第17話 宴の夜

 大きく開いた黒檀の窓から、夕暮れ間近の冷たい春風が吹き込んできた。風に乗って、王都の人々のざわめきが、宮殿奥のこの私室まで届く。


 鬼羅きらが軽い気持ちで言った「戦勝の宴を」、という話は段々と大掛かりになっていったようで、いつの間にか、都を上げての祭事になっている。鬼羅は、机に広げた大きな地図から目を離すことなく、その賑わいを無意識に聞いていた。不意に、扉が軽く叩かれる。


「失礼します、鬼羅様」


「ん? ああ、きょうか」


「また扉が軽く開いておりますよ。不用心な」


「ああ、すまない。またやってしまった」


「子供の頃から変わりませんね。そういう雑なところは」


 侠は冷静に言いながら、扉を閉めて部屋に入って来る。鬼羅は不満そうに腕を組んだ。


「仕方ないだろう。もう一生直らないさ、きっと。ところでお前、どうしてこんな所にいるんだ。祭りに行ったんじゃないのか」


「あなたが行かないのに、一人で行けるわけがないでしょう」


 と言って、侠は向かいに腰かけた。鬼羅は呆れたように肩をすくめる。


「相変わらず真面目だな、お前は。別にこちらは構わないのに」


「……近隣一帯の地図ですね。次はどちらに向かうご予定で?」


 侠は、鬼羅の言葉など無視して地図を覗き込んでいる。鬼羅は何かを言おうと口を開きかけたが、諦めた様に、侠に向かい合う。


「……そうだな。まずは、焔と瑞の動きを見ておかねばならないな。瑞はともかく、焔は、あの東仁とうじんのことだ、このままでは済まさないだろう。瑞から手を引いたと見せて、急襲するか……他に何かしらの手段を使って、瑞を手にしたがるはずだ。慈英とかいう王子がどう動くか分からないが、確かあの男は、焔と近しい関係だったはず。花月女王は父親の国策を継いで中立の立場を取っていたはずだから、こちらの敵となる心配はなかったのだが」


「女王は今どこでどうしてらっしゃるのでしょうね。生きていらしたらいいですが……彼女は、あの時、同盟を拒否した我々を恨んでいたりしますかね」


 侠が呟く。それは鬼羅もちらと思ったことだった。あの時、瑞と同盟を結んでいれば、未来は違ったのだろうか。だが、下らない哀れみで、国策を動かすわけにはいかない。


「……いや。彼女とて、一国を預かる身。もしも自身の不幸を他国の責任にするような半端な覚悟の人間だったとしたら、彼女の王としての命もそれまでだった、ということだ」


「ふふ。鬼羅様らしいご返答で安心しました」


 侠は笑顔で言い、腕組みをした。


「それにしても、焔が瑞を手にすると、厄介ですね。今のうちに潰しておきますか。焔から来ていた王女も昨日送り返したことですし」


 鬼羅は腕組みをして考えながら言う。


「……いや。ひとまずは様子を見よう。瑞の動きが分からない以上、下手に焔に手を出すのは危険だ」


「分かりました。まあ、こちらは、焔以外に国境を接している二国を統合したばかりですからね。そう欲をかくこともありませんが」


「ああ。先日の、おとごうの勝利は大きかった。乙はともかく、豪はかなり広大な領土を持つ国だ。ここを落としたことで、その先に視野が広がった。豪に隣接する三つの国々のうち、既に二国は、こちらへの従属を打診してきている。あとの一国がどうなるか……外交寮の奴らの腕の見せ所だな。無駄な戦は可能な限り避けたい。罪のない民が犠牲になるのは、いくら大義のためとはいえ胸が痛む」


 鬼羅の言葉に、侠が重々しく頷いた。


「仰る通りです。……そういえば、先日の雑兵ぞうひょうの件、鬼羅様の対応はご立派でした」


「ああ、あの豪の時か……」


 豪の国を攻めた時。暁に所属する兵達が、通りがかった豪の小さな村で、略奪暴行を行っているのを鬼羅は目撃したのである。鬼羅は烈火のごとく怒り狂い、その場で彼らを斬り捨てた。一瞬の出来事だった。


「あれは、兵達へのいい見せしめになりました。あれ以来、彼らはあなたの逆鱗に触れるのを恐れて、かなり行いが良くなったそうですよ。先日、兵部寮の高官が言っていました」


「……暁は、人の心を忘れた無法者国家ではない。矛盾しているようだが、我々が戦を続けているのは、『戦のない世』を実現するためだ。そうだろう、侠?」


「はい。鬼羅様なら、きっと実現できます。どこまでも、お供させて頂きますよ」


 扉が再び叩かれる音と共に、「おーい、鬼羅、いる?」という声が微かに聞こえる。


みなとか? 入れ」


 鬼羅の言葉に、「よっ」と手を上げながら、湊が入って来た。


「あれっ、なんだ、侠もいるのか。二人とも、何してんの? 祭り、行かないの?」


「お前こそ、祭りに行ったんじゃないのか。なぜこんなところにいる」


「鬼羅の姿が見えないから。また部屋に籠ってなんか考えてんのかなって。ほら、いいもの持ってきてやったぞ!」


 と言って、湊は懐から何枚かの紙を出し、鬼羅と侠の前に自慢げに突き出す。


「見ろよ、王都の絵師から買い取った、踊り子たちの美人画だぞ! な? 可愛いだろ? ねえ、鬼羅は、どの子が好み? 俺は、この真ん中の子かな! ともえの国出身らしいけど、見ろよ、すげえ胸がでかいだろ!」


 民政寮の官吏が招いた楽団の話は、あっという間に王都に広がり、民たちは噂の踊り子たちが見られる、と色めき立っていた。楽団はこの辺りの国を回っているようで、民の間ではかなりの人気があるらしい。


 だらしない顔で話している湊に、侠が冷たく言った。


「鬼羅様が、こんな流れ者などにご興味を抱くはずないだろう」


「あっ、またそうやって! お前ちょっと真面目過ぎるぞ、侠! いいじゃん、別に。鬼羅だって、たまにはこういう女の子と遊びたいよな? ほら、この子なんてどう? ちょっと年増だけど色気があるよ」


 と言って、湊は一人の画を鬼羅に差し出す。鬼羅は呆れたように首を振った。


「なら、お前が狙えばいいだろう。こちらはただでさえ後宮のことで頭が痛いのに、踊り子と遊ぶ余裕など無いぞ」


「あ、後宮の女達、国に返しちゃったんだってね! 主計寮の高官が文句言ってたよ、王女達に慰謝料分捕られた、って!」


 侠が眉を寄せて湊の頭を小突いた。


「いい加減にしろ、湊。お前はちょっと礼儀がなさすぎる。鬼羅様が寛大だから許されているようなものの、もうちょっと自分の主を敬え」


「仕方ないよ。俺の里では、そういうの習わなかったから。俺ちょっと変なんだよ、きっと」


 湊は困ったように首を振った。この青年は、どの国にも属さない、山奥の隠れ里出身の青年だ。十年ほど前、通りかかった山道で行き倒れていた彼を鬼羅が拾ってきて、それ以来、鬼羅に異常に懐いてずっと傍にいる。まるで親鳥を慕う小鳥のようだ。侠が言った。


「安心しろ。俺が、礼儀と言うものをみっちり教育してやる。覚悟しておけ」


 そして、主である鬼羅に向き直って言った。


「さて、正殿に向かいましょうか、鬼羅様。そろそろ、高楼こうろうより、民に顔見せをして頂くお時間です。本日は宮殿の黎明大門れいめいだいもんを開放していますから、前庭は大混雑でしょうね。皆、国王陛下のお出ましを楽しみに待っているかと」


「そうか。では行こう」


 鬼羅は席を立ち、金の縁取りをした黒い上衣を羽織る。侠が彼の傍らを歩きながら言った。


「それから、本日は夕餉ゆうげの後、玻璃はり殿でんの前庭にて舞をご鑑賞予定です」


「ああ、例の踊り子か。楽しみだな」


「はい。今宵は初日ということで、宮廷の高官のみが観覧予定です。明日と明後日は、都の方で一日数回に分けて舞を披露するとのこと。それでも、民の間では鑑賞券の奪い合いらしいですけどね」


 彼らは話しながら、正殿へと向かう。早春の夜風は冷たかった。ふと、ひらり、と白いものが鬼羅の目の前に落ちて来る。咄嗟に手のひらで受けると、それは、桜の花びらだった。


(桜……? ああ、玻璃殿の前庭に一本ある、早咲きの桜か)


 鬼羅は、なぜか、あの桜舞い散る瑞の庭園を思い出していた。先ほど、行方不明の女王の話をしたからだろうか。鬼羅は、手のひらの上の、白い花びらを見つめる。


(花月、か……。あの娘が成長した姿を見たかったものだが……いや、何を下らないことを)


 回廊から、玻璃殿の前庭に楽団が集まっているのが見えた。夜の舞台の準備をしているらしい。だが、回廊を正殿へと急ぐ三人は気づかなかった。その楽団の中で、地味な上着を着こんだ怪しい人影が一名、鬼羅の姿を見つめていたことを。



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