終に光は暗からじ
千崎 翔鶴
白波の下
ごろりと、転がった。
だらりと、落ちた。
ああ、これも違うのか。ここにもない。これは顔が似ているだけで、決してあの
誰かが悲鳴を上げて逃げていく音がした。女は長い長い黒髪の下から、その音がした方をじっとりと見る。
その顔には、あるべきものがない。
右の目は、ある。そこにはきちんと眼球というものが収まっている。
けれど左の目。
左の目には、あるべきものがない。そこには
何とも
女の顔から左の目を
何度も、何度も。天を貫き。
けれど嘆き悲しんだその果てに、何があったわけでもない。ただ胸の中に去来した虚無と共に、その胸の
どうして。
どうして。
お前はここで笑っていたではないか。手を繋いで歩いたではないか。沈む夕日が野辺を真っ赤に焼いて、そんなものを見ながら帰路についた。
お前はきっとやさしい良い子になるのだろうねと、女はその子に笑ったものだ。
決して、その子の未来は視なかった。
それだけが女にしてやれる、精一杯だったのだから。
さわさわと風が野辺の草を揺らしていた。すんと鳴らした鼻にとどいたのは、多分だらりと落ちたものから
女はまたふらりと歩き出す。
右の目には過去が映った。何度も何度も過去を映して、その容貌だけを脳に刻み付けて、ただふらりふらりと幽鬼の如く。
赦すまじ。
赦すまじ。
神から魚を奪った
なぜ、女が盗人を赦すようなことがあろう。
※ ※ ※
そして、三百年。あまりにも長い歳月を思い返す。
募るばかりの恨みを何としようと、ただそればかりを考える。
視えるのは過去ばかり。
未来というものは、もうどこにもない。視えることもなく、想起するようなこともなく。
ふらり。
ゆらり。
あの
ゆらり。
ゆらり。
ぎゃあぎゃあと
「さあ今日は年に一度のミサキサマの
ゆらり。
「ミサキサマにお祈りすれば、より良い未来が視えるのだとか」
「ミサキサマに頼めば自分の未来が分かるのだとか」
ようよう女が辿り着いた東の果て。小さな島国の港から、女はふらりふらりと足を進める。
一体どれほど歩いただろう。一体どれほど探し求めたことだろう。この国の人間は、誰も彼もが黒い目をしている。
女は何度となく右の目を瞬かせた。あれか、これか、それか。求めるものは、いずこにあるか。
見よや
思うもうらめし、いにしへの。
※ ※ ※
長い石段を、少年は一歩ずつ踏みしめて上がっていく。かつり、こつり、硬い
その向こうの社殿の中にあるものを、少年以外には誰も知らない。
この国は、神の国と呼ばれた。未来を識り、災害を予測し、そうして他国に対して優位に立ち続けるしか、この小さな島国の生き延びる道はなかった。
社殿の向こう、人々がミサキサマと呼んだそれが鎮座する。ぎぃと音を立てて開いた扉の向こう、美しい輝くばかりの紫色の分厚い布の上、ぎょろりとした漆黒の目玉が静かに佇んでいた。
人はこんなものに手を合わせる。こんなものをありがたがる。
「……ねえ、ミサキサマ。還りたい?」
返ることばがないと知りながら、少年は目玉に問いかける。
この目は本当は、持ち主があったものだった。遠い遠い昔、三百年も昔のこと、これを大事に大事に抱え込んでこの島国に辿り着いた男が、誰も触れるなと厳命して目玉をここに置いた。
少年は目玉に問いかける。毎日、毎日、同じ問いを繰り返す。毎日毎日、そこに返ってくるものがないのだと知りながら。
ぱたりと社殿の扉を閉じた。
振り返れば西の空、日が沈む。山の
どうしてだろう。今日の夜はミサキサマの御開帳の日。一般の民衆にも、未来を読む力が分け与えられる日だ。いつもは石段のところにまでごった返すほどの人がやってくるのに、誰一人としてここにはいない。
かつり、こつり。
ふつと山の端を灼いていた太陽が姿を消した。カアカアと鴉が鳴いている。薄暗がりで、ぷつりと何かが千切れるような音を聞く。
かつり。
こつり。
すんと鼻を動かせば、届いたにおいがある。錆びた鉄のようなにおいは、どこからするのか。
かつり。
かつり。
こつん。
長い黒髪の女が、そこにしゃがみこんでいた。その足元に、だらりと人形のようになって転がったものがある。いくつもいくつも、だらりと転がる。
女の白い指先が、だらりと転がったそれを上に向かせた。伸ばした指先は躊躇いもなくずぶりと沈み、丸いものをひとつ引き抜いた。
女の手と、転がるそれとを、糸が繋げる。女は白い面でその糸を見て、糸切狭でぶつんとその糸を切り離した。
女は右の目を瞬かせ、ほう、と息を吐いてその目玉を見ていた。ぎょろりとした黒い目玉はあの社殿の中のものに似て、けれども決して似ていない。
まっしろな布で、女はその目玉を拭き上げた。
それを再び女は見て、ほうと満足げに息をつく。女は拭きあげたその目玉を、白いかんばせに押し当てた。
ひゅうと、少年の喉で音が鳴る。その女は真っ白な顔をして、右の目はあって、けれども左の目のあるべき場所には、ただただがらんどうの虚ろがあった。
女がそのがらんどうへ、目玉を押し込む。そうして嬉し気に微笑んで、女は目を瞬かせた。
けれど。
次の瞬間に、女は泣いた。
いや、少年には泣いたように見えただけで、その頬を滑って落ちていったものは、決して水などではない。もっともっといろいろなものが混ざり合った白いものは、白い頬を伝い落ちて、べしゃりと地面に落ちていった。
どろり。
べしゃり。
ぐしゃり。
「ああ……これでもない」
次とばかりに、女はまた別のだらりと転がるものに手を伸ばす。
ずぶり。ぶつん。
どろり。べしゃり。ぐしゃり。
「これでもない」
ずぶり。ぶつん。どろりべしゃり。ぐしゃん。
「これでもない。これでもない」
あれも、これも。何もかもがすべて違う。
女が歩いて行った軌跡を描くかのように、てんてんと白くて丸いものの残骸が地面の上に広がっていた。
どくりどくりと心臓が音を立てている。首のところにまで心臓があるかのように、少年の耳のすぐそばで心臓の音が聞こえていた。ひどくうるさい音がして、ここから逃げねばと気だけは急いて、それでも足は地面に縫い付けられてしまったかのように動かない。
背中が、指先が、冷えていく。だというのに心臓の音だけは、やけにうるさい。
鼓動するということは、全身に血は巡っているということ。それでも冷えていく体は、一切動かせそうにもない。命令中枢であるはずの脳は、きっとおかしくなってしまった。
ぐるりと女の顔が少年を向く。ひゅ、と少年の喉が鳴る。
「お前、――」
女の口がはくりと動き、何か名前のようなものを口にした。けれどその名前は聞き馴染みはない。けれど、少年はその名前を見たことだけはあった。
あの目玉。綺麗な綺麗な布の上に宝物のように置かれたあの目玉。
「……漆黒の」
振り絞り、喉を締め上げ。
少年は女の虚ろを見つめて言葉を紡ぐ。その右の目の奥底で、熾火のような燻ぶり続けるものが見え隠れする。
女が少年へと手を伸ばした。少年もきっと、何事もなければだらりと転がるものと同じものになっただろう。
「還しましょうか」
ぴたりと、女の細い指先が少年の顔の前で止まる。
ひょうひょうと風が吹き抜けて、ただそれだけが時の流れを証明していた。どちらも動くことはなく、女の指先も顔の前から動かない。
「どうして」
「さあ、どうしてでしょう」
少年だけが、知っていることがある。
かつてこの島に辿り着き、そしてあの社殿の中に男は宝物を隠していった。それを隠したのは、ただ。
※ ※ ※
ざあざあと波の音がしていた。
少年はぎゃいぎゃいと鳴き騒ぐ鴎の下で、白波の立つ海面を見ていた。
三百年前、ここからひとりの子供が海へと灰と骨を撒いた。そして少年もまた、同じように。
ざあざあと、ぎゃあぎゃあと。
何事もなかったかのように、海面はいつもと変わらない。
「波はかえって、猛火となるぞや」
荒れ狂うことのない海は、ただ波の音だけを響かせる。
その波の底、女は何を口にするのだろう。漆黒を手にして、かつての盗人の真意を知り、そして崩れ落ちるようにしてほろりと零れていった、あの女は。
終に光は暗からじ 千崎 翔鶴 @tsuruumedo
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