第9話 拉致、そして出会い
――声が聞こえる。
「王家が八津山さまを嗅ぎ回っているだと?」
「あんな女の子がか?」
訝しげな声が意識を揺らし、才霞はゆっくりと目を開けた。
夜なのか、辺りは暗かった。真っ先に目に入ったのは、行燈の明かりに照らされた古ぼけた木組みの天井。足下に敷き詰められているのは、ところどころかが擦り切れ日に焼けた畳。
随分と古風な屋敷に、才霞はいた。重たい身体を持ち上げて首を回せば、縁側の向こうにわびさびを尽くした倭風庭園が見える。けれどその優美な視界は、無骨な製材で組まれた格子によって遮られている。
才霞は、座敷牢に囚われていた。
あぁと才霞は、変な納得感と共に身を起こした。
(畢がわたしたちを売ったのね)
正確には、首に桜の痣を持つ少年の情報を嗅ぎ回る人間が現れたらその人間を寄越せ、と予め金を払われていた、というところだろうか。
才霞は焦ることなく、その場に座り直した。
才霞がいなくなったことは、翔理がすぐ気付くだろう。これでも彩華(才霞)は王華所持者、華遊びのプレイヤー、王候補。杜岐へ報告すれば、すぐに王家の影たる師走家が動き出すだろうし、お金はかかるが畢から再び情報を買う手もある。
畢は金を積まれれば情報を売る。良くも悪くも情報を商品としか捉えてない、分かりやすい男だ。
そういう意味では畢に口止め料を渡さなかったのは、才霞の落ち度だった。八津山がそこまで用意周到な相手だとも思っていなかったのも、失態だ。
才霞は胸中で嘆息し、思考を切った。起こってしまったことをいつまでも悔やんでも仕方がない。
助けは、遠からず来るだろう。
そう一息ついたとき、才霞は牢の隅に薄紅色の髪の少年が蹲っている事に気付いた。
「ねぇ、あなた、もしかして……」
才霞は四つん這いになって、そろりと少年に近づく。突然声を掛けられたことに驚いたのか、少年がびくりと跳ね上がる。
幼い顔だった。おそらくまだ、十にも満たない。薄汚れた服に、垢にまみれた肌。しかし伸びた桜色の髪で隠れた首筋に、豪奢な桜の模様が垣間見える。
間違いない――弥生の一位。
才霞は知らず、目を細めていた。その鋭い視線に怯えてか、少年が更に隅に身を寄せて、肩を震わせる。
「ごめんなさい。突然で、びっくりしちゃったわよね。……大丈夫よ。わたしも、あなたと同じなの」
そう言って才霞は、少年から少し離れたところの壁に背を預け、膝を抱える。
「…………」
同じ?
そう尋ねるように、少年が首を傾げる。
「そう、悪い人たちに攫われてきちゃったの」
「…………」
しかし才霞が語りかけても、少年は黙りこくったまま。どうしていいか分からないといった様子で、視線をうろうろと彷徨わせている。
もしかして、と才霞は思った。
「もしかして、声が出ないの?」
その問いに、少年はパッと顔を上げた。それからこくこくと何度も頷く。分かってくれたことが嬉しいのか、頬がほんのり赤みを帯びていた。
そっか、と才霞は言った。
「わたしは才霞っていうの。よかったら、あなたの名前を教えてくれる? 字は書けるかしら?」
才霞はその場を動かず、右手をそっと差し出す。少年はしばらく迷った様子を見せていたが、やがてそろりと才霞の方へ膝を滑らせて寄ると、おずおずと才霞の手を取った。
左手を添えて、右手で一文字ずつ綴っていく。
「と、も、ひ、と……『ともひと』くん?」
尋ねた才霞に、やはり少年はこくこくと頷いた。
ともひと――
「智仁くん。隣に座ってもいい?」
同意の頷きはすぐ返ってきた。
ありがとうと言って、才霞は智仁のすぐ隣に座り直した。しばらく風呂に入っていないのか、饐えた匂いが鼻を掠める。
「智仁くんは長くここにいるの?」
智仁は首を振る。
「そっか……お母さんは?」
五年前の襲撃時、智仁の母の遺体は見つかっていない。字も覚えていることから、長らく母親が一緒にいた可能性が高い。
しかしその質問に、智仁はじわりと涙を滲ませ、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
その涙に、察する。こんな幼い子が、序列一位になっている時点で分かる結末だった。
「……ごめんなさい」
いたたまれなさに苛まれながら、才霞はそっと智仁を抱き寄せた。人肌の温度に張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、智仁は声を上げずにわんわん泣き始める。
その小さな頭を、ぎゅっと抱え込むように抱き直したその時だった。
「ほう、悪くない女ではないか」
ダミ声が耳を打ち、才霞は牢の外に目を向けた。
そこに、まるで豚と見紛うばかりの中年男性が立っていた。
「……あなたが八津山」
「様をつけろ、小娘」
極太のかんぬき錠が外される。
鼻の下でカールした髭を不機嫌そうにひと撫でして、八津山は牢の中へと入ってきた。
才霞は表情一つ変えず、智仁を腕の中に隠す。しかし伸びてきた八津山の太い腕が、才霞の胸ぐらを掴んで無理矢理立ち上がらせた。
八津山が才霞に顔を寄せる。生臭い呼気に、才霞は思わず顔を背けたくなった。
「ふん、儂の周りをこそこそと嗅ぎ回っているというからどんなドブネズミかと思ったが、綺麗な顔をしておる」
「…………」
「愛想はないようだが、身体が良ければ問題ないだろう。どれ」
下卑た笑みを浮かべて、八津山は才霞が纏うケープに手を掛ける。じっくり焦らすように、太い指でボタンを外し――パサリ。滑り落ちる黒のケープ。その下から、真白い才霞の肩と胸元が露わになる。
そして、胸に咲く一輪の王華も。
「な、な、な……」
それがなんなのか分かったのだろう。そこはさすが、畢を使うだけの頭はあるといったところか。八津山が身体を戦慄かせ、才霞から手を放す。
才霞はそんな八津山の巨体を、じっと見据えていた。
「お前、まさか――」
地響きにも似た慌ただしい足音が屋敷を揺らしたのは、その時だった。
「なんだ! 何事だ!」
「それが、王国軍が……!」
「な……」
唾を飛ばして叫ぶ八津山に、部下の黒服が報告する。八津山が言葉を失ったその瞬間だった。
「才霞!!」
翔理の声が、響いた。
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