第8話 兄妹

 花月の言葉に、皆は沈黙した。慈英が花月を憎んでいることは、宮廷では周知の事実だった。


 兄・慈英の母は慈円の正妻である。花月の母は慈円の側室だ。それが慈英は気に入らなかった。というよりも、慈英の母が、花月の母、そしてその娘である花月を、憎悪していたのである。自分より若く血筋も劣る側室を夫が寵愛するのを、彼女は許さなかった。花月の母は、花月が幼い頃に病で亡くなっているが、後宮の女官達は、慈英の母に毒殺されたと随分長く噂していた。その正妻も既に故人で後宮も消滅しているので、真偽はもう永遠に闇の中だ。ひさぎが、遠慮がちに言った。


「花月様には、何の落ち度もございませんよ。あの王子は、幼い頃から母君の歪んだ教育を受けられておりましたから。第一夫人は少し、その……気性の激しい方でしたからね」


「……私も小さい頃、よく怒鳴られていた気がするわ。もうあまり思い出せないけれど」


 その頃の記憶は、実際、あまり思い出せなかった。考えて見ると、よくここまで生き永らえて来たものだ。母と共に葬られていてもおかしくなかったのかもしれない。花月は言った。


「とにかく、兄上をこのままにしておくわけにはいかないわ。と言って、兄上が焔の宮殿にいることが断定できない以上、表立って抗議するわけにも……」


「陛下。ここは、この楸にお任せ下さい。私共折衝府は、先方の外務院と、細くはありますが裏の繋がりがございます。東仁とうじん零玄れいげんを登用してから、瑞と親交のある官吏は役を外されることが多くなりましたが、それでも、我が慈円国王に密かに敬意を持つ官吏はまだ幾人か残されておりますから。外務院の上層部に密かに話を通し、慈英王子について探りを入れてみます」


「助かったわ、楸! 兄上の状況が分かったら、国として正式に、焔に身柄の引き渡しを申し入れる。本当にありがとう。あなたが長官で、本当に良かった」


「畏れ多いお言葉です。折衝府にて至急調整致しますので、暫しお待ちを……」


 ひとまず朝の評議はそれで終わり、午後は各府から、現在の状況の報告が続く。私室に戻った頃には、もうとっぷり日は暮れていた。頭がひどく痛むが、休んでいる暇はない。各府から上がって来た報告を読み漁る。


「……げつさま。花月様」


 後ろから掛けられた声に、ハッと身を起こす。桐が、心配そうに花月の顔を覗き込んでいた。


「お休みのところ申し訳ありません、花月様。ですが、そのような格好でお休みになりますと、お風邪を召されますわ。それに、お首も痛いでございましょう」


 桐が、気づかわし気な声を掛けてくれる。花月は、目を擦りながら呟いた。


「あ……私、眠っていたのね」


 報告を読んでいるうちに、文机に突っ伏して眠ってしまったらしい。桐の後ろに牡丹もいて、「花月様あ……」と心配そうに胸の前で両手を組んでいる。花月は、背中に掛けられていた毛布を掴みながら言った。


「……ありがとう、あなたたちが掛けてくれたの? 私、うっかり居眠りを」


「無理もありません。花月様はこのところ、お茶を飲む時間もない程の激務でございます。ほら、お目の下に、黒いクマが出来てらっしゃいますわよ」


 桐はそう言って、花月の頬に両手をそっと当てた。温かい手のひらだ。彼女は昔から、こうしてじっと花月の顔を見て、具合が悪くないか、さりげなく確認してくれる。花月はこの時ばかりは、幼い頃から本当の姉妹のように傍にいてくれる彼らに、つい本音を漏らしてしまうのだった。


「……私、疲れた……」


「ええ、存じておりますわ。ですから、ほら。牡丹から、差し入れがございますのよ」


 牡丹が、まん丸い顔をニコニコさせて、「はいっ、花月様!」と、盆に山盛りにされた橙色の果実を差し出した。花月は思わず歓声を上げる。


あけの実だわ! この季節に、こんなに沢山。すごい! 一体どうして?」


「父から、女王陛下に、って届いたんです! 私の実家は農家ですからね。何年か前から、冬でも朱の実を収穫できるように、って、近所の温泉から湯を引いて、小さな小屋を作ったんです。小屋は地熱で温められて、少しですけど、冬でも朱の実が収穫できるようになったんですよ。これはその第一号! 即位したばかりの女王陛下に是非、って。さっきあたしも味見してみましたけど、すっごく甘くて美味しいですよ! どうぞ、花月様!」


 花月は、牡丹が手渡してくれた朱の実を無言で受け取る。赤い夕陽のように熟れた果実を一口齧ると、甘い果汁が溢れ出した。笑顔でその様子を見ていた二人が、ぎょっと目を見開いた。花月の瞳から、涙が溢れ出したからだ。牡丹がオロオロして言った。


「花月様? あの、不味かったですか?!」


「……美味しい。とっても。ありがとう、牡丹。お父上にも、宜しく伝えて」


「えっ? えっ?! 花月様あ、あの、じゃあ、どうして泣いて……?」


「なんでもないの。ただ……嬉しかったのよ、みんなの気持ちが」


 花月は、涙を強引に拭って笑顔を見せ、果実を頬張る。


(桐も牡丹も。牡丹のお父さんも。橘も、楸も……みんな、私を思ってくれる、助けてくれる。怖いけど、どうしていいか分からないことばかりだけど、私は、私に出来ることを、精一杯やるんだ)


 花月は、二人が「花月様……」と瞳を潤ませる中、大好物の朱の果実を笑顔で食べる。赤い実の汁が飛び散り、畳の上に不吉な染みを作ったのにも気づかずに。

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