第20話

「ふう、一旦これくらいにしておきましょうか。一度イレイナと合流して背負いかごに採った分を入れさせてもらわないと」


(まだまだ採れそうですし、いっぱい薬が作れますね)


 キュエルの言う通り、群生地には採り尽くす云々の話の前にかごが一杯になってしまうくらい採ってもまだまだ大量に薬草が生えている。


 こんなことなら背負いかごの方を渡された方が良かった。


 恐らく、イレイナはこの森に慣れている自分の方が採れると思ってこのかごを渡してきたのだろう。


 まあ、そんな大したことではない話は置いておくとして、別れてからそれなりに時間も経ったことだし、恐らく彼女も十分採れているはずだ。


 その分と合わせれば必要な量を既に採り終えているかもしれない。


 もし、イレイナがあまり採れていない様ならここに連れてくれば良いだけのことだ。


 とりあえず、色々考えを巡らせているより動くべきだと思い、立ち上がるとパキパキと音がした。


 音の出所はキュエルの膝と腰だった。


 若いキュエルの体とは言え、長時間の屈んでの作業は良くない負荷となり、凝り固まってしまったらしい。


 普段の様に浮いていられれば、もっと楽なのかもしれないが、それでは薬草に触れられないので採取が出来ない。


 痒いところに手が届かないとはこういうことを言うのだろう。


 とりあえず、まずは少しでも痛みを和らげようと体を伸ばす為に大きく背を反らすと、昨日と打って変わって雲一つない青空が目に入った。


 太陽は既に真上に来おり、燦々と輝く太陽の光が目に刺さる。


 多分、そろそろ昼食の時間だろう。


 クーっと可愛らしい声で鳴くキュエルのお腹の虫も同意している。


 イレイナがバスケットに昼食用のサンドイッチを入れていると言っていたので、合流したら食べることを提案しよう。


 そんなことを考えながら地面に置いていたかごを手に取った瞬間、絹を切り裂くような女性の悲鳴が耳をつんざいた。


 突然のことに一度は動物か何かの鳴き声かと思ったが、直ぐに違うと気付いた。


 この悲鳴に聞き覚えがあったからだ。


「この声はまさかイレイナ!」


 異常事態を察した自分は薬草が目一杯に入ったかごを放り出して声の方へと走る。


 折角採った薬草が散らばってしまうのがちらりと目に入ったが、非常時の今、気にしている場合では無い。


 ぬかるみや木の根に何度か足を取られながらも走り続け、邪魔な茂みを飛び越えた先には、腰を抜かして地面に座り込む青ざめた顔のイレイナがいた。


 彼女の視線の先には身の丈三メートルはあろう巨大な熊の様な獣が二本足で立っている。


 鋭い牙が見える口からダラダラと涎を垂らす様は、誰がどう見てもイレイナに落とし物を届けに来た心優しい獣ではなさそうだ。


 寧ろ、今にも目の前のご馳走に飛びつこうとしているようにしか見えない。


「おい、獣よ! こっちだこっち! 彼女はお前の餌じゃない!」


 このままでは頭からイレイナが食われかねないと思った自分は、どうにか獣の注意を彼女から外さねばと、腹から大きく声を出しながら飛び跳ねる。


 新たに現れた獲物に気付いてくれたのか、イレイナから視線を外すと獣はこちらを向いた。


「今のうちに下がって! 刺激しないよう静かにゆっくりとですよ」


 獣の注意がこちらに向いている内に少しでもイレイナに獣から距離を取らせる為に指示を出す。


 両手を広げて威嚇してくるこの獣の名は確か、イノシベア。


 口から生える鋭い牙と鉄並みに固く鋭い毛を持つ熊の一種で、この辺りの森の中で出会う生物の中ではトップクラスに危険な生物だ。


 並みの剣や弓では硬い毛に弾かれてしまい効果は無く、過去には軍の一小隊を壊滅させた記録もある程に強い。


 おまけに凶暴で雑食な為、しばしば森に入った人間が襲われる事件も起きている。


 だが本来はもっと森の深い場所を縄張りとしており、縄張りへの執着心が異様に強い為その範囲内から出ることはあまり無い。


 人間が襲われる事件の大概は知らずに縄張りに入ってしまった為に起きた悲劇だ。


 だから基本的にはこの辺ではまず出会う可能性は殆ど無いはずなのだ。


 そうで無ければイレイナは、いくら村人の為とは言え薬草を採りになどこなかったはずだし、例え危険を犯して来たのだとしても自分に忠告くらいはするだろう。


 ちなみにイノシベアの肉は多少クセはあるもののかなり美味で、帝都では入手の難易度も相まって高級食材として扱われており、上流階級向けのレストランなどで大人気らしい。


(イージス様、私たちも逃げないと!)


「そうしたいのは山々何ですが、それでは恐らくイレイナがペロリです」


 巨体の割にイノシベアの足は早く、ただの人間の足では数十メートルも行かずに追いつかれてしまうだろう。


 自分が憑依していて人間を超えた身体能力を発揮できる状態のキュエルの脚力ならば、上手く森の地形を利用すれば十分走って逃げることは可能である。


 何ならわざわざ走って逃げずとも、木に上って枝から枝へと猿のように飛び移って逃げれば、間違いなく逃げ切れる。


 流石に木登りはあの巨体では無理なはずだ。


 そんなことを考えながらもイレイナの様子を確認するが、怪我は無いようだが恐怖からか一ミリも動けていない。


 いや、例え動けていたとしても、自分はともかく鼻が効くイノシベアの執拗な追跡からイレイナが逃げ切るのは不可能に近い。


「こうなればやるしかないようですね。不用意に命は奪いたくないので逃げてくれるといいのですが」


 獣に向かって自分は硬く握った拳を構える。


 本当なら鎧と武器を出したいところなのだが、出す瞬間をイレイナに見られると困るのでそうはいかない。


(ナ、ナイフを使わないんですか)


 キュエルに言われてすっかりと頭から抜け落ちていた、ベルトに捩じ込むように挟んでいたナイフを鞘から抜いて逆手に構えた。


「怪我をしたくなければ縄張りへと帰るのです」


 腹に力を込めて、森中に響かせるつもりで獣へと警告する。


 まさか人間の言葉を理解するとは思わないが、大声に怯んでくれるのではと僅かな希望を込めて叫んでみたのだが全く効果は無く、寧ろより興奮させてしまったのか咆哮を上げて襲いかかって来た。

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