第6話

 考えないようにしようと思うのにあの女性は誰なのかと考えてしまう。もっと二人から離れてしまえばこんなもやもやもなくなるかもしれないと、シンディはひたすら足を動かした。

 真っ直ぐ歩いていく先にはちょうど庭に下りる扉があり、我に返った時には外に出て庭に続く階段を下り切って花壇の横に進み出ていた。


 照明が花壇を照らし、それの前に設置されているベンチの存在に救われたような心地でシンディは一人で腰を下ろす。


 他に人は居ないようだ。居るとしてももっと奥の人から見えないような場所に隠れてイケナイ事をしている口だろう。シンディも敢えてそんな者達の邪魔をしたくはないので庭散策は遠慮した。そうでなくてもそんな気分ではない。

 腰を落ち着ければ心も些か落ち着くものか、少し疲れたような溜息が出た。


 花壇は薔薇の花壇だった。


 ローワー家の庭でも見慣れた種類のおかげか妙な親近感が湧く。


 それも俯いてしまえば視界からは消えてしまったけれど。


 心が揺らいでいる。たった一人知らない場所で道に迷った時にはこんな心細い気持ちになるのかもしれない。


(私がエド様の婚約者なのは揺るぎない事実。何も変わったりしないんだし動揺する必要なんかない。元より愛情なんて求めてないし、結婚しても関係は持たないつもりなのよ。彼がどこの女性といたって気にする必要はない……のに)


 唇を引き結んでどのくらいそうしていただろう。


 下を向く視界に一輪の薔薇が差し込まれた。思考に沈んでいたからか人の気配に気付かなかったシンディは少しびっくりしたが、こんな優しい気遣いをするのはエドモンドくらいだろう。


 視覚的に美顔を見ていないからなのか吐き気は起きず彼だと思うとむしろ自然と心が軽くなる。


「エドさ――」


 ぱっと顔を上げると、しかしそこにいたのは心配そうにする見知らぬ若い男だった。


 いや正確には見知らぬではなく少なくとも知り合いではないと表現すべきか。


 年齢は確かエドモンドの年齢よりもシンディに近いはずだ。

 全くこの場にいるのが予想外の相手だ。

 シンディはゴツいシリアス顔でどうしてお前のような男がここにいるとさえ思った。

 今夜の集まりはどちらかと言えばランクが中から下の貴族達が主に参加している。無論主催者は王族や高位貴族達にも招待状を送っているだろうが欠席の方が多い。彼はその中の数少ない出席者なのだろうか。


(でも、来場のアナウンスはされなかった。お忍びってこと?)


 ポカンとしていたからか、彼は薔薇の花を小さく振って注意を促した。


「暗い顔をしていたけれど、どうしたの? これで元気を出して?」

「え…………ええと、お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」

「あは、私は振られてしまったみたいだ」

「ふ、振るなどと恐れ多い……。その薔薇は殿下にこそ似合いなのです」


 慌てれば彼は苦笑する。エドモンドに劣らない美形顔で。


(あ、吐くかも)


 実は相手の顔を見た瞬間にもうヤバいとシンディは思っていた。

 白馬に乗った王子様を地で行くキラキラしい金髪に碧眼の彼は、エドモンドと同じくらいに背が高くその背中を覆う程に髪は長い。しかも手入れが完璧で枝毛などなさそうというか絶対ないだろこの健康的なキューティクルは、と断言できる美しい髪質ときた。長髪で優れた髪質を維持するのは中々に難しい。

 どんだけ金掛けてんだよ、とシンディは正直羨ましくてイライラした。表情には出さないが。


 社交界で三大美男と呼ばれている男達がいる。


 言うまでもなくその第一席はエドモンドだ。抜きん出ている。


 そして、あと二席のうちの一席――王太子キリアンがシンディの前に身を屈めていた。


 しかも気遣って花をくれるような優しさを持ち合わせている。少々鬱陶し……仰々しいのは高い身分の教育故か。


 エドモンドへと感じる吐き気よりは弱いものの、間違いなく吐きそうになった。


 王太子を汚物まみれになどしたら即日処刑ものではないだろうか。

 シンディは肝が冷える心地で早くどこかへ去ってくれと願った。


(いいえ、むしろ私がさっさとこの場を離れればいいのよね)


 シンディは徐に腰を上げると丁寧にお辞儀をする。


「庭を楽しんでいらっしゃった殿下のご気分に水を差してしまい申し訳ありません。もう会場に戻りますので、失礼致します」

「あ、ローワー嬢! エドモンドの冷たい振る舞いが辛いならまだ戻らないでここにいるといいよ!」


 歩き出していたシンディは足を止めて振り返る。


「……恐縮にも私の名前をご存知だったのですね」

「そりゃあ君達は有名だから。自覚ないの?」

「いえその、まさか殿下のお耳にまで届いているとは思いもしませんでしたので」

「エドモンドとはちょっとした友人でさ。ほら、顔がいいと無駄に人生損をするでしょ、時々悩みを聞いてもらっているんだよね。ふふっ」


 王太子キリアンが微笑むと視界に花が咲くようだ、などとシンディの友人達はキャーキャー言っていた。

 確かに現在本物の薔薇の花が彼の顔の前では咲いている。しかし多分そういう事ではないのだろう。

 何がふふっだこんなぽやぽやしたお花畑の新芽みたいなのが王太子でこの国は将来大丈夫なのか、とシンディは嘘偽らざる本心から思ったが賢明にも顔にも声にも出さなかった。


「損か得かは人それぞれだと思いますけれど、殿下は損とお思いになっているのですね」

「うん? その言い方だとエドモンドは違うって? そう言えば彼には尋ねたことなかったっけ」


 そのうち聞いてみようと楽しそうに呟くキリアン。

 エドモンドは顔のせいで不憫な男で彼自身でも人生散々だったと言っていたけれど、シンディと婚約してからは違うと言っていた。


 ――この顔で苦労したおかげで、縁あってシンディと一緒に居られることになったんだし、今は感謝しているよ。


 そうキラキラした効果をバックに背負った麗しい微笑みで語った彼を思い出し、シンディは口元を押さえた。急にもろ吐きそうになった。


「ローワー嬢大丈夫? 気分まで悪くなってきたの? 動けそうにないならベンチで横になって休むといいよ。私が警護するから」

「い、いいえ、殿下に見張って頂くなど恐れ多くて休むどころではなくなります。殿下のお節介いいえ親切はこの心にしかと刻まれましたので、どうぞ殿下こそ中のレストルームでゆっくりなさって下さい。本当にどうか」


(早くどこか行け早くどこか行け早くどこか行け)


 その紳士然とした優しさマジ吐くだろと青筋を立てそうな苛立ちをどうにかこうにか抑えるシンディの願いはしかし、無情にも届かない。


「まあ実際見張るのは隠れてスタンバってくれている私の護衛達なんだけれどね。それに、私はここの庭を見るのが目的でこの夜会に足を運んだんだよ。この通り素晴らしい庭だからね。そんなわけで、正直会場には用事がない。私が来ていることもどうか内密にと主催者にも伝えてあるし」


 遠慮しなくていいとキリアンはにこりとする。

 シンディはぎゅうっと両手を握りしめて胃の腑の不調を耐える。

 咽奥から競り上がろうとしてくるものを唾を飲み込み飲み込み押し止めるしかない。これがエドモンドならとっくに七色のものが口から出ていただろうと思えばまだどうにか我慢できるかもしれない。


「殿下のお邪魔は望みません。私は平気ですので」


 苦労して取り繕うも、苦しくて薄ら涙が滲んだ。


「顔色も悪いし前言撤回、やっぱりここじゃなくて中に戻った方が良さそうだね。まだ寒くはない季節でも体調の悪い時に夜風の涼しさは少し堪えるだろうから。ほら、歩けるかい?」

「え……」


 マジ要らん世話焼くなこの美形優男と叫びたいが、胃の内容物だけでなくそんな暴言(なのか称賛なのか傍から聞くと微妙なそれ)を吐けばスタンバっているという護衛にバッサリ殺られるのは間違いない。

 王太子は優しげな案じ顔で薔薇を持っていない方の手を差し出しながら顔を覗き込んでくる。純粋な善意で他意はないのだろうが、少し馴れ馴れしい感は否めない。


(近っ、ううぅ、これはもう――十秒以上は無理っ!)


 アデュー我が人生、とシンディは潤んだ瞳に諦念を浮かべ全てを開放かつ解放せんと咽の筋肉を弛めた。


「――シンディ!」


 その矢先、いきなりの鼓膜を叩くような声に驚いて寸でのところで踏み止まった彼女はしかし、びっくり眼で声の方を振り向いてより両目を見開くと即座にキリアンを押し退け駆け出した。


 エドモンドがいる。


 エドモンドだ。


 しかもすっかりいつもの優しげな顔で心配そうにしてシンディの方へと駆けてくる。

 何ってタイミングだよお前ええーっとシンディは罵りたかったがそうもいかない。

 キリアンへ秒で吐く……前に全身全霊で移動だ。


「え、え? ローワー嬢?」

「シンディどこへ!?」


 全力で彼女は正面の花壇へ走り込み、いやスライディングし、体半分突っ込んだ。


 おえーーーーっぷ。


 勿体なくも今夜の食事は花壇の肥やしになった。

 彼女はどうせ吐くなら花壇に隠してなるべく人様から汚物は見えないようにと、淑女として一番マシな道を選んだのだ。これでも。薔薇のトゲが刺さったりかすったりした部分が痛い。これも変な時に現れたエドモンドのせいだ。


「オエ~~ップ!」


 その時、すぐ近くの茂みから口元を押さえてガササッと飛び上がるようにして立ち上がったのは騎士の制服を纏った男性だ。


 明らかにもらいゲロを催している。


 一番近い場所にいたシンディは彼とバッチリ目が合った。


「不審者!? シンディ離れて!」

「あ、待って安心していいよ、私の護衛の一人だから」


 護衛騎士は不幸にもこの花壇に密かに待機していたらしい。ポジションは中堅辺りだろう三十路回りの騎士の男性は気の毒にも色んな観点からの失態を犯して青い顔を晒している。

 何があっても隠密行動をと言った厳重厳戒態勢の下でなら責められもしたかもしれないが、この場に限っては彼の落ち度ではない。大抵の人間は同じようになるだろう。


 シンディはこの場で唯一の普通顔の相手にほわーと和みつつも悪い事をしたと内心で心から平謝った。

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すみません、愛があるなら塩対応でお願いします まるめぐ @marumeguro

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