第14話 コウ尚


 そして、運命の運動会当日。


 大人一人分くらい高さのフェンスで張り巡らされた施設にやってきた。

 しかし、筒の長いカメラを首にかけた宅浪は、校門の前で恐るべき失態を自覚する。


「運動会の参観は事前予約が必要……⁉」


 校門に立てかけられた説明文には確かにそう書かれていたのだ。


 もちろん宅浪は予約などしていないし、幼稚園に訪れたのも本日が二回目であった。

 他の親御は続々と受付口に行き、入場を済ませている。

 このまま入れないとなると、子供の参観に張り切って来たはいいものの、入れずじまいで哀れみの眼を向けられる可哀想な保護者という立場に。


「せっかく不自由な松葉杖から解放されたってのに……」


 一体、どうすれば……。


「どうかされましたか?」


 子守唄に適したような優しい声色が背後から聞こえてきた。


「あ、いや、自分は……」

「もしかして、予約をし忘れた保護者の方ですか……?」

「あ、はい! そうなんです!」


 勢いよく立ち上がるように返事をする。

 すると、沈黙が訪れた。正確には彼女の微かな笑みが零れたのだが。


「あ、すみません。あまりに誠実に答えたものですから」

「いえ、こちらこそ……すみません」


 もしかしたら歳は近いかもしれない、優しそうな人だ。気温的には暑さは絶えないが、夏も終わりが近づくこの時期に白いワンピースと白いハットを身に纏って着こなす女性はそういなさそうだ。

 それも子持ちの人妻と考えると尚更、童貞心をくすぐるというもの。

 背徳感に蝕まれながら、快感を覚える感覚を覚えさせてやろうか……ククク。


 ……こういう台詞、憧れてたんだ。俺。


「わたくし、児童を支える会の副会長をやっております、赤羽と申します」

「あ、ご丁寧にどうも」

「予約をしていなくても、受付でお子様の名前を言ってもらえれば大丈夫ですよ」

「そうなんですか? 助かります……」


 天使に救われたらしい。こっちが背徳感を覚えてきた。


「さっそく受付に行きましょう。わたくしも予約を忘れてしまったので」

「あ、そうなんすね」


 ちょっと安心。副会長でも忘れるなら仕方ないよな。


 校門前にある受付窓口に着くと、無愛想そうな職員が業務に従った口調で尋ねる。


「お名前を教えてください」

「えっと、わたくしは赤羽と言います。赤羽由里の母です」

「赤羽……赤羽……あ、ありました。はーい、通ってよろしいですよ」


 受付職員は手元にある書類に目を通すと、淡々と入場を許可した。

 予約の意義を伺いたいところだが、この程度の軽い審査ならありがたいところだ。


「そちらの方はお父様ですか?」

「ちがいます~」


 受付職員の疑問を二つ返事で否定する赤羽さん。


 いや、否定で合ってるけど? 出会って数秒で他人以外になれるわけないんだけどね?


「そちらの男性の方。お名前を教えてください」

「星石です」


 受付職員は手元にあるであろう書類を何度も捲って確認をする。


「……えっと、ご子息・ご子女のお名前も教えてもらっても?」

「女双子の星石です。サヤカとナヤカの」

「あー、あの双子さんの。サヤカちゃんとは仲良くしてもらってます~」

「そうなんすね。ども」

「通ってよろしいですよー」

「あ、あざっす」


 双子ね……。


 俺が中学生の時にもいたなぁ……双子なのにクラスが別々になって怒ってた親。

 俺は親じゃないけど、クラスが違うと授業参観とか片方しか見れないから面倒かもな。

 子供も子供で比較されるだろうし。


「校庭ってところで待ってればいいんですよね?」

「…………」

「赤羽さん?」

「あ、そうね。わたくしも校庭でレジャーシートを敷くつもり」


 うわー。まさにお母さんって感じ。たぶんママ友とかいるんだろうな。

 残念ながら、人妻とのワンチャンス出会い物語はここで幕を終えるみたいだ。


「それじゃ、ここまでありがとうございました~」

「え、あ……」

「知り合いとかいないですけど、校庭に行けばむ、む、す……娘たちがいると思うので」


 そう吐き捨てるように言った後、宅浪は軽いジョギングをしながらその場から離れた。

 手を振るのは良くないよな……? 一応、頭だけは下げといたけど。

 慣れないことはするものじゃない。正直、この時点で後悔の嵐が宅浪を襲っていた。


 もう、帰りたい……。


「あの、ちょっと待って!」


 慌てたような落ち着きのない声色が背後から聞こえ、宅浪の足は止まる。

 冷静さを欠いたその声の持ち主は、宅浪の腕を力強く掴んでいた。


「えっと……赤羽さんでしたか? なにかご用でしょうか?」


 女に腕を掴まれて引き留められるなんて初めてだ。

 もしかして……


 妄想セクハラ罪とかで訴えられないよな? ちょっと心配だ。


「よければ、ご一緒させていただいてもよろしいですか?」

「へっ……?」


 女性は宅浪の腕を引いてさらに距離を縮める。


「貴方とぜひ、親交を深めたいと思いまして!」


 背伸びをしながら、顔を近づけて好奇心に満ちた顔でこちらを見上げながら。

 しどろもどろに視線を泳がせる宅浪は、ひとまず違和感を指摘した。


「あーいや、えっと……赤羽さん、白い帽子は?」

「え……? あっ!」


 女性は露わになった黒ロングの頂点を確認するように何度も触り、周りを見渡した。


「風に吹き飛ばされちゃったみたい」


 照れるように微笑むその姿に、俺は夢を見た。

 こういう展開、嫌いじゃない。




 ※ ※  ※




「へぇ……。そうなんすね~……」


 宅浪は今にも消え入りそうな声でもらった紙コップを啜る。


「はい! ナヤカちゃんとは仲良くしてもらってるんです~。うちの由里と」


 一つのレジャーシートに座る赤羽さんは我が子の話題で持ち切りだった。


「へぇ~」


 それも相槌のレパートリーを増やしておくべきだったと後悔しているくらいには。


「わたくしの娘である由里は、挨拶もできてお料理もできるんですよ! もう子供ってなんであんなに可愛いんでしょうね~」


 相当な親バカであった。


「そ、そうっすね~……はは」


 期待……そんな妄想ばかり考えていた自分が惨めすぎて落とす肩も見当たらない。


 周りの親御さんから寄せられる視線も、自分には羞恥を膨張させるものでしかない。

 暗い部屋でキーボードを叩いているだけの人間が踏み入れてはいけない場所であることくらい、千人に千人が理解できる状況であった。


 せめて、あいつらどっちか一人が近くにいれば、気は楽なんだろうな……。特に姉。


「ねえ、星石さん」


 遠い目をする宅浪に赤羽さんは果敢に追撃をする。


「は、はい。なんですか?」

「ナヤカちゃんから由里のことはなにか伺っていますか?」

「あー、そうっすね~……」


 とりあえず考えるフリをする。

 先日話した一回きりしかまともに会話したことがないので他人の娘の話なんかは知ったこっちゃないというのが宅浪の本音なのだが、なにかしらの回答はした方がいいだろう。

 複雑な家庭環境と思われては面倒だ。


「すみません……ナヤカは家でも内気な性格ですから、あまり幼稚園のことは話したがらないんです」

「……あの、もしかして奥さんは……」

「いや、仲良いですよ! 円満な家庭です」

「あら、そうなんですか? 変に深読みしてしまって恥ずかしいですね」

「あはは……」


 他の言い方も考えとくべきだったな、こりゃ。


「では、娘さんと話していないとなると、由里が持参していたお弁当のこともご存知じゃありませんか?」


 お弁当? あいつ、パン一個じゃ物足りないからって乞食してたのか。


「初耳です。ナヤカは友達と外で遊ぶよりも家で本を読む方を好む寡黙で内気な子という認識でしたので……。この運動会もあまり前向きじゃないみたいで……困りますよね~」

「普段から外には出られないんですか?」

「ああー、たまには出ますけど、基本的には休日も家にいますね~」


 自分で墓穴を掘ってどうする。冷静になれ、冷静に。


「ナヤカちゃんは、本を読むのがお好きなんですか?」

「あ、はい。そうですね、僕が本をよく読むのでそれが似たのかな?」

「どんな本を? ぜひ参考にしたいです!」


 目をキラキラさせるな、『お兄ちゃんと〇ッチな〇〇漬け』を一晩中読み聞かせるぞ。


「大した本じゃないですよ、子供にも分かりやすい図鑑や絵本です」

「なるほど、に相談してみます……!」

「ああ、旦那さん」

「はい! 今日は仕事で来れないんですけど、わたくしがその分これで撮ります!」


 カバンからビデオカメラを取り出す赤羽さんはニッコリと屈託のない笑顔を見せた。


 ですよねー。

 クソッ。旦那さんのレジャーシート(席)、もうねえから!


 そんなこんなで人妻と他愛もない、

 宅浪にとっては後ろ髪を引かれるような話をしていると、徐々に人が集まり始めた。


 赤羽さんのようにレジャーシートを草原の上に敷いたり、野外で使うような折り畳み式の椅子を組み立てたりと、それぞれが愛娘息子を見守る準備を行っていた。

 ここで純粋な疑問が頭に浮かぶ。


 俺、このままここに居座ってもいいのか?


「赤羽さん」

「はい。どうかされましたか?」

「開会式っていつからでしたっけ?」

「9時からですね。もう少しで入場です」

「俺、本当にここにいていいんですか? その、いろいろとまずいんじゃ……」


 社会的地位の差に劣等感を覚えているのは間違いないけど。


「迷惑だなんて思っていませんよ。日頃から娘がお世話になってるお礼です」


 問題なのは、俺と赤羽さん以外の周りからの強烈な視線であって。

 貞操観念が欠如しているように印象操作されてしまうのが、なんだか申し訳なくて。


「それにここ、よく見えますでしょう?」


 木の下に敷かれたレジャーシートは木漏れ日を差し込み、眼前の女性も相まって穏やかで暖かな空気を形成していて、気持ちいいことこの上ない。そんな特等席。


「見えますけど……」

「遠慮しなくて大丈夫ですよ。他人の目なんて気にする必要ありませんから」

「は、はぁ……」


 赤羽さんは毅然とした面持ちで宅浪を促した。

 関係ない、とキッパリ言い切るほどの逞しさを備えたように。


「それよりも、他に訊くことはありますか?」


 だけど、その動物的本能はすぐに仮面を切り替える。


「いや、別に……」

「ナヤカちゃんのこととか、訊きたくないですか?」


 口元を歪ませて楽しそうに微笑みをこぼした。


「え、あ、まぁ……訊きたいです」


 赤羽さんは、ちょっとお節介で、我が強い人なのだと思った。


「由里って、ナヤカちゃんとは違って自己主張の強い子なんです。だから、交友関係も自分優先の子供たちとは上手くいかない時が多くって仲の良い友達ができなかったんです」

「え?」

「あ、ナヤカちゃんの話ですよ。わたくしが抱いているナヤカちゃんへの想いです」


 そんなこと、気にしてないけど。

 赤羽娘さんがそのまま母の血を受け継いでいて、想像しやすいと思っただけで……。


「由里は隠していたみたいだけど、ほら……授業参観とか今日とかも少し他の親御さんとの距離を感じるでしょう? それで、わたくし自身が察してしまって」

「あっ……」


 思い当たる節があった。

 たしかに、受付職員との接触も最低限だった。なにより、


 俺自身が一番危惧していた他の親御さんへの挨拶がまだ一度も赤羽さんに訪れてない。


「だから、お礼を言いたかったんです。由里と友達になってくれてありがとうって。後でナヤカちゃん本人にも言うつもりですよ」


 清廉潔白な人間しか吐露することが許されない、

 まごころを込めたような、そんな言葉の数々。


 所謂、心の底から出た感情。


「あんなに楽しそうに友達のことを話す由里を見たの、初めてで……本当に嬉しかった」


 親が子供に対して持つ不安という感情が消化しているのが手に取るように分かった。


「安心……したんですね」


 優しく瞳を閉じながら、静かに頷いた。


 あいつ、もうこっちに馴染んでるんじゃねーかよ。

 簡単にできてしまうあいつをちょっと恨めしくも思った。


「今日も娘とお弁当を作って来たんですよ。娘と考えて、ナヤカちゃんが嬉しがるような食材もたっぷり入れてきたんですから。小食なナヤカちゃんがちょっと心配ですけど」

「いつも、ナヤカのためにお弁当を作ってくれてたんですか?」

「ここ数日の話ですから構いませんよ。なにより娘が作りたいと言ってるものですから」

「あ、え……えっと……すみません」

「いいえ」


 宅浪がおどおどしながらも頭を下げると、赤羽さんは分かりやすいようにわざとらしく微笑みの相槌を打つ。いたたまれない光景の代表例みたいだ。


「だから、今日はナヤカちゃんだけじゃなくてお父さんも一緒にと思ったんです」

「え、俺ですか?」

「はい。こんな機会そうあるものじゃないですし、夫にも許可を頂いたので」


 俺氏、完全敗北。

 クソッ。旦那さん、幸せにしてやれよ~‼


「ということで、お昼、ご一緒してくださいね」


 赤羽さんは首を傾けるとわざとらしく目尻を寄せた。

 策士だな……年下だったらどうしようか。


「俺にはそんな資格、ありませんよ」

「なにか言いましたか?」

「いや……娘たちの晴れ舞台が楽しみだなぁ、と」

「ですね!」


 こうして、俺の妄想物語はワンチャンスもないまま、運動会の開会を告げるアナウンスは流れ始めた。

 いつもとは違う、身体を蝕むようなソワソワな感覚に同調するように心が高揚した。


 主に隣人のせいで。


 共聴アンテナから流れ出る流行のJ-POPが入場を過剰に煽りながら始まった運動会は、ひどく心地の悪い爽快感を感じさせるもので、同情したくなるような羞恥心を覚えた。


 主に自分のせいで。

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