第14話 回想、そして看破
夢を見た。
「――最後のお願いよ」
夢の中で、彼女は言った。
隙間風が吹き込むボロ小屋の粗末なベッドに横たわる彩華。高熱に魘されて何日目か。息は荒々しく、才霞の手を握り返す力は弱々しい。碌な食事も取れない状態になってから、既に数日。頬はこけ、髪はパサつき、見る者全てを魅了するような美しさはもうどこにもなかった。
それは記憶だ。それが現実だった時から、まだ半年も経っていない。
その日は雪のように冷たい雨が降っていたことを、才霞は覚えている。
――最後なんて、言わないで。
相も変わらず淡々としか言えない才霞に、彩華は微かに笑った。
握る彩華の手に、力が籠もる。
彩華は言った。
まるで、最期の力を振り絞るように。
「憎んで。恨んで。蔑んで。決して許さないで。私をこんな目に遭わせた国と、あなたを身代わりにする私を」
それは――呪詛だった。
そんなこと、言わないで。
紡ごうとした言葉は声にならず、声は吐息となって虚空へ消えていく。
ツと一筋の雫が彩華の目尻から流れ落ちて、乾いた頬を伝った。
待って、いかないで。
たったそれだけの言葉すら、才霞は言えない。
彩華はくしゃりと顔を歪ませて――笑った。
「――もっと生きたかった」
それが歳王彩華という少女の、最期の言葉だった。
「姫様……?」
戸口から声が聞こえた。けれど応える声はなく、吹き込む冬風が才霞の手の中の熱をどんどんと奪っていく。
カランと翔理の手から滑り落ちた水桶が、床に転がる。
そうして冬のその日、歳王彩華は死んだ。
雨が降っていた。
雪のように、冷たい雨だった。
そんな雨が降りしきる路地裏に、翔理は一人佇んでいた。
何をするわけでもない。鞘に入った愛刀を左手に握り、ただ氷のような雨粒を零す曇天を見上げている。
路地裏は静かだった。
寒さのせいか、常日頃道端に溢れかえっている浮浪者は、一人もいない。ゴミは排水路に流れ、薄汚い廃棄区の路地裏は見たこともないほどに綺麗になっている。
そんな、まるで別世界に来てしまったような静寂の中に、翔理は立っていた。
才霞はそんな翔理を、『家』の戸口から眺めていた。
「翔理」
才霞は翔理を呼んだ。
返事はなかった。
翔理はただ、空だけを見つめていた。
濡れて貼り付いた髪のせいで、その表情を窺うことはできない。目を閉じているのか、開いているのか。悲しみに暮れているのか、怒りに震えているのかさえ分からない。ただ――
「泣いて、いるの? 翔理」
そんな気がした。
ザアザアと雨が降る。
雨が全てを流していく。
人も、ゴミも、涙さえも。
「才霞……?」
気付けば才霞は、冷たい雨の中に一歩踏み出し、翔理の服の裾を掴んでいた。
俯いて、ただぎゅっと。
そうしていなければ、翔理がどこかに行ってしまいそうな気がしたのだ。
「いかないで」
雨が降る。
翔理の上にも、才霞の上にも。
「傍にいて」
雨は平等に、降りしきる。
眠る、彼女を覗いて。
「翔理まで、いなくならないで」
その言葉に――翔理の目からつう、と。雨にも似た雫が零れ落ちた。
「俺は……おれは……!」
翔理の声が嗚咽に変わる。雨はそれすら飲み込み、流していく。
冷たい冬の只中、ただ二人、立ち尽くして、ただただ雨に打たれていた。
「ん……」
身じろぎと共に、才霞は目を覚ました。
ともあれば再び眠りに落ちてしまいそうなほど心地よいカウチソファから身を起こし、辺りを見回す。
王城の一室。才霞に宛がわれた客室だった。
いつの間に眠ってしまったのか。窓の外は陽の欠片もないほど真っ暗になっており、チェストの上の置き時計を見れば、時刻は既に深夜を回っている。
首を回せば、向かいのソファで翔理もまた、才霞と同じく横になって寝ていた。
深い眠りに落ちているのか、才霞が目覚めたこと気付く気配もない。口がだらしなく開いて、今にも涎が零れ落ちそうだ。昼の雷公将軍との決闘が、余程身体に堪えたのだろう。頬や腕には包帯やガーゼが当てられ、痛々しげな様子を見せていた。
(頑張ったものね)
このままゆっくり寝かせてあげよう。
「ありがとう、翔理」
才霞は音を立てぬよう立ち上がると、自身の膝にかけていたブランケットをそっと翔理の肩に掛けた。普段だったらその感触で目を覚ますのに、それでも翔理が起きる気配はない。
才霞は思わず表情を和らげ、一人バルコニーへ出た。
――星が、よく見える。
頭上に広がる満天の星に、才霞は思わずほうと息を吐いた。脳裏に、今日一日の出来事――雷公将軍と翔理の決闘が、走馬灯のように走る。
『あなたを大切に思う者もまた同じであることを、ゆめゆめお忘れなきよう』
将軍のその言葉に、あの時の才霞はただ頷くことしかできなかった。
翔理には、随分と怖い思いをさせてしまった。そのことについて、才霞は心から申し訳なく思う。
でも同時に――嬉しいとも思った。
才霞と同じように、翔理もまた、才霞を大切に思ってくれている。
それはきっと、才霞が翔理へ抱くと想いとは、ちょっと違うのだろうけど。
同じになることは、きっとない。
才霞は彩華になると決めた。
けれど才霞は、永遠に才霞にはなれない。
翔理にとっての姫様は、たった一人だけだ。
それでもいいのだと、才霞は選んだ。
翔理が共にいてくれるのなら、居てくれる権利を得られるのなら。
たとえ才霞を見てくれなくても――
ぶるりと、髪を靡かせた夜風に才霞は身震いをした。肌寒さに、肩のケープをたぐり寄せる。
五月とはいえ、まだ初旬。風が生温さを帯びるのはまだまだ先だ。
風邪を引く前に戻ろう。
そう思い部屋の中に引き換えそうとした時、ふわりと、白い何かが視界を掠め、
「やぁ、こんばんは」
「杜岐……!」
巨大な白い獣に跨がった杜岐が、バルコニーに降り立った。
「あなた、どこから……」
「ん? ちょっと上から、ハクの力を借りてね」
困惑する才霞に、杜岐は頭上を指してみせる。
屋根を伝ってきたのだろうか。それとも、空でも駆けてきたのだろう。吊られるように指の示す先を見た才霞に杜岐はクスリと笑った。
「翔理の様子はどうだい? 将軍に随分と痛めつけられたみたいだけど」
「寝てるわ」
「傷は?」
「軽い切り傷がほとんどよ。他も、花守の任に支障が出るほどではないわ。でも、雷公将軍を相手に頑張ったのね。ぐっすり眠っているわ」
「そっかそっか。それはよかった」
その言葉は、嘘ではないように思えた。
杜岐はハクというらしい白い獣の顎を掻くよう撫でる。
するとその手を逃れて、ハクが才霞に擦り寄った。
あまりにも突然のことに、才霞はびくりと肩を跳ねさせてしまう。
ずっしりと太い手足に、鋭利な爪。才霞なんて丸飲みにしてしまいそうなほど大きな口。
しかしハクは、そんな才霞を怖がらせまいとしてなのか、首を低くして才霞の腹付近に顔を押しつけてくる。
その柔らかな触感と夜風の冷たさを遠ざけてくれる熱に、才霞はいつの間にかその頭を撫でていた。それを合意と取ったのか、ハクは心地よさそうに目を閉じ、才霞の頬に自身の顔を寄せてくる。
「ふふっ」
くすぐったさに、才霞は思わず笑みを零した。
そんな才霞を見て、杜岐が「なるほどね」と頷く。
頷いて、言った。
「君、彩華じゃないだろ?」
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