第拾玖話 死の灯台
モスクワ上空で発生した黒雲は渦を巻き、勢いを無際限に増していく。気象衛星の観測結果を鵜呑みにするのであれば、最大瞬間風速は推定七〇~一二〇メートル。現状の直径はおよそ六〇〇キロで、未だ拡大を続けている。
地磁気は荒れ狂い、ノイズのような歪なオーロラがウラル・ヴォルガ防衛線各地で目撃されている。
昼夜のサイクルは消滅し、空は常に暗い。黒い光が影を差す大地に、どこまでも紅い不気味なオーロラ。さながら終末染みた光景が続く毎日に、兵士の士気は下がり続けるばかり。
ヴォルゴグラードなどの大都市では、最前線だというのに避難民で溢れている。ギリギリの物資でギリギリの生活を送り、美しさの欠片も無い兵士達と同じように、誰もが俯き暗い影を見ている。
今更ながらの厭戦ムードが防衛線全体に蔓延。兵士は気力を失って飯すら手に付かない者も多い。避難民達の間では遺書の執筆が流行り、毎日毎日首吊り死体が掘った穴に放り投げられ、イワシの缶詰のように折り重なって埋め立てられていく。
穴を掘り、死体を放り投げて埋め立てるのは避難民達だ。彼らは同胞の死体を埋める穴を掘り、同胞の死体を捨てるように穴へと投げて、それを埋め立てて。
そして、明日自分が埋まる穴を掘る。
「今日は何人死んだ」
「一七五人です」
報告を受けて、セルゲイは黙り込む。戦闘外での死者──自殺者が昨日から五〇人も増えている。明らかにおかしい。いくら絶望的な戦況とはいえ、あまりにも自殺者が多い。
ふと、空を見上げる。空には黒い光を放つ月が佇んでいる。あの光を見ると、どんどんと気分が落ち込んでいく。
あの黒い月が、この異常事態を招いているのは容易に想像できる。
「割合は」
「軍人が五二、民間人が一二三です」
「相変わらず民間人の方が多いんだな......」
これでは反攻作戦どころの話ではない。このままの状態が続けば、ロシアは簡単に自滅してしまう。黒い月の影響が世界中に及んでいるのなら、ロシアのみならず全人類が集団自殺で自滅しかねない状況だ。
いま必要なのは希望だ。居場所を失い、進むべき道を見失った彼らを導く灯台が必要だ。しかし、そんな都合の良いモノは存在しない。
勝利という言葉は無く、もっぱら防衛に成功しただの迎撃しただのばかりの毎日。人類は只々、絶滅という結末を遠ざけているだけに過ぎず、いつかは訪れるであろう破局から目を逸らし続けてきた。そのツケが、今まさに払われているのだろう。
延命治療ばかりで生かされているような毎日に、死神は静かに歩み寄り、死の鎌を振るう。もはや希望など、どこにも無い。
それでも諦めたくはなかった。せめて、せめて彼女達の活躍で勝利を手にすることが出来ればと。沈黙を貫くセルゲイは深呼吸をし、再び作戦を練り始める。
全人類に希望をもたらす為の作戦──灯台作戦を。
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おもちゃ染みた、軽いプロペラの音が鳴り響く。見上げた空には、小さく不格好な飛行機が飛んでいた。
「なんですか、あれ?」
ルカは飛行機を指差して、イヴァンナに問うた。
「ん? あぁ、無人航空機ってやつだ。アメリカが最新型を開発中だとか言ってたが、早速実戦投入か」
先が丸みを帯びた綿棒のような胴部、Y字の垂直尾翼に貧弱そうな剥き出しのランディングギア。どこかイルカに似た愛くるしさと、キャノピーなど持たない無人機特有の異質さが混ざり合っていて、不思議な見てくれだ。
空を奪われてからというもの、航空機の開発は停滞気味だった。だが、我が祖国は事情が違うらしい。有り余る資本と労働力を以てして、新たな航空機の開発を主導している。
あれは確かMQ-9[リーパー]とか言ったか。優秀なUAVらしいが、たかだかヘルファイアだかスティンガーだかを持たせた所で、
それでも新型のUAVを開発、運用しているのはどうにかして
実戦運用するにしても、戦術の模索、試験運用するにしてもコストパフォーマンスは抜群。使わない手は無いだろう。
「そういえば少年。昼飯はもう食べたか?」
「え、いや、まだ......」
「食べた方がいい。こんな状態じゃ食う気にもなれないだろうが、食べられるうちに食べておけ......一応、軍医として命令する」
「わ、分かりました......」
昼飯とはいえ、メニューは昨日と何も変わらない。ロシア軍のぬるく、やたらめったらに脂っこい戦闘糧食。欲を言えば、熱々のボルシチかシチューを食べたいところだ。
イヴァンナやサーリヤはともかく、ルカはまだ子供。昨日と今日と同じ、美味くも不味くも無い飯では食べる気も失せてくるだろう。訓練された兵士とて、毎日毎日戦闘糧食ばかり食べていては気が滅入る。
それでも、イヴァンナ達の部隊はまだマシな方だと言うのだから、嫌になる。他の部隊じゃ食糧の配給もおぼつかず、その辺の野草や獣を狩って鍋にぶち込んで、獣と泥と青臭いシチューを吐き気を堪えて流し込んでいると聞く。
「コーヒーも質の悪いインスタントばかり......まったく嫌になるな」
泥水みたいな味のするインスタントコーヒーを飲み干し、飲みたくもないのにまたコーヒーを入れる。
「それ、何杯目ですか?」
「さぁな。五杯は確実に飲んだ。それ以上は数えてない」
「身体に悪いんじゃ......」
「大人ってのはコーヒーが無いとやってられない生き物なんだよ」
適当にルカの心配を受け流し、イヴァンナは淹れたてのコーヒーを片手に国際新聞を読む。表紙を飾っているのは、ロシアの無差別核攻撃について。国際社会を味方に付けて、痛烈に、痛快に批判の文章が踊り狂っている。
CIAがアルカイダの名前を使ったせいで、中東には不穏な影が落ちている。ロシアに対する爆破予告で、世界各国はテロ対策の強化を表明。加えて中東諸国が裏で
日頃からやんちゃしているから仕方ないとはいえ、国際社会の中東に対する見方は厳しいものだ。事の発端たるアメリカは、これを好機と見て中東に対し牽制を強めつつある。こんな自作自演までして、中東の石油利権がよっぽど欲しいらしい。
だが、これは歪みだ。国際社会全体でパワーバランスの均衡が崩れつつある。たった一つ崩れてしまうと、一瞬で全て崩れていくのは世の常。あまり良い傾向では無い。
とはいえ、全ては愛するアメリカ合衆国が為。イヴァンナの全てはアメリカの為にあり、アメリカの為にのみ使われる。例え世界で孤立しようと、例え友と分かたれようと、例えその先に、破滅しか待っていなくとも。
ただ人一倍頭が良かった。ただただ人一倍、何かが欠けていただけ。
盛大に祝われて、甘ったるいケーキを平らげた誕生日も。
授業で書いた絵が、街のコンクールで最優秀賞を取った時も。
ハーバード大学で、学年主席となって演説をした時も。
心は満たされなかった。ただ目の前の情報を処理し、片付けるだけの作業。それが私の人生だった。何度も何度も、自分の頭の良さを恨んだ。だが、それももう止めた。
すべては祖国が為。すべてはアメリカが栄誉が為。それでいい。
私の人生は、アメリカが変わりに背負ってくれているのだから。
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「だ、か、ら!! 原子力発電所があと一つ必要だと言っていましょうに!!」
閑散とした作戦室で、机を手の平で叩きながらそう叫んでいるのはノルトフォーク。机上にはロシアの戦略地図が敷かれ、ロシア軍のありとあらゆる情報が書きこまれている。
ノルトフォークと共に作戦の立案をしていたセルゲイは、一歩も譲らぬこの女に呆れ果てていた。
「無理なもんは無理だ。ウリヤノフスクは最前線ということで稼働停止。いま稼働しているのはバラコボの原子力発電所。ウリヤノフスクを稼働させたとしても、莫大な電力を送るだけの送電設備はシベリアには無い」
送電設備は民間への電力供給を一時的に停止させ、民間用の送電網を駆使すれば或いは何とかなるかもしれない。だが、現状の国民にそれを強いることが出来るかと言えば、無理だろう。
「だったら新しい原子炉を建てればいいではありませんの!!」
「無茶を言うな!! 原子炉を建てるのに何年掛かると思ってんだ!!」
ノルトフォークは鼻息を荒く吹いて、葉巻を手から創り出して吸い始める。
「まったく融通が効きませんわね」
「融通どうこうの問題じゃ無いだろうが......」
セルゲイはため息を吐き散らし、戦略地図を睨む。
原子力発電所があと一つ。無いわけではない。
「......ノヴォヴォロネシュスカヤ・アエス原子力発電所」
「あら、やっぱりあるではありませんの。その何とかアエスはどこなんですの?」
セルゲイはピンを地図上に突き刺す。
そこはウラル・ヴォルガ防衛線より西。最も近いサラトフより、直線距離で実に四七〇キロ。敵支配域の奥深く、今や放棄されたヴォロネジ市街より南方。ドン川流域の原子力発電所。
「敵さんらのど真ん中じゃありませんの。動かせるのかしら?」
「そんなのは知らん。だが、ここが現状で最も現実的な三つ目の原子力発電所だ」
「賭けですわね。嫌いではありませんけれど、少し賭け金が高すぎるのではなくて?」
ノルトフォークの言う通りではある。ノヴォヴォロネシュスカヤ・アエス原子力発電所まで五〇〇キロの敵支配域踏破。準備期間は、陸軍の移動速度を加味して一ヵ月程度。敵の防衛陣地がどのようなものかは不明だが、敵を打ち倒して進撃すれば死の霧で進路を阻まれる。
加えて突破だけでなく、補給路の維持に原子力発電所の防衛と。かなりの戦力を必要とするだろう。されど、今のロシアにそんな余裕はない。
失敗すればおぞましい死体の山を築くだけ。得るモノは、絶望だ。
「............現状のウリヤノフスクと、バラコボの原子力発電所でどうにか出来ないのか?」
「無理ですわ。射程が伸ばせませんし、何より突入速度が足りませんわ」
ノルトフォークという何でもありのインチキ兵器。多少希望を抱いていたが、インチキにも天井があるらしい。
創造の顕現。何でも作れて、何でも生み出せる。ノルトフォークに掛かれば有機物も無機物も自由自在。正しく何でもアリ。だが、流石の創造神様といえど、三〇〇センチ越えのレールガンは相当難儀な代物らしい。
希望を求めた灯台作戦。名前だけ考えて、中身は真っ白だった作戦。だが、ノルトフォークが来てから白紙のパレットに色が着いた。されど、その中身は希望もへったくれもない杜撰で、荒唐無稽なものになってしまった。
その内容と言うのが、多弾頭核ミサイルのレールガンによる飽和砲撃。荒れ狂う黒雲のせいで、従来の誘導兵器では突入は出来ても目標へと到達できず。ウラル・ヴォルガ川防衛線へと投げ飛ばされる可能性もある以上、超高速を以てしてこれを突破する他無かったのだ。
モスクワへの投射手段としてノルトフォークから提案されたのが三〇〇センチ級のレールガン。そして、建造するだけで手一杯だからと電力供給はこちらに丸投げしてきたのだ。
二台では突入速度が足りず、弾頭を減らせば確実性に欠け、電力が足りなければそもそも射程が伸ばせない。どうあがこうとあと一台、足りないのである。
国際社会がこの作戦を容認し、協力してくれるかも不透明。それでも、現状の最善であることに変わりはない。
正直、再び核の力に頼らざる負えないのは悲しく感じてしまう。人類に希望をもたらす光が、森羅万象を焼き払う劫火であってはいけないのだ。それはもはや希望では無く、終わりの始まり。
希望とは道を照らす光だ。真っ暗な夜道で、向かうべき道を、道の先を照らしてくれるもの。されど、核の光は道を燃やしてしまう。閃光で道を照らし、道を燃やし示すのだ。
我々の命を焼き尽くし、道の終わるところへと。
それでも、これしか術はない。これが現状の最善。今を凌ぐ為の術。
近いうちにこのツケ──代償を支払うことになるのだとしても、少しでも長く世界を生かす為、未来を犠牲に
瞳を焼く閃光。木々を薙ぎ倒す衝撃波。命を燃やすメギドの火。
それが、我らが希望。我らが灯台。
我らの行く先を炎で照らし出し、道を燃やし終わりへと誘う、死の灯台だ。
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