彩花、散り散り、遊びませ
倖月一嘉
第1話 彩華と名無し
この世界に運命というものがあるのなら、この日この時、彼女と出逢ったことが、わたしの運命だったのだと思う。
「まぁあなた! そっくり!」
その日は、雪がチラついていた。
王都を覆う雲は重たい灰色をしていて、吐き出した息は途端、刺すような寒さに真っ白に染まる。座り込んだ石畳には薄らと氷が張っていて、お尻や足の裏からじわりとと身体中を凍らせていく。
凍えた身体を温めてくれる熱など、どこにもない。
そんな冬の寒空の下、突然降り注いだ華やかな声に、抱えた膝に伏せていた顔をゆっくりと上げる。
そこで、目が合った。
一人の少女が身をかがめて、覗き込むようにこちらを見下ろしていた。
綺麗な女の子だった。
歳の頃は十にも満たない。プラチナブロンドというのだろうか。腰まである長い金色を帯びた銀髪が、冷たい冬風にふわふわと揺れている。積もった雪のように白く滑らかな頬には、寒さで差した朱色。こちらを見つめてくる瞳は髪と同じ銀色で、けれど瞬きの度に淡い紫色がキラリと見え隠れする。
そんな雪のように淡い、白い花のように目映い女の子だった。
そんな――
「私にそっくり!」
自分と瓜二つの、少女だった。
「やっぱり! さっきチラッと見たときに思ったの! この瞳に髪。汚れてはいるけど、綺麗にしたら絶対見分けが付かないわ。ねぇ見て、
「はぁ……そうですね、姫様」
従者だろか。腰に刀を差した翔理という名の少年は、覇気のない返事をする。興味がない、あるいは呆れたように。
身なりは粗末だが、少女と少年の面立ちには気品がある。少なくとも王都の廃棄区に似つかわしくない。
「ふふ、世界には自分とそっくりな人が三人いるなんて言うけれど、あながち、間違いじゃないのかも」
零れ落ちる、楽しげな笑み。
姫様と呼ばれた少女は、その場に膝を抱えてしゃがみ込み、目線を合わせてくる。
「ねぇあなた。名前はなんていうの?」
宝石のようにキラキラした瞳。
それを少しじっと見つめてから、ゆるりと首を振った。
少女は、虚を突かれたように目を丸くした。
「名前がないの?」
頷く。
「あら、そうなの……」
少女はそう、残念がった。蔑むでも憐れむでもなく、ただ名前が呼べないことを悲しんだ。
「じゃあ私が付けてあげる!」
悲しんで、声を弾ませた。
翔理という少年がハァと、また一つ溜息をついた。それから呆れたようにそっぽを向く。まるで「好きにしろ」と言わんばかりだった。
「そうねぇ……」
考え込む。それから間もなくして、「あっ」と閃いたように声を上げて、
「さいか!」
少女は告げた。
「『さいか』っていうのはどうかしら? 才能の才に、霞って書くの。あ、でも字が分からないかしら……でも、いいわ、うん」
そう言って立ち上がる。冷たく凍えた、垢まみれの手を握って。
「私が教えてあげる!」
ぐいと体重を掛けて、力任せに引き上げる。
――光が差す。一筋、分厚い曇天の隙間から、廃棄区の澱んだ空気を貫いて。
「あ……」
抗えないその力に、気付けば立ち上がっていた。
たたらを踏む。何日も雨水しか啜っていない身体では、ろくに地面を踏むこともできない。
けれど倒れかけた身体を、誰かが抱き留める。
翔理だった。彼は痩せっぽちで汚れた身体を自身のマントでくるむと、口を一文字に引き結んだまま、背に担ぎ上げる。
じんわりと、ともすれば熱すぎる温もりが、胸の辺りから身体中に広がっていく。
「行きましょ」
歩き出す。少女のその背を追って、翔理も歩き出す。
子供が三人、冬の雑踏の中、ゆっくり、ゆっくりと。少年が少女を担ぎ、その道行きを照らすように、もう一人の少女が先を行く。
雪はいつの間にか止んでいた。
「ねぇ」
わたしは言った。
「名前は、なんていうの?」
心地よい温もりと揺れの中、重たくなっていく瞼を無理矢理開けて、少女と同じように、尋ねた。
けれど声は掠れて、言葉はたどたどしくて、全然、同じにはならなくて――
「私は『
振り返った少女は、笑っていた。
「あなたと同じ、彩華よ」
わたしを見て、笑っていた。
優しく、温かく。
そうしてその日、わたしは才霞になった。
そして八年後、彩華は死んだ。
* * *
その日は、早咲きの桜の花が散っていた。
(三十六――)
ゴォーン、ゴォーンと。響き渡る地を揺らすような荘厳な鐘の音を数えながら、才霞は王城の玄関ホールをゆっくりと進んでいた。
吹き抜けの頭上には、彩り鮮やかなステンドグラス。そこに描かれた花の女神が、緩やかな微笑みで地上を見下ろしている。コツコツと、一歩進む度に、足下に敷き詰められた大理石から堅い音が上がって、広大な空間に反響する。
それはほんの瞬きの間の、静謐な時間。
「ぐあぁっ!」
後方から誰のものとも分からない悲鳴が上がり、才霞は足を止めた。振り返れば、黒髪の少年――いや、もう青年と呼ぶべき一人の男性がその細身で、果敢にも才霞たちに挑みかかってきたらしい兵士の一人を床に組み伏せていた。
才霞は言った。
「翔理、ほどほどにね。時間もあまりないのだから」
そう宥めれば、ふんと鼻を鳴らして翔理は立ち上がる。同時に、その背に斬りかかってきた兵士の顔を、鞘に収めた刀で打ち据えた。後頭部で一本に括った長髪が、さらりと靡く。辺りをずらりと取り囲んでいた兵士たちは、ノールックの一撃を見て、揃ってたじろぐ。
「襲ってくる方が悪い。それに鐘の音はまだ三十六だ」
ゴォーンと腹の底に響くような音が一つ、頭上から足に抜けていく。
「もう三十七よ。あと十一しかない」
四十八になるまでに、才霞たちは玉座の間に辿り着かなくてはいけない。それに――
「襲ってくるのは仕方ないわ。わたしたちは、侵入者なのだから」
どこからか吹き抜ける春の風が、才霞の長い銀灰の髪を攫った。
見れば格子の嵌められた窓の外では、穏やかな青空の下、桜の花びらがひらひらと舞っている。
先王の喪に服すにはまるで似つかわしくない、けれど新たな王を選ぶ最初の日には相応しい、美しい日だった。
才霞はまた一歩、歩き出す。
「急ぎましょう、翔理」
「仰せのままに、姫様」
才霞と翔理が城に侵入したその頃、玉座の間では先に崩御した王に代わる、次代の王を決める選定会議が開かれていた。
大広間と遜色ない広大な玉座の間。その最奥、空席の玉座の前には、さして大きくない四角い
「われ、
正面より左側。座面が高く設えられた特別製の椅子に座る女児は、右手を小さく掲げ、舌っ足らずな声で宣言した。瞬間、卓上の札山が目映く光る。
「我、歳王
続いて右手に座る少年が、女児よりも流暢に応える。先程と同じく、札山が一瞬だけ光る。
「我、歳王
最後に、上座に座る青年が宣言して、札山が一際強く輝いた。
右目に眼帯をした青年だった。口元には、淡い笑み。整った中性的な顔には、まだ少年の面影が残っている。伝統的な倭藤国の装束から覗く首筋には、鮮やかな芍薬の花がまるで刺青のように咲いている。背後には、大の大人をひと飲みにしてしまいそうなほどの巨犬が目を閉じて伏せていた。
青年に続く声はない。下座は空席で、遠巻きに座卓を囲む王家の中心たちから、反対の声が上がる気配もない。
そういう風に、予め取り決めをした。
しばらく経って、傍らに立っていた神官の男が口を開く。
「では、花の女神の盟約に従い、ここに次代の王は歳王杜岐さまと決定いたし――」
「いいえ」
その宣言を、花のように可憐な声が遮った。
玉座の間の大扉が、ギギギと重く軋んだ音を立てて開いていく。
この儀を遮る者などいないはず。誰も彼もが大扉の袂を、たった一人『否』を唱えた声の主を見つめた。
「――いいえ」
少女は言う。
耳を撫でていく涼風のような声で、どこかたどたどしく。
「王になるのは、あなたではないわ。杜岐」
そこに白い少女が一人、黒の少年を従え、立っていた。
「まさか……」
最初にそう発したのは誰だったか。
歳王杜岐が、ガタリと椅子を倒して立ち上がる。
「まさか……彩華、なのか……?」
震える声で『さいか』を呼ぶ。その銀翠の左目に浮かぶのは驚愕か、それとも畏怖か。
まるで喪服のように黒いドレスワンピースの裾を揺らしながら、少女が一歩を踏み出した。歩きながら、上半身を覆うケープのボタンを一つ一つ外していく。その白魚のような指先を、誰もが固唾を呑んで見つめ――パサリ、と。床に落ちる闇色の外套。
剥き出しになった白い肩。そして大きく空いたその胸元に――鮮やかな白椿の模様が一輪、慎ましくも咲き誇っていた。
王華――王たり得る資質を持つ王族にのみ与えられる、花の女神の眷属の証。
少女はその白銀の瞳に血の繋がらない青年を映し、宣言する。
「王華を以て、我、『さいか』は歳王杜岐に対し、華遊びを所望する」
そうして才霞は、彩華となる。
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