第7話 朝顔の庭

 渉と奈美子の不貞はあっという間に親戚中に広がり、会社関係、友人関係にまで知られることとなった。

 奈美子は百合香が言いふらしたのだとあちこちで喚いたらしいがそれは同時に奈美子が不倫していたと自身で触れ回る事になっていたのだから皮肉なものである。


 おかげで離婚調停が有利に進められたと離婚を契機に本社栄転が決まった亨が引越しの挨拶に訪れた際に言っていた。

 なんでも亨の会社での懇親会に連れて行った際、奈美子の失礼な言動や、既婚者へ擦り寄っていた事があったらしく、品位に欠ける妻がいる事が出世の足枷になっていたのだとか。


 奈美子は最後まで慰謝料は女が貰うものだとゴネていたが調停員と弁護士が根気よく分かりやすく説明すると最終的には大人しくなったそうだ。

 早く奈美子と縁を切りたいと亨は慰謝料の一括払いを希望したが当然奈美子に支払い能力は無く、財産分与から慰謝料を貰う形になったらしい。

 百合香からの慰謝料の請求は奈美子の両親が立て替えて支払われた。

 全てを失った奈美子は実家に戻ったがそこには兄夫婦が同居している。

 聞けば兄嫁の皐月はなかなか気が強いらしくチクチクとした奈美子の嫌がらせに反撃し、奈美子が出て行かなければ子供を連れて離婚だと新たな問題が持ち上がっているのだと言う。

 

 一方、百合香は渉とは離婚しなかった。


 百合香の両親や渉の両親、親戚や友人も周りは百合香に離婚を勧め、常套句のように「他にもっと良い人がいる、何故そんな奴が良いのか分からない」「幸せになることが最大の復讐」だと言ったのだった。


 しかし、百合香の考えは違う。


 百合香が何故渉を愛しているのかなんて誰も分からなくて良いのだ。むしろ分られたくはない。

 渉を愛しているからこそ、奈美子に奪われたくなかった。渉が他の人と一緒になるなんて許せないのだ。


 もし、百合香が違う幸せを見つけたとしても何処かで渉も奈美子も幸せになるかもしれない。そんなことは耐えられない。

 同じ苦しみを味合わせたい。罪悪感に苦しむ姿を見たい。その姿を見下ろすことが百合香にとっての最大の復讐。

 

 百合香は渉を愛している。そんな百合香を裏切った渉への風当たりは不貞を明らかにした日から半年経っても弱まることなく、渉は常に侮蔑の視線を受け続けながら生活を送っている。

 日々疲弊して帰って来るそんな渉を百合香は優しく迎えてあげるのだ。


「百合香」


 呼ばれて百合香は振り返った。

 

「こんなところに稲荷神社があったなんて知らなかった」

「ここは私が苦しかった時、助けてくれたお稲荷さんなの。これまでのことを報告していたのよ」

「⋯⋯ごめん百合香⋯⋯」


 表情を曇らせる渉に罪悪感を忘れさせないように、渉を受け入れているかのように百合香は微笑む。


「ここで出会ったおばあさんにも報告したかったのだけれど⋯⋯あら? これは朝顔の種?」


 狭い境内を見回した百合香はいつも老婦人が座っていたところに置かれた「ご自由にどうぞ」と書かれた段ボールに目を止める。

 そこには朝顔の絵が描かれた小袋が並んでいる。

 一袋手にした百合香はじっとそれを見つめ、大切そうに胸に抱えた。


 実際、奇跡を与えられたのだから不思議なものは存在する。

 もしかするとあの老婦人はお稲荷さんだったのかも知れない。百合香は何故かそう思い至った。


「渉、手を繋ぎたい」

「っ、大丈夫か?」

「手なら大丈夫よ」

「あり、が、とう⋯⋯」


 嬉しさと後悔が滲んだ渉が恐る恐る百合香の手を取る。

 一瞬、百合香に嫌悪感が走るがそれを抑えて渉の手を握り返す。


 百合香は渉を愛している。その気持ちに偽りはない。けれど、同じ手で、同じ身体で奈美子を抱いていたのだと思い出させられ、あれから渉に触れられることが苦手になった。

 

 これは渉への復讐なのだ。渉が触れるのは百合香だけ、渉には百合香しかいない。

 なのに、触れたいのに触れられない。

 百合香に触れてもらえるまでずっと罪悪感に苛まれ続ければ良い。


「帰ったら蒔いてみましょう。庭に毎年朝顔が咲くように」


 百合香の言葉に渉は目を見開くと嬉しそうに笑った。

 この笑顔は私だけのもの、誰にも渡さない。

 渉の笑顔を独り占めして百合香も笑い返した。


 朝顔の種は夏に芽吹く。

 百合香の望み通り、毎年庭の片隅には蔓を伸ばした小さな朝顔が咲くのだろう。


「こんな事を言う資格も信用もないけれど⋯⋯信じてもらえるまで何度でも⋯⋯百合香を愛しているのに、百合香を悲しませた俺を愛してくれてありがとう。百合香、愛してる」


 渉は百合香の笑顔に涙を溜め、そう囁いて繋いだ手に力を込めた。


 後悔に苦しむ渉のその表情に百合香は歓喜に涙を溢れさせた。


「私も⋯⋯愛してるわ──渉」


 決して百合香は渉を許してはいない。これからも許すことはない。

 百合香は蔓を伸ばし渉の全てを絡め取る。

 二度と逃すつもりもない。


 百合香に許しを乞い、百合香しかいないと縋る渉を見下ろす時、百合香は最高の幸せを感じるのだ。


 それは渉は知らない知ることのない百合香の復讐。


 百合香の心の中に蔓を伸ばした朝顔が咲く庭が広がった。









********************

◾️フォロー、★評価、❤︎応援とても励みになってます。本当にありがとうございます。


読んでいただきありがとうございます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朝顔の庭 京泉 @keisen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ