第19話、決着。そして 下

 舞い落ちる塵のなかから残されたのは黒髪の少女。


「ねえ。これ、ちがう?」


 近づいてしゃがんだコウが絵を見せる。気づいた少女がゆっくりと頭をあげると、そこには顔がなかった。少女は無い目でじっと絵を見た。思い出せないものを思い出すような目で。


 絵の中の女の子はひかえめに笑っていた。……あいまいな顔面に、人の顔が作られていく。目の色は違うものの、少女は絵に描かれたその子と同じ顔だった。


「……違う。こんなの、私じゃない」

「そうかなあ?」


 コウが絵を見てまた少女に目を移し、首をかしげた。絵のやわらかな空気と恐ろしい肉塊は全然違ったけれど、内側にあるなにかが同じだと思った。


「違う……」

「逃げるの?」


 その言葉に、少女は息を詰めた。


「……おかえり、エリナ」


 名前を呼んだのは竜老公。コウから絵を受け取って少女の前に立つ。少女は思わず顔をあげ、顔を覆った。本人も忘れていた名前を返した竜は、おだやかな表情をしていた。ただ静かに、その頭を抱いて撫でる。


「お父さん」


 その子は泣き崩れた。紫の目が濡れて光る。「ごめんなさい、ごめんなさい……」。声を詰まらせてしゃくりあげながら、竜老公に取りすがった。


「……気づいてなかっただけじゃないか」


 そう、コウの口からこぼれた。アオが後ろに来て、「よくやったなあ」というようにコウの頭に左手を置く。それで、やっと自分で決めて行動してよかったのだとほっとした。






 夜明けを待ちながら都市の人間が動きはじめる時間だ。大きな穴の前に、少女を抱えて竜の男が立っていた。少女は抱かれるまま男の胸に顔を埋めて動かない。

 ミトラは男の動きを待った。このまま逃げるのだろうか、それとも暴力に訴えるのか。……戦いになった場合、こちらにはアオ以外の戦力がない。ユエンはどう出る。


「娘はこのまま連れ帰る。よいな?」


 出された言葉は、大きな声でもないのに人をたじろがせた。威圧だ。息をするのさえはばかられるような圧倒的な存在感が場を満たした。ミトラは平然を装って見かえす。人間をみくびられては困る。ゆっくりと呼吸を整え、腹に力をこめた。


「ああ。自分のしたことをかえりみることができる状況ではないと判断した。いったん、そちらにあずける」


 男は少し驚いたように目を見開いた。それから人間たちに背を向ける。


「遠くて近い隣人たちに感謝しよう」


 それから、竜は一度だけ振り返った。


「コウ。よくやった。……来たいなら来なさい」


 コウはすぐに「うん」とは言えなかった。吸血鬼である竜のところに行くことは、きっといいことだろう。なのに決めることができなかった。自分が本当にそうしたいのか、まだわからなかった。


「……その気になったら、死の守り神に言えばよい。迎えを出そう」


 竜老公はひとりでうなずくと、娘ごとガの群れに変わった。音をたてていっせいに飛び上がる。雲のような黒いガが闇のなかを飛んでいく。それは高く星を隠したかと思うと、どこかへ消えていった。






「吸血鬼の始祖相手に恩を売れた。上々だ」


 ミトラが空を見あげて息をついた。ガの群れがかき消えたあとには星が広がっている。これももう少しすれば朝の光に塗りつぶされていく。しばらくは後始末に追われることになるなと大穴に視線を移した。


「……それは人間に都合のいい解釈です」

「結果がよければいいだろ」


 人間と吸血鬼は互いのため交渉した。竜老公は人間のことを考えたのだとミトラは思っている。吸血鬼を見逃したというより、強大で恐ろしい始祖におどされて手が出せなかったとしたほうが言い訳がきく。


 吸血鬼退治に協力するかわり、彼の娘とコウを見逃す。ミトラは彼を信じた。何度でも人と人外の境界を引き直せばいい。そのうち、適切な距離を保った隣人として存在できるかもしれない。吸血鬼害への対策が進めばいい。


「そうであれば『人を殺した』という結果がすべてです。酌量などする必要はない」


 犠牲者の結果は「死」だった。加害者だけが生きて結果を変えることができるなんて不条理だ。それでも、人ではない以上、罪ではないし、許すかどうかは人の勝手でしかない。だから人間はよりよい方法を探すのだろう。自分と相手のために。


「……本当のことを言ったって誰も得をしない」

「人の損得で本当のことは変わりません」


 そっけなく言ってのけたタカノリは、ちらりと自分のスマホを見た。通知がいくつも来ている。せっかちな都環境課長からだろう。完了の報告をしてやらなければならない。明日はまた記者会見になる。これが最後になればいい。


「……課長と市民にはうまく言いましょう」

「わかってる。言いにくいこと言わせて悪かったな。さっすが俺の弟」

「宇気比さん」

「ふはは、いいだろ。誰も聞いてやしない」


 それからタカノリは警官への報告に追われた。地割れや穴の対処も残っている。ミトラはひとり、倒れた一夜木の前でヒトガタの束に火をつけた。人の念が吸血鬼を変質させたというなら、それも弔ってやらねばならない。

 コウは立ちあがる煙を見あげていたが、そのうちアオがいないのに気づいた。気づいたけれど探そうとはしなかった。アオにもやることがあるのだろう。






 街が朝を思い出していく時間、スカイツリーの上に人の形の影があった。


「……名前か」


 名前はそれそのものだ。良くも悪くも、人間は恐れるものの名を直接呼ぶことができない。竜はその吸血鬼の名を人間に教えた。それは人間の手の届くものになったということだ。名を削り世界から抹消するのではなく、広く伝えることで力を削ごうとしたのだ。


 吸血鬼と呼ばれる突然変異の妖精たちが生まれた頃にはもう、古い妖精は消えたか隠れてしまった。ユエンも同じく力を失った。かつて人間に捧げられたネックレスさえもうない。自分が神であったと証明できるものはなくなった。


「ユエンさん」


 信仰されていた頃はあれほど人間の生活に近かったのに、ユエンはなにもできなくなった。人間が災害で死んでも、事故で死んでも、病で死んでも見ないようにした。全て死は平等だから仕方がない。最初から手を出さないほうがいい。

 この世界は自分と関わりなく存在し、変化し、消えていく。自分ではどうしようもないことばかりだとわかってしまった。


「ユエンさん」


 降りてきたアオが声をかける。


「なんだ」

「終わったよ」

「そうか」


 疲れてるなあとアオは思った。ユエンはそんなはずがないというだろう。けれども影を広げたことでひどく力を失っているように感じとれた。……たぶん、使い魔としてつながっているからなのだろう。


「ありがとう、助けてくれて」

「助けるのは……」

「うん、わかってる。そういう神さまだからって言うんだろ? でも、俺は、ユエンさんが神さまでなくてもいいと思ってるよ」


 神だからと理由にこだわることがあるだろうか。ユエンはユエンだ。アオにとってだいじなものだ。神でなかったとしてもそれは変わらない。


「おまえは勝手なことを言う。神だから助けられたのだ、人間がそうあれと望んだから」

「そりゃあ、俺にとっては神さまみたいなもんだけど。だけど、そうじゃなくてもいいんだ」


 一度、神だからということから離れて、彼女の好きにすればいいのに。そうしたら、きっとそんな顔をしなくてすむだろうに。アオはユエンを信じているのであって、神を信じているわけではない。


「おまえは勝手だ」

「……そうだなあ、勝手にそう思っとるだけだ」


 ユエンはうんざりした顔になる。伸ばされたアオの手を払いのけ、スカイツリーの屋根のふちに歩いていく。


「ちょ、おい、ま、まって!」


 飛び降りようとするユエンをアオが止める。登るのはともかく降りるのは困らないらしい。しかしアオが困る。心臓に悪い。アオは左腕を回し、そっとユエンを抱えた。背中に手を当てて体を近づける。物質としての重さなんてほとんどない。


「おりるよ。コウのこと迎えにいかなきゃな」

「……ああ」


 夜が消えていく前の東の空へと飛びたつ。風にふわりと黒い髪がなびいた。

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