第3話  逃げ出そう

「ヨハンネス様が呼んでいます!今すぐ行ってください!」


 たまたま家に戻ったら、父に仕える侍従の一人と出会したので、両手を胸の前で祈るように組みながら、ガタガタと震える素振りで訴える。


 一応、私はヴァーメルダム伯爵家の次女のはずなのだけれど、扱い的には下級メイドのため、執事でも様付きで呼ぶし、父は伯爵様、母は伯爵夫人、姉にはお嬢様と呼ぶように強要されている状態です。


 流石にお仕着せがずぶ濡れ、いつもは無表情の私が感情を露わにしている姿にただ事ではないと感じた侍従が、裏庭から泉の方へと飛ぶように駆け出していく。


 とりあえず外でスカートの水を絞り上げた私は、自分の部屋(屋敷の隅にある客間、どうやら平民の客を泊めるための部屋だったらしい)に移動すると、乾いているお仕着せに着替えて、木箱を抱えて移動を始めた。


 伯爵家の次女である私は外への買い物にも良く行かされるので、木箱を抱えて移動していると『また買い物に行かされるんだな〜』程度にしか思われない。


 屋敷の中は私にとって滅茶苦茶居心地が悪いので、息抜きしろという意味なのかな?料理長はよく私に買い物を申しつけてくるんだよね。


 どうやらこれは執事であるヨハンネスの差配によるものらしいんだけど、

「あのように見窄らしい令嬢が外に出てどんな目に遭って帰ってくることになるか、考えるだけで楽しくないですか?」

 と、姉に対して言っていたので、姉も母も、私の外出については特に何も言わないのよね。


 ちなみに、リンドルフ王国の王都アルメレンの治安はとても良いと言われている。

メイド姿の私がたった一人で買い物に行ったとしても、暴漢に絡まれることは一度もない。フレデリック王になってから、街の治安維持にお金をかけるようになった為、多くの商売人がリンドルフ王国に詰めかけているような状態なのだ。


 私が住んでいるリンドルフ王国は森林が多い低地帯で、八百年ほど前は聖宗教を国教とするフランドル帝国の支配下に置かれていたんだけど、各都市が自治権を持つようになって、その後、帝国は直接統治を断念することになり、リンドルフ公が統治を任されるようになったってわけ。


 商売人としての才覚があったリンドルフ公は、バラバラだった各都市をお金を使ってまとめ上げ、ギルドの形成や市場の設置、沼地の水を抜いてどんどんと開拓地を広げていってリンドルフ王国を豊かな国へと作り替えていったわけですね。


 海岸の開拓を進め、大型船が入港出来る港を作り、貿易でのし上がった王国は商人の国とも言われている。


 その王国で五つの指に入ると言われるヴィンケル商会はお客様の出入りが非常に多いため、表ではなく裏から回った私が木箱を抱えて廊下を進んでいくと、

「おやおや、マルーシュカは遂に家出を決意したのかな?」

 漆黒の髪にグレイの瞳の男が立ち止まる。


 鼻の筋が通り、その下にある薄い唇は彼の酷薄さを表しているようだ。グレイの瞳は真実を見通すような鋭さを持ち、形の良い眉は不機嫌そうに引き上がる。


 デートメルス公爵家は軍部も司るし、商売でも成功を収めているオールマイティーな家であり、何代にも渡って王族も降嫁している関係から王家とも縁は深く、由緒正しい家でもある。


 その公爵家の嫡男であるアレックス様は、氷のような美貌とも言われるほど冴えざえとした美しさを孕む容姿をしており、確かに、美貌を讃えられた姉くらい美人でないと、隣に立って見劣りするだろうなとは思うわけ。


「デートメルス小公子様にご挨拶申し上げます」


 姉の婚約者に対して、木箱片手にスカートの裾をちょっと摘んで挨拶をすると、面白くないといった様子でアレックス様が鼻を鳴らした。


「お前は貴族令嬢ではなく、我が商会で働く従業員なのだろう?であれば、そのような挨拶など無用」

「はあ、そうですか」


 むかしむかし、お姉様から買い物をして来いと言われて麻薬も扱う悪徳商会へと出向いたところで、摘発を手伝うことになった私と閣下の付き合いはそれなりに長い。


 伯爵家ではお手当なしで無料働きをしている私は、切実に現金が欲しかった。そんな訳で、公爵家が所有するヴィンケル商会に臨時で雇って貰っている。従業員として契約もしているし、働いた分だけお給金も頂いている。計算が物凄く得意な私は、帳簿などの点検作業で日銭を稼いでいるのだった。


「それで?部屋にあるものを適当に持って来ましたというその有り様は一体なんなんだ?」

「これですか?」


 確かに、私が抱えている木箱の中には衣服やらペンやら、木の棒やら枕やらと、雑多なものが詰め込まれている。

「背中を掻くのにちょうど良いんですよ」


 箱から飛び出た木の棒を手に取って渡すと、

「そうではない、伯爵家で何かがあったから出て来たのであろう?何があったのか言えと言っている」

 情報部も統括する閣下は不機嫌丸出しとなりながら木の棒を手に取った。


「何かあったって、そうですね、確かに伯爵家で異常事態が起こりました」

「だから何が起こったと尋ねている」

「姉がですね、死にました」


 アレックス様は形の良い眉を顰めながら言い出した。

「お前の願望を今、口に出してみた、ということではないよな?」

「ないですね、マジもんで死んでいます」


 アレックス様は額に手を置きながら灰色の瞳を閉じた。

「フレデリークが死んだ?何故だ?」

「殺されたみたいです」


 私はとりあえず訴えた。


「伯爵家の庭園の奥にある泉にぷかぷか浮かんでいたんです、第一発見者は私と執事です」

「それは本当の話なのか?」

「本当です、だからこそ大騒ぎになっている隙を突いて、家を抜け出そうって思ったのですし」


 アレックス様はまじまじと私を見ると、海よりも深い大きなため息を吐き出したのだった。

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