第8話、友達 上

「じゃあ、寝る前に歯ぁ磨こうか」


 そろそろコウは寝る時間である。部屋でシガンが子供用の歯ブラシを持っている。膝を叩いて来るように誘うが、コウは乗らない。


「……いや」

「磨かないと虫歯になるぞ」

「いーや」


 嫌なことを嫌というようになったのはいいことだ。そんなわけでお風呂や歯磨きまで嫌がる。やりたくないだけじゃなくて、とりあえず「いや」と言いたいだけかもしれない。


「あ、そうだ。待って、こっち来て。これどう?」


 手足をつっぱらせて、むーっと抵抗のかまえを見せるコウに、アオが袋を出してきた。


「コウくんにプレゼント。この子と仲良くしてくれる?」

「この……?」


 袋から出てきたのは黒い犬のぬいぐるみだった。片手で抱けるくらいで、まんまる目がコウを見ている。体はふわふわとして手触りがいい。


「ゲンちゃんに似てるだろ? ほら、ワンワーンって」


 アオはワンワンとぬいぐるみを動かして、コウに渡す。受け取ると、くたりとコウの腕におさまった。


「ワンワン……」


 ぬいぐるみを片手で握ろうとしてやめた。両腕で体いっぱいを使って抱きしめる。ぱあっと表情が明るくなった。それを見ていたゲンが、これで寝るとき抱きつかれなくてよいと尻尾を揺らした。


「そうそう、ワンワンと遊んで?」

「うん。あそぶ」

「よかったな、コウくん。『ありがとう』は言おうか」

「いいよ、いいよ」


 アオは軽く手を振ったが、ユエンが少し離れたところから口を出した。


「貰ったものを自分のところでき止めてはいけない。ほら」


 人に物をあげるということは、自分のエネルギーも与えるということだ。適切に対処しなければそのエネルギーが害をもたらす。適切な対処とは、例えばお礼であったりお返しであったり、他のものへの贈与であったりする。


「ん……ありがと」


 コウはぬいぐるみを握って、言われるままに言った。「ありがとう」と口にして、そこで胸の中があったかくなったことに気づく。そしてくすぐられているような奇妙な感覚。


「はい、どういたしまして」

「ユエンさんも言わねえよな」

「神とは崇められるものであり与えるものだから、そこに礼はない」

「……おい」


 アオはぬいぐるみの口に歯ブラシを当てて動かした。コウが自分もやりたいと手を伸ばし、奪い取る。そしてぬいぐるみの口を磨いた。いつも自分がされているように。


「ワンワンは歯磨き好きだもんなー。コウくんもシャカシャカするよ」

「する」






 その日から、コウとぬいぐるみは寝るのもどこに行くのも一緒だった。


「ワンワン、ワンワンこっちきて。なにたべるの?」


 ぽんとぬいぐるみがテーブルの上に置かれる。今日の昼ご飯は残った豚バラ大根とキャベツのくたくたケチャップ煮。


「こら、ジャマだろ」


 ご飯を運んでいたシガンは注意する。この調子だと、一緒にお風呂に入れるのは止めなければならない。


「うーん、ワンワンは食べないかなあ……」

「たべないの?」


 コウは信じられないといった目でアオを見た。そんなのおかしいじゃないか。その目に押されてアオが言い訳のように口ごもった。


「いや、その、こういうのは食べないかなって……」

「じゃあ、コウくんが折り紙かなんかで作ってやれ。おいしいの」

「わかった、つくる。こっちくるの、ワンワン」


 コウはぬいぐるみを持ち、小走りで折り紙を取りに行った。コウはぬいぐるみを気に入ったようだ。自分が面倒を見てやらなければと思っている。


「あとでやれ、あとでー」






 そんなわけで数日。コウはぬいぐるみを抱いて、押し入れの中に小さく座っていた。アオがそれに気づいてひょいとのぞきこむ。隅っこからコウが見返した。


「どうしたんだ? これからシガンさんのカフェに行くけど。行くだろ?」

「……ダメ。今、かくれてるの」


 そう言ってコウはぬいぐるみで顔を覆った。自分から見えないならアオからだって見えていないというようだ。アオが思わずほおをゆるめる。それからあっちを向いて探しはじめた。


「そおかあ、コウくんどこかなー? いないなー?」


 家の中を探してみてから部屋まで戻ってくると、ポイッと目の前にぬいぐるみが出された。それを拾ってみれば、コウが慌てて頭を手で隠すところだった。「あれー、おかしいなー。ここかなー」。コウが見計らったように出てくる。


「コウくん、みーっけ!」


 出てきたところをぎゅうっとつかまえる。ぬいぐるみでくすぐると、にこにこと笑って身をよじらせた。






 冷え冷えとした青空、午後のゆるい日差しの中を連れ立って歩いていく。ひんやりした空気が頬にあたり、シガンが鼻をすすった。昼間だというのに、今日はずいぶん冷え込んでいる。


「寒いなあ」

「コウくん、寒くない?」

「さむい?」

「手とか耳とか冷たくないか? 大丈夫?」

「だいじょぶ……」


 四人はシガンのバイト先に向かうところだ。コウがぬいぐるみを片手にずっとキョロキョロしている。アオが反対側の手を取って急に飛び出さないようにする。スカイツリーの存在感も今ではもう見慣れた光景だ。


 大きな道をまっすぐ行った先の駅前には、いくつかの集団がいた。それぞれにポスターなどを持って道ゆく人に声をあげている。


「うわー……」


 それを見たシガンが嫌そうな声をもらした。

 こっちの集団は「吸血鬼は人間のように知能があるから守るべき、権利を認めるべきだ」と主張し、あっちは「人間に危害を加える吸血鬼は探しだして皆殺しにすべき」と叫んでいる。その向こうでは「吸血鬼こそ人類を次のステージに高めてくれる上位存在であり、選ばれた民は血と肉を捧げよ」と説いている。


「保護派と排斥派ねえ……?」

「あとは宗教か。血の平和教?」


 持っている幕やポスターには過激な言葉が並ぶ。「人間は被害者の顔をするな」とか「吸血鬼に味方するものもまた吸血鬼である」とか「我々に残された救いは吸血鬼である」「世の荒廃は善き隣人を無視してきたことからくる。これは祝福されるための試練である」。


「うっさんくせえ……」


 吸血鬼を描きたがっている自分を棚にあげ、シガンが吐き捨てた。ユエンは動じる様子もなく歩いていく。根底にあるのは吸血鬼への無責任な期待だ。相手に勝手な期待をして思い通りにならないのは人間の常である。それこそ何千年も前からそうだったはずだ。


「あ、あ、あの!」


 若い女の人がシガンに話しかけてきた。宗教らしき冊子を持っている。吸血鬼という偉大な存在に自らをゆだねてうんぬん。しあわせとはかくかくしかじか。


「私たちは、あなたを救いたいと思っているんです」

「……ほんとに吸血鬼は神だって信じてるの?」


 シガンは立ち止まり、問いかけた。そのまま通りすぎればいいのにとアオが振り向く。


「神というあいまいなものではなく、実在するのが吸血鬼なんですよ」


 新米信者らしき女の人は顔を輝かせて言った。シガンはムッときて言い返してやろうと考えている。まいったなあ、とアオがコウを後ろから抱いたまま顔をしかめた。


「深い悩みはありませんか。この世の中、苦しいでしょう? 生きづらいでしょう?」


 そんなもの、誰だってそうだ。多かれ少なかれ。シガンがさらに苦い顔になる。


「でも大丈夫ですよ。大きな存在に自分をゆだねて、救われるんです。しあわせになれるんです」


 シガンだって美しいものに触れた時に「神」を感じることはある。神とは人間の手の届かない何かを指す語彙なのだろう。しかし、それは手垢にまみれた人の集団とは別だ。そうシガンは思っている。

 それでも彼女は信じている。信じるということは理屈ではない。神や宗教を信じていない人だって簡単にゴシップを信じるし詐欺に引っかかる。だから彼女を言い負かすことはできない。


「苦しいと思うのはいいことなんです。あなたは苦しむことでそのぶん吸血鬼に救われるという……」

「ほう。では、おまえは今、しあわせなのか?」


 後ろから顔を出したユエンが、無邪気な調子で彼女に聞いた。シガンがぎょっとして、気勢をそがれたように立ち尽くす。彼女も矛先を変えられて少し困ったように言い返した。


「だって、信じなければ不幸になるんですよ。いずれ地獄にいくんです。信じたほうが絶対いいですよね?」

「私は天国も地獄も見たことがないからわからないな?」


 ユエンはわざとらしく小首をかしげて見せた。そして、ひとりうなずく。


「もちろん、しあわせはその人が決めることだ。……ほら、行くぞ」


 後のことなど気にもせず、ユエンは歩き出す。シガンはとまどいながらユエンの背を追った。一度だけ振り返る。女の人が旗を持った仲間の元に戻っていった。彼女のしあわせは、本当にそこにしかないのだろうか。


「……人間を柵で囲むのが宗教なんだろう。その柵によって守られている」


 ユエンがぼそりとつぶやいた。柵で囲まれることで安心し、お互いに守りあう。そうやって何千年と生活をつなげてきた人間たちをユエンは知っている。時に柵を破られ、柵を広げ、隣の柵を襲い、そうやって今まで続いてきた。


「苦しい『から』救われるかあ……」

「意味があるほうが楽だからな。苦しんだぶん、必ず報われると思いたい。そして苦しみという名の快楽を求める。もっとも、そのほうが柵に囲うには楽だ」


 人間は自分が苦しい時、他人にも不幸を求めるものだ。そうすると自分が少ししあわせになったように勘違いできる。


「そんなもんかなあ……」


 彼らは後ろでまだ何かを言っている。「苦しいのは信仰が足りないからだ。血と肉を捧げよ」と叫べば、「人間を害する邪悪な化け物を殺しつくせ」と返ってくる。それを追いかけるように「吸血鬼は知性があるのだから人間と同様の権利を認めろ。社会は吸血鬼を受け入れるべきだ」とくる。


 異なる意見を持ちながら同じことをするのは似たもの同士なのかもしれない。声高に叫ぶことで、何かいいことをした気になっている。


「血と肉を捧げる。そういう神もいたが……さて」


 ぬいぐるみをぎゅっと抱えたコウが、一度振り返ってこっそりと聞く。


「あのひとたち、わるいの?」

「うーん……」

「もし誰かを傷つけるなら、それは悪いんだろう」


 例えば人を社会から引き離して柵に囲い、不幸になるとおどし、たくさんのものを奪うなら「悪い」といえるだろう。そうシガンは思う。


「きずつける……」

「前見て、コウくん。危ないから」


 コウの手を、アオがしっかりにぎった。駅をこえたらカフェまではあと少しだ。わからないという顔をして、コウが階段の最後をぴょんと飛び降りた。それにあわせてぬいぐるみが揺れた。

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