第20話、終わってしまったこと 下
「チグサか?」
「……兄ちゃん」
「元気だったか?」
ずいぶん大きくなったなあと嬉しく思った。ひんやりと暗くて、木々の陰になっていて互いの顔さえ見えない。それでも弟が成長していたことに胸がいっぱいになった。
「ああ。兄ちゃんは」
「ぼちぼちな。ちゃんと食ってる?」
「……家族みたいなこと言うなよ」
底瀬チグサはいらだっているようだ。
「ん……ごめん。ちょっと心配だっただけで」
「兄ちゃんは、父さんと母さんを殺して、ヨウカクさんの娘さん誘拐するし、ホットケーキは焦がすし、肉詰めピーマンばっかり毎日作るし、ずっと、ずっと大嫌いだった!」
チグサは叫んだ。それはかんしゃくのようで悲痛にも聞こえた。
「うん、そうだな」
その通りだ。ずっと我慢してきたんだろう。いい子だから。俺のことで、集落にもいづらかったのかもしれない。
「妻だって息子だってオレのことなんかどうでもいいんだ。いくら殴っても言うこと聞いてくれない!」
いきりたって言い放った言葉に、ぴくとアオの目が動いた。チグサがうろたえる。弟も父と同じだということにカッとなって、アオは思わず彼の首元をつかんだ。手に力が入る。ダメだ。そう思っても止められなかった。
「おまえ……」
「オレだってわかってる!」
今までうなずいていた兄につかまれてチグサは慌てた。言い訳をするように泣き声が混じる。チグサは苦しげにのどを締め上げるアオの腕をつかむが、力が入らない。変形した右手に怯え、それでもすがるように手をかけた。
「わかってるんだ。なんだってこんなことに……もう嫌だ。なあ、兄ちゃん、もうオレを置いてくなよ」
二人は組み合ったまま、背後の崖へと倒れ込んだ。チグサの体がぐらついた瞬間、アオは体勢を変えた。崖を蹴ってチグサを高く放り投げる。チグサの体が飛んで崖の上へ消えていくのを見て、アオは谷の暗がりに飲み込まれていった。
地面に叩きつけられたチグサは転がってしばらく動けなかった。
「ササメ兄ちゃん……!」
本当は、帰ってきてくれって言いたかった。人を殴らずにはいられない自分を叱って、それでも愛する弟だと言って欲しかった。それなのに言えなかった。知らない土地で自分を忘れてしあわせそうな兄が許せなかった。
谷間にすすり泣きが落ちていく。
「……なにを笑っている」
「わかってたよ、ユエンさんがそこにいること」
暗闇にひとりアオは笑った。ここはユエンの闇の中で、そこにユエンがいることを知っていた。ゲンをアオの影につけていたのも、谷に落ちるとき陰が受け止めてくれたのもすんなり納得できた。
「そうか」
「俺は勝手に思い込んでただけだ。絶対、しあわせに暮らしてるはずだって」
知らないところでしあわせでいて欲しかった。それだけがアオの支えだったから。
「あそこで死んどいたら、奥さんと子供にはよかったって思う。でも、できなかった」
弟がいなくなれば、彼の妻子はほっとしたことだろう。新しい人生を始められたことだろう。そこまでわかって、弟を死なせることはできなかった。
「そうか」
ユエンはただうなずいただけだった。
「あれにはゲンをつけたから、悪いことにはならんだろう」
「そっかあ……。ユエンさん、ありがとな」
「あいつのためではない。おまえが願うからではない。おまえが決めるまで待つだけだ」
ここには光もなにもなくて、音だって自分とユエンの声だけだ。
……実家にいたころ、真夜中はようやく安心できる時間だったことを思い出す。どこまでも優しい暗がりにアオは手を伸ばした。柔らかい手に触れて、ユエンがすぐそこにいることを知った。
「俺は、ずっと弟から逃げてたんだ」
「おまえはずっと帰りたいと思っていたのだな」
「……うん」
「なあ、アオ。苦しいのはそれぞれだ、おまえだけじゃない。……だからといって、おまえが苦しいのがなくなるわけではないが。けれども、私は苦しくて神に祈った人がいたのを知っている。おまえの生まれるはるか以前の、知らない土地の、名前も残っていない誰かが祈っていたことを知っている」
何も見えない暗闇の中で、いつだって誰かが神に祈っていた。そして今も。そうやって人は生きてきた。
「……そっか」
ユエンは人といたときのことをすべて思い出せる。人の誕生を喜び、人の成長に驚き、その死が穏やかなものであるように願った。しかし、人は変わってしまった。ユエンという神は捨てられた。後には思い出しか残らなかった。
「だから私は神でいたかった……人の祈りに応えられる神でありたかった」
神であり続けたいと思った。「神」でなくなったらすべてが
「すまない。人として死ねなくしてしまった」
「そんなこと……」
「私は……神であった頃に戻りたいのか、わからない。私は死の神だが死を知らない。あの世も知らない。そのうち消えていくだけの、神のふりをしているだけのものだ」
そこでアオは自分が言葉を間違えていたことに気づいた。ユエンに神でなくなって欲しいということではないのだ。ユエンの揺らぎにゆっくりと自分の呼吸を合わせる。
「俺は、神だったところも、そうあろうとするところも、そうじゃないところも、ユエンさんの全部がだいじだ。俺はユエンさんがユエンさんであるように信じるよ」
光のない暗がりに、ユエンがまばたいたように見えた。信じるということは、自分では思い通りにならないことを誰かにまかせることだ。それなら信じようと思った。ユエンのことも、弟のことも。そして自分のことも。それはあきらめにも似た安心感だった。
「神に会ったことあるやつはいないんだろ? だったら、それは神じゃなくて、ユエンさんがそうしたいからだ」
「そうか、私がか。では、おまえはどうしたい?」
「……もうちょっとこうしていたい。ユエンさんにいてほしい」
「そのくらいの願いは叶えられる。なあ、おまえは頑張ったよ。イイ男だとも」
ユエンが影を揺らす。「愛している」「信じている」。……人はそういう言葉を使うがそれは錯覚だ。確かめ合うことはできない。だけど、その感覚は言葉にできない安らかな気持ちだった。
アオは泣いた。初めて声を上げて泣いた。熱い涙が流れ、すぐに冷たくなって落ちる。その感触すら気にせず、鼻が痛くなってもひたすらに泣き続けた。心からしあわせだと思ってもいいと感じられた。
やがて泣き声が小さくなっていって、一度しゃくりあげるとアオは笑った。
「手紙を書くよ。弟に、今でもだいじだって。……そして、もうひとりに。あの人なら、弟のこともちゃんと叱ってくれると思う。家族だって上手く逃がしてくれる。そういう人だから」
市の中心街まで降り、駅で電車を待つ。
手紙はユエンに頼んでチグサとヨウカクの家の郵便受けに入れてもらった。どう受けとめられるかはわからない。このあとどうなるかも。無責任だ。だけど、うまくいって欲しいと思った。
ユエンは時刻表を眺めている。電車はもう少しで来るだろう。そろそろホームに入ろうとして、アオは気づいた。
「あれ、ユエンさん、お金あったっけ?」
「ない。何かの影に入ればいいからな」
「いや、ダメだろ」
「なぜだ? 席はいらないし車体や線路に影響も与えない。料金をとられる謂れがない」
そう言われるとそんな気もするし、いやそれは違うだろうとも思える。ともかく、ユエンがお金を持ってないことはわかった。
「……わかった。お金払うから隣、座ってくれる?」
「ふむ?」
「俺がそうして欲しいから」
シガン宅のドアが開いて、アオが戻った。ユエンも後ろにいる。たいして離れていないのに懐かしく思える。三ヶ月ほどなのに、いつのまにかこの家になじんでしまった。
「おお、おかえり」
「おかえりー」
シガンとコウが明るく迎え入れる。何事もなかったようにとは言わないが、みんなそれぞれそうあろうとしている。もちろんアオもそうだ。言ったところで仕方がないことなら、変わらず「いつもどおり」でいたい。
「うん、ただいま」
アオは部屋に荷物を置き、キッチンに戻ってくる。そして、コウの前にひざをついて、真剣に話をはじめた。
「コウくん、もしよければ俺のとこくる?」
シガンのところにはいつまでもいられないが、今はまだ竜のところに行くと決められないらしい。アオだって子供ひとりくらい養うことはできる。そこに行かなきゃならないというより自分で選んだほうがいいと思う。そのほうが納得がいくに違いない。
「アオのとこ?」
「ここからちょっと離れてるけど、俺と一緒だ。だから、考えてみて?」
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