こ、この腕はわかが? 」


 腕に刺さっていた矢は抜かれ、傷には布。腕の付け根には、手が痺れるほどきつく布が巻かれていた。若にはこのような手当ての知識があっただろうか……。


 「止血するには大動脈の通る腕の付け根をきつく縛るといいらしいんです。矢も本当は刺さったままの方が出血しないらしいんですが、助五郎さんを動かすのに刺さったままでは邪魔で……」

 「だ、だいどう……みゃく? 」

 「それと、戻ったら傷はアルコール消毒した方がいいですね。戦国時代には馬糞を塗っていた……なんて記録があったらしいけど本当なのかな……」

 「あ、あるこる消毒……」


 聞いたこともない単語を時々使い、なにか考えこむようにぶつぶつと一人で話し始めた若様は、俺が意識を失う前とは雰囲気が少し変わっていた。その時の俺はまだ意識がはっきりせず、若様が仰る言葉の意味がまったく理解できなかった……。


 「わ、若様? 若にお怪我は……」

 「ん? あぁ、俺は頭を少し打った程度です。そのせいで令和とか戦国時代とかよくわからん記憶が……」

 「し、静かに!! 追手の気配があります」


 若様は頭を打った程度というが、以前の若様と何か違う。今もここに迫る追手の気配にも気付かず、呑気に話し続けるなど以前の若様では考えられない……。


 「す、助五郎さん。ど、どうする? た、戦うのか? 」


 それに、なぜか怯えたような表情で俺にそう聞いてきた若様。山城からここまで勇敢に戦い、そして俺と共に森を走り抜けてきた時には見せたこともないこの表情。


 そして俺はこの表情を知っていた。まだ人をったことのない新米がする表情。初仕事を前に、いまだに覚悟が決まっていない若い忍びがする表情だ。


 「若……。大丈夫ですか? 」


 俺が若様にそう問いかけた瞬間、遠くにあったはずの追手の気配がすぐ近くに感じられた。


 「おっと、気づかれちまったかぁ」

 「貴様……」


 気配に反応できなかった若様に投げつけられた苦無くないを庇うように身を呈して守った俺は、敵に晒したその背に焼け付くような痛みを感じた。


 「これは……毒か? 」

 「さすが同じ透波すっぱ。わかるだろぉ? 誰も生かして返すわけにはいかないのさ」

 「す、助五郎……」

 「だ、大丈夫ですよ、若様。ここは俺にお任せを」


 俺が矢を受け、気を失ったことで招いた敵なのだ。なぜか以前の覇気がなくなってしまった若様だが、俺のせいで死なせるわけにはいかぬ。なんとか意識を保とう手足に力を入れるが、俺の思いとは裏腹に、身体は言うことを聞かなかった。


 「はっはっは。我らから最後まで逃げ切る甲賀者と言うから毒まで使ったというのに、残っていたのは敵を前に怯える半人前とそれをわざわざ庇うような手負の下忍だけかぁ」


 卑劣な笑みを浮かべた伊賀者がゆっくりと、大木を背にして立つこともままならぬ俺に向かって歩みよってくる。俺の背には、伊賀者に怯える若様の震えが伝わってきた。


 「うーん、もっとりがいのある敵だと楽しかったんだがな。ま、俺を恨まんといてや」


 そう言って刀を上段に構えた伊賀者。もはや腕も上がらない俺は、若様を背に庇ったまま、覚悟を決めて目を瞑るしかなかった。


 夜の森の静寂が広がり、しばしの間が流れた。覚悟を決めたはずの俺の耳には一向に、その振り上げられた刀が下りる音が聞こえなかった。


 「ぶはっ……」


 恐る恐る目をひらくと、腹に深々と刀が突き刺さり、吐血した伊賀者が眼を見開いて絶命していた。刀の出所は俺……ではなく、俺の脇から差し出されたものだ。そこには、俺の背後に隠され、震え屈んでいたいたはずの若様が、俺の刀を抜き、震える手で柄を握りしめ立っていた。


 「若……」

 「す、助五郎さん……お、俺、人を……。人を刺した……」


 先ほどまで青白かった若のお顔はもはや死人と同じほど白く、呼吸は肩で息をするように荒い。その姿は、元服前から忍び家業を手伝い、既に人を殺める仕事も幾つかこなしていたはずの者には到底見えなかった。


 それから俺は、毒で意識が朦朧とするなか、混乱する若様を落ち着け、宥めながらどうにか甲賀の滝川郷まで移動をした。若様は木から落ちた際に意識の混濁があり、一時は取り乱した様子であったが、忍びとして培った技術と経験は身体が覚えていたようで、なんとか里に帰ることが出来たのだった。


△△△

天文18年(1549年) 12月那古野城


 「助さんが居らねば俺はあの伊賀者に殺られていたな」

 「そもそも某が木から落ちなければ殿は難なく逃れられていたはずですが……」


 あの出来事から殿は変わった。なにか先を見通すような聡明な眼差しと、人の長所、短所を見抜く特別な才能を得たのだ。俺は得意の隠形術を活かした潜伏や暗殺忍びとして。滝川家の女中であった殿の奥方・お涼さまは、戦の才を活かしたくノ一として。若に仕える一部の甲賀者は、若からもらった助言によって己に適した仕事で名を上げるようになった。


 その一方で、若自身は意識の混濁から抜け出せず、仕事のできない軟弱者として甲賀で評されるようになってしまったのだ。


 「そうかもしれない。でも、あのあともずっと支えてくれた助さんに俺は感謝してるよ。それにあの出来事がなくても火縄銃に興味を持った本来の滝川一益は、いずれ甲賀を出て畿内に行っていたはずさ」


 殿は、なにか確信があるかのようにそう言いきった。


 「さて、簀巻きにした坂井甚介はあっちで一人倒してぜぇはぁ言ってる平右衛門に任せて、俺達は清州方の後ろの方にいるうちの槍衆まで頑張って向かいますか」


 俺が巻物にした坂井甚介を見下ろした殿は、ぱんっと一つ柏手を打ってそう言った。


 「はっ。お供いたします」

 「助かるよ。よろしくね。おーいっ、又左衛門。そろそろ槍衆のほうに行くよー」


 殿が呼びかけた先では、周りの侍達と比べ、頭一つ背が高い木全又左衛門が自慢の大槍を振り回して侍数人をまとめて吹き飛ばしたところであった。


 「ふんぬっ!! ははっ!! 畏まりました」

 「はぁはぁ……、殿っ!! 某も一緒に、ぜぇぜぇ……」

 「おいおい、平右衛門は無理しないでいいよ。前田さんと森さんがここの近くで戦ってるから、この簀巻きの坂井甚介を連れてそっちに合流してくれ」

 「は、はぁ……。かしこまりました……」


 篠岡様は、殿の下知にやや不服といった具合で坂井甚介に繋がれた紐を受け取った。たしかに殿の言ったとおり、やや離れたところで十文字槍を持った森殿と前田犬千代が又左衛門と同じように数人の侍を吹き飛ばしながら戦っていた。


 「じゃあ、そういうことでよろしくね」


 そう言うと、愛刀・山城伝の無銘刀を抜いた殿は、槍衆との間を隔てる有象無象の清洲方へと突っ込んで行った。


 「ほれっ、お前ら何をしとるかっ!! さっさと殿に続かんかっ!!」

 「「はっ!! 」」


 篠岡様にどやされた我らは、急いで殿が切り開いた清洲方の道を追いかけた。このように自らのやりたい事を見つけ、織田家で活躍される殿を思えば、あの狭い甲賀の里を出たことは良かったのかもしれぬな。


 無人の野の如く、三の丸広場を駆け抜ける殿の背中を見て、滝川忍衆隠密頭・雲霧助五郎はそんな事を思い、駆け抜けるのだった。

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