第7話  魔王


 魔王の住まう山は雪に閉ざされていた。今はその雪を溶かすほどに、血が地面を濡らしていた。埋め尽くされていた、なだらかな山道が、魔物の死骸で。英雄たち三人に、斬られ、魔導で焼き尽くされた死骸で。

 その先に魔王はいた。洞窟の底でもなく宮殿の奥でもなく、ただ散歩に来たかのようにそこにいた。


「無駄だよ」

 意外に涼やかな顔で魔王は言った、三つの眼を見開いて。

「無駄だよ、余には未来が見えた。百年先、健在でいる余がな。故、ここで余が死ぬことは無い」


 遠巻きに魔王と対峙し、杖を野太刀を剣を、三人はそれぞれ構えていたが。いずれも肩を大きく上下させ、荒い息をついていた。体はいくつも傷を負い、血を流していた。いつも微笑みながら武器を振るう英雄も、今や何の表情もなかった。

 魔王の山のふもとから、いや、そこへたどり着くまでの道程にも。数え切れぬほどの魔物が現れ、行く手を阻んだ。彼ら三人、人外の域に達した剣士と人間の限界に迫る魔導師と、神気に護られた英雄とはいえ。ここまでの間に、ほとんどの力を使い果たしていた。


「汝らの力、見事なものだが……しかし、実に嘆かわしい」

 言うと魔王は目を閉じ、ゆっくりとかぶりを振る。

「余は神より遣わされし者。汝ら人間が目に余って汚れておる故、一掃する役目を負うてな。抗うでない……余に畏怖し、真に悔い改めるならば、残しておいてやってもよい。余の暴威暴虐は全てそのため。全ては汝ら人のため」

 ため息をつく。

「とはいえ。悔い改めたところで、真に生き残るに足る者が一握り……いや、一つまみもおれば良いがな。残りは引き裂き焼き滅ぼし、地の肥やしと変えてくれようほどに」


 英雄が片手で剣を構え、前に出る。その剣身から白く、神気を立ち昇らせる剣を。

「黙れ。貴様はここで倒す、必ず、俺が……!」

 その言葉が終わるかどうかのとき。英雄の脚から力が抜け、崩れ落ちる。剣に添えていない片手は先ほどから、腹の傷を押さえていた。血を流し続ける傷を。


 魔王はまた首を横に振る。

「『神誓英雄剣』、唯一余を討つことのできる武器。神は慈悲深い……汝らにもそうして、抵抗の目を残して下さったというのに。人間は薄汚い」

 両手を広げて辺りを示す。魔物の死骸が埋め尽くす、周囲一帯を。

「これだけの数、汝ら三人のみで退けたは見事だが。……何故、三人だけで来た?」

 答えを待たず、魔王は続ける。

「利が無いから。汝ら人間が薄汚いからよ。……余を討てる剣は一振りのみ。故、魔王を討ちし救世主となる、その可能性があるのはただ一人のみ。栄誉を得るのはただ一人、他はせいぜい近しい仲間が、おこぼれにあずかる程度……故に、誰も来ぬ」

 顔を歪め、吐き捨てるように言った。

「誰も、汝ら以外に誰もだ! 名誉など捨て協力すれば良い、団結すれば良いであろうに! さすれば汝ら三人も、そこまで消耗せず余と対峙できた。余を討つ可能性はあった」


 魔王はうつむく。深く深くため息をつく。

「古の時代にも、我と同じ役目を持った者が生み出されたそうだが。その時には多くの人間が自ら犠牲となって英雄を助け、魔王を討ち取ったというぞ。……その聖剣を今に受け継ぎながら、人間は何故その心を受け継がなんだ。よくもよくも堕ちたものよ」

 魔王の掲げた両手の上に、黒い炎が渦を巻く。魔王自身の身長を大きく越えて、全てを飲み込むかのように。

「汝らほどの覚悟ある者、滅するには忍びないが……神の意を阻むとあらば仕方なし。せめて、楽に消してやろうほどに」

 顔を歪める英雄の、奥歯が、ぎり、と音を立てた。




 誤解していた、と呪腕は思った。

英雄が『心の無い者』にこだわったのは、全てこのため。魔王が言うような損得を抜きに、魔王に挑むことのできる者。それを探していた――今、そう理解した。

 だからこそそう、自分たちのような者ですら仲間としたのだ。肌を埋め尽くすほどその身に魔法陣を刻んだ、父親殺しの魔導師。妖刀に操られてとはいえ、千人近くを斬った少年。どこにも居場所があるはずのない者たちを。

 そんな自分たちをよく見ていてくれた、英雄は。心が無い、と妙な誉め方はすれど、一度も否定することはなかった。一挙手一投足をも、無駄に誉め称えてくれた。

 ここからどうあがいても勝ちはない。ならばそう、せめて。この二人を。

 呪腕は杖を二人に向けた。先端の輝石が魔力を帯び、光を放ち出す。




 英雄はよく見ていた、仲間をいつも。だからよく知っていた、呪腕の扱う魔導全てが、剣呑極まりないものだと。炎で焦がし風圧で断ち切り、天罰のように電撃を浴びせ。果ては身動きを封じた後、腕を突っ込んで爆散させるようなものだと。

 そして、これも知っていた。呪腕の使っている杖には、剣が仕込まれていると。彼女自身は秘密にしているつもりらしかったが、取り回すときにわずか、刀身が鞘に当たる音がする。そして杖上部の妙な継ぎ目の深さ。まるで柄と鞘とで分かれているかのような。

 だから、英雄は。自らに突きつけられた杖の、その柄の部分を取って。半ば反射的に引き抜いた。

 呪腕の手には鞘だけが残った。魔力を集中させる要である輝石は、英雄が引き抜いた仕込み剣の、柄の先にあった。

 呪腕の手からの魔力供給が途絶えた輝石、今や英雄が手にしたそれは。すぐに輝きを失った。

 呪腕が放とうとしていた魔導は――それが何なのか英雄には分からなかったが――、魔力を失い、不発に終わった。

 目を見開き、口を開けた呪腕の、その腹を。

 風斬りが、飛び込みざまに斬っていた。




 風斬りは決して疑わなかった、呪腕の言葉を。以前に言ってくれた「私の言葉に、嘘はない」というその言葉を。

 だからこれも信じた。初めて会ったときに言っていた言葉。「やばくなったら、私はその場でよそにつく。たとえ、魔王の方へでもな」

 そして今。魔王を前に、危機に陥った今。呪腕は魔導杖を魔王ではなく、英雄と風斬りに向けていた。

 ――呪腕は、裏切る。言葉のとおりに――そう、風斬りは捉えていた。

 手にした野太刀は震えた、自らを守れ、呪腕を斬れと。

 風斬りはその震えのままに駆けた。胸の内には何もなかった。

 彼の首と両手首には、呪腕がかけた呪いの鉄輪がはめられてはいたが。それは『人を斬ろうとした際、強制的に拘束する』『ただし』『自分または呪腕または英雄、これを守るために人を斬る場合には、その魔力は機能しない』。そういう呪法だった――故にこの場合、一切機能しなかった。

 英雄が呪腕の杖を握り、仕込み剣を引き抜く。そこへ跳び込み、風斬りは呪腕を斬った。


 斬ったと同時。なぜか、手から力が抜けた。柄から手が離れた、いつも掌に吸いつくようだった柄から。取り落としていた、野太刀を。自分の手と腕と、体全てと一つになってしまったかのようだった、その刀を。

 脚がもつれ、倒れる。横に同じく倒れ込んだ太刀に、音を立ててひびが走り。ぼろぼろぼろと刃がこぼれ。それはもう、二度と振るえないほどに朽ちていた。

「あ……」

 斬った。斬ったのだろう、千人目を。妖刀の呪いが解ける、最後の人を。呪腕を。

 初めて見るもののように自分の手を見る。柄も鞘も、何も持たない手を。動きを確かめるように握ってみる。

 それから今更のように気づく。呪腕を斬ってしまったのだと。

 呪腕が裏切ろうとしていたのか、あるいはそうではなかったのか。そんなことはどうでもよかった――斬ってしまった、呪腕を。

 風斬りをあれほど気づかってくれていた、呪腕を。呪いを解く方法を共に探そうと、約束してくれた彼女を。




 呪腕は目を瞬かせていた。白く薄くなりゆく視界の中、自らの血が広がっていく地に伏し、自分の腕を眺めていた。魔力によって構成した、電光の塊のような右腕を。

 奥の手を使うはずだった。父を殺した後しばらく経って、新たに身に刻んだ魔方陣の呪法を。それは彼女の肉体で唯一空いた場所、爆ぜた右腕の根元。その傷が塞がった跡の、よれた皮膚に刻んでいた。

 不得手な『治癒』の魔導。彼女にあまりに不向きなそれは、治癒の力を使うと引き換えに、彼女自身の命を削るような代物となってしまったが。それを、二人に使うつもりだった。そうして、逃げて欲しかった。

 そして、使えなかった。

 呆然と呪腕の顔を見下ろす、風斬りの顔を見上げた。最期の力で頬を持ち上げ、微笑んでみせようとして。

 気づいた、自らの右腕、魔力で構成したそれは。制御を失ったとき、魔力を留め切れずに爆ぜる。

 逃げろ、そう発音できた自信はないが。右腕をどうにか、自らの体の下へと押し込む。




 爆ぜた、呪腕の体は。風斬りの目の前で。

 立ち尽くす風斬りは、辺りに舞う血肉の霧を見上げていた。口を開け、力なく両手を垂らしたまま。

 膝を地についた。もう、体を支える野太刀は無かった。

 気づけば、何か叫んでいた。体の底から、声にもならない叫びを、とめどなく上げ続けた。

 人の声よりどこかそれは、風の鳴る音に似ていた。




 英雄はただ口を開けていた。呪腕の爆ぜ飛ぶ様と、風斬りの歪んだ顔を見たまま。まるで吹き荒れる冬風のような、風斬りの叫びを聞きながら。

 何もできなかった。薄汚れた手袋に包まれた手で握った剣、魔王に向けて構えていたその切先はもう、地についてしまっていた。

 英雄と同じ方を向き、魔王がつぶやく。

「戻った先から壊れる、か。哀れな」

 そして魔王は眼を閉じた。両の眼を。額の眼、未来を視るというそれだけが、遠くを見るように開かれていた。

 斬りかかることのできる隙だと、英雄の頭のどこかが考えたが。腕に込めようとする力は、端から端から消えていった。呪腕の血肉散る宙と、そこに響く風斬りの叫びの下に。

 魔王が額の眼を閉じ、右の眼だけを開く。過去を視るというそれを。そうして、口を開いた。

「どうだね、英雄。取引をしよう」




 ――さても……さても。案の定と申しますかな、ろくな結果にはなりませんでしたなあ、この英雄殿。

 え? 魔王めが言う、取引とは何なのか、と? それはでございますね――おお、それよりも。すっかり失念しておりました、お客様ご所望の品、お目にかけておりませんで。

 さ、こちらでございます。『神誓英雄剣』。ずいぶん汚れ、傷ついてはおりますがね。それでもご覧のとおり、鞘越しにすら神気を立ち昇らせて……おや、どうなさいました。随分顔色がお悪い様子……そんなに、震えて。

 そうそう、ついでと申してはなんですが。こちらもご覧いただきましょうか、英雄の剣と共に伝わる剣。『少年の希望』とでも号しましょうか。……そら、抜いてみても何の変哲もない。多少古びただけの、どこにでもあるような剣でございますが。

 ……おや、どうなさいましたお客様。そんなに震えて。いっそう、震えて――。


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