第10話 再カイ


 残暑が照らす昼下がりの外。


「……あっ」


 浮かせていた右足が松葉杖にもつれて、間近に迫っていた玄関の扉に思わず手をつく。

 右脇に挟んでいた松葉杖が派手な音を立てながら地面に倒れた。


「……大丈夫か?」


 胸ポケットから聞こえる声は依然よりも憂いを覚える声色に聞こえた。


「……応援だけしといてくれ。ただでさえ重いんだから」

「前後の言葉が合ってないぞ。私が日本語を教えてやろうか?」

「俺は英語も多少なら……分かるぞ。義務教育の……勝利……だな」

「息が上がっているぞ。駅から歩いてきただけだというのに情けない奴め」

「何を……言っている。これはフェイク、嘘だ……。本物の俺は既に死んでるさ」

「夜な夜な病室で見てたアニメの影響か……。いつまで子供なんだ浪人は」

「と、とにかく鍵を出してくれ。俺のポケットに入ってるから!」


 仕方ないだろ。部屋と病室だと環境が違いすぎてやることないんだから。

 時間を潰せるプロだって、環境が違うと時間を浪費できないの。


「はぁ……少し待っていろ」


 サヤカが鍵穴に鍵を差し込んだのを確認すると、宅浪はすぐ鍵を回して玄関に入る。

 そして、玄関でくたばるようにしりもちをついた。


 暑さのせいか、運動不足のせいか、宅浪の息はたしかに上がっていた。

 しっかし、本当に九月になったのか? ここ数日はずっと変わり映えのしない気候だ。


「運動不足だな」


 胸ポケットから解放されたサヤカは、二週間ぶりの家を背中に生えた翅で駆け回りながら、捨て台詞のように一言、吐く。


 小さい身体で風を一心に受ける姿はなんとも涼しそうだ。


「まあ、体力がなくなったのは事実なんだよな。医者からも貧血気味って言われて……」


 そのせいで入院が若干長引いたというのも事実だったりする。


 生活習慣を整えろだの、好き嫌いをするなだの、それが大の大人に言うことかい。

 と、医者の話を耳から耳へと流しながら思ったが。


「その……貧血の症状はどういうものなのだ?」

「ようは血が足りてないってことだ。大体が精神的な乱れから生じるものだけどな」

「そういうこと……か」


 動きを止めたサヤカは思慮深く頬杖をついた。

 きっと、違和感を覚えたのだろう。


「蚊にとっては、そんなことないだろ。人間って不自由な生き物なんだよ」

「不自由だからこそ、欲しいものはハッキリしそうだけど」

「……もう、おねだりはするなよ? 俺、しばらくは松葉杖生活だから」

「安心しろ。二番目に欲しいものはいま着ている」

「それが二番目って……。まあ、一番は解決の糸すら見つからずだもんなー」

「一番の方が楽だと私は思っているがな」

「……ん? なんか言ったか?」

「いや。今日の晩飯はどうするのかと思ってな」

「とりあえず、部屋に行こうか。今日はピザでいいだろ」

「またピザか? あれは味が濃くて好まないのだが」

「楽だからいいんだよ。いま、ピザ半額だし」


 こんな生活がずっと続いてもいいかも、なんて甘い考えを持っていた。

 いいわけがなかったんだ。


 サヤカは蚊人で、俺は人間で、その前例を見てきたというのに。俺は……


 そして、その不安は予兆となり、形となって姿を現した。


「えっ……」


 二階に上がり自室のドアノブを捻ると、部屋の隙間から眩いほどの強い光が差してきた。


 その光は、一度目に当たれば焼き切れてしまいそうな、神秘的で不気味な後光。


 宅浪は反射的に光が漏れる扉を閉めようと、扉を押そうとした。


 しかし、扉を閉めることは叶わなかった。


 なぜなら、ドアノブを握りしめていた宅浪の右手が、右肩が、先ほどの光同様に激しく発光し出し、思わず腰を抜かして扉から手を離してしまったから。


 光に慄く宅浪とは裏腹に、手を離した衝撃で扉を刻々と開き始めた。


 部屋の中ではなにかを中心とした強い光が全身に押し寄せ、宅浪の右半身からもその光に呼応するように光は増大し、やがて光に遮られた。


 そして、微かに見えていた他の色彩はすべて真っ白に変わり、その空間を光で覆った。




 ※ ※  ※




 意識がテレビの電源のようにプツンと切れていたことに気が付いたのは目の前の光景を見てからだった。


 宅浪は意識が覚醒した後、ひとまず自分の身体を隈なく触った。

 しかし、光源だと思いこんでいた、右肩に乗っていたはずのサヤカは身体のどこを探し回っても見つからない。


 状況が何一つ掴めない。それも、いま目の前で起こっている大きな状況を補う情報が。


 宅浪の眼前で二人のまだ子供といえるような少女が全裸で熱い抱擁を交わしていた。


 一人は引き裂かれた姉妹のように強くしがみつくように抱きつき、その大きな愛と呼べそうなものを、もう一人が狼狽しながら抵抗せずにいた。

 前者の一人は髪を手で優しく撫で、母のように安堵した。


 そして、驚くべき発言をした。


「心配したよ、

「サヤ……カ?」


 思わず声が漏れ出た。


 俺の知っているサヤカはドールハウスの人形くらいには小さくて、けど所々大人びた一面を見せる魅力的な女性と認識していたから。


 でも、そのあどけない表情にも見覚えがあるような気がして、面影を感じた。


「貴公は……」


 強く抱きしめられたサヤカと呼ばれた少女は、いまだ状況が理解できていないのか、腕をぷらぷらと揺らしながら、居場所を探していた。


「……幼馴染の顔も忘れたの?」

「忘れたもなにも、私に人間の馴染みは……幼馴染?」


 サヤカと呼ばれた少女の顔に疑念が生まれる。


「W1204の二日違いで生まれた出来損ないの方といえばわかりやすいね」

「私の幼馴染、そして、その皮肉めいた口ぶり……」


 それは旧友との再会を心の底から嬉しく思う、彼女の顔で。


「もしや……ナヤカ、か?」

「正解。探したよ、サヤカ」


 二人は人目も憚らず、再び熱い抱擁を交わした。


 もう離さない。そんな意志が可視化されたような熱い抱擁を、二人は交わした。




 ※ ※  ※




「服、合いそうでよかったよ……二人とも」

「これは浪人の衣服か?」

「あ……ああ、二十年前のな」

「なんと。二十年前からこんなパンツスタイルのズボンを履いていたのか?」

「履き心地悪いか? ズボンに慣れればすぐだぞ」

「そういう、もの……なのか?」

「おう。ノーパンなら擦れると思うぞ」

「不埒者が」


 クローゼットにしまわれていた宅浪の衣服は今もなお健在であった。

 これで外に出ても違和感はなさそうだ。少しホコリ臭いけど。


 サヤカは子供用ジーンズの裾を引っ張ったりして、足元をよく窺っている。

 どうも、履き心地が気になるらしい。


 いやいやいや。

 それよりも気になってることが俺にはあるんですが。


「ところで、君ら二人は誰なの?」

「私はサヤカだ。見れば分かるだろう?」

「確かになんとなく面影はあるけど……どうして子供に」

「それは分からん。だが、これで隠れて話す必要はなくなった。そうであろう?」

「まあ、たしかに……」


 サヤカはやはり、幼稚園児ともいえるくらいの人間の子供になっていた。


 サラサラとした綺麗な黒髪に、頬が少し丸っぽくて、唇がアヒルのように飛び出して目がまんまるの幼な顔と両手で抱えられそうな小さくて華奢な身体に、高くなった声。


 変わっていないのは口調と性格だけ……それ以外はすべて変わっていた。


「なにか変か?」

「変なところしかねーよ! いきなり光ったと思ったら人間になって……」

「私の目的としては遠ざかったが、いまこうしてここにいることは奇跡だと私は思うぞ」

「だから、そういうことを恥ずかしげもなく言うな」


 大真面目に言うその表情からは不思議なことに数分前のサヤカと何ら区別がつかない。

 間違いなく、こいつはサヤカだ。


 だが、問題は……


「おっと……まだ浪人には紹介がまだだったな」


 サヤカの後ろで身を潜める少女。

 視線をやっても、一度たりとも目を合わせようとしない、無口な少女だ。


「……わたし、か?」


 少女は顔だけ出して、サヤカの顔を見て尋ねる。


「そうだ、ナヤカ。浪人に挨拶するんだ」

「わたしは……サヤカの幼馴染。ただ、それだけ」


 呟くように吐く、寡黙そうな少女。


 少女は身体をサヤカの方に向けたまま、無作法な礼儀を披露した。

 先ほどの感動の再会とはまるで人が違うように見受けられる。


「名前は? 社会の常識だぞ」

「名は、サヤカの言う通り」

「自分で名乗れ」

「人間に名乗る名はない」

「っ……」


 もはや、依存というレベルを超えている。母親に甘えるのは小学生までだろうに。


 宅浪はこみ上げてくる怒りを拳に抑えて、サヤカの後ろにいる少女に尋ねた。


「お前も人間だ。郷に入っては郷に従えってやつだと思うけど?」

「…………」


 少女は黙ると、不貞腐れるみたいにサヤカの後ろでそっぽを向く。


 我関せずの顔をしたいのはこっちなんだけどな~……。


「悪い、浪人。これは種の性なのだ。抑えてくれ」

「まあ、サヤカがそう言うなら……」


 抑えろ抑えろ。たしかに、サヤカも最初はこんなんだったはずだ……。


 宅浪は無理矢理に口角を上げて、質問を続ける。


「じゃ……じゃあ、ナヤカは何をしにここに?」

「幼馴染を連れ戻しに、ここに」


 悪びれる様子もないのが、腹立つな~。自己中っぽいな~もう。


「目的はそれだけか?」

「そうだよ、

「うるさい! サヤカの呼び名を真似しなくていい!」


 とんでもない言い間違えだからそれ。


「どうやって、ここに?」

「記憶はあやふや。光のせい……かも」

「光……? ああ、あれは何なんだ?」


 全身を覆うような激しい光。

 サヤカが蚊人になった時には少なからず発生していなかったはずだ。


「知っているのはそっち。私をこの姿に変えた理由と目的は?」

「知らない……のか」


 まるで、サヤカの時と同じようなことを言ってるな。

 しかし、そもそもの話がまだ解決していない


「一つ、普通に質問していいか?」

「嫌だけど、勝手にどうぞ」

「そもそもの話。ナヤカはどうして、俺の部屋にいるんだ?」

「だから、記憶が……」

「ここにどうやって来たのか、そんなことすら記憶にございません、なのか?」


 ナヤカの表情が一瞬固くなる。

 自分の記憶の曖昧さに気付いたのか、はたまた計画の穴に気付いたのか。


「ある矛盾点に気付いたんだよ。だから、俺の誤解を解いてほしいんだ」


 仮にナヤカがサヤカの知り合いで、蚊人になったとしても、俺の部屋にいていい裏付けにはならない。


 人間としての可能性……家の鍵は閉まっていたし、俺が不在でも母親はいた。二階の窓から入るのは猿でもなければ侵入することはできない非現実的。


 つまり、元々人間だったという線は薄い。


 そして、蚊としての可能性……血を吸ってから何日で蚊人になるのか条件は不明だが、少なくとも俺は二週間の間、病院に入院していて、この家にいなかった。


 ここから、考え出される結論は一つ。


「思い出してくれないか? サヤカがいつ、俺の血を吸ったのか」


 矛盾点。

 それを打破するには、俺以外の血液を持ってして蚊人になった方法しかないのだから。


「即興にしてはいい道化だな、浪人」


 サヤカが俺の二週間のブームを知ってか、口出しをしてきた。

 また小馬鹿にしてくるとばかり思っていたが、認めたか? 俺の才能に。


「いいだろ? ちゃんと筋の通った推理だ」

「だが、同時にその追及は意味をなさないことを私は知っているぞ、浪人」

「なに?」

「それが光を身に纏って以降、私も――記憶が曖昧なのだ」

「え……」


 サヤカは俺の推理をへし折る、逆転の一手を打った。

 宅浪もサヤカも、それが、良くも悪くも難解にさせると知っていた。


 宅浪は、反射的にいまさっき話した話題をもう一度振る。


「今日の晩飯は?」

「なにか作ってくれるのか? ピザは御免だが」


 確定だ、サヤカはさっき話したことを覚えていない。


 サヤカは嫌な顔せず、俺が料理するという考えられない未来まで想像した。

 完璧だったはずの推理が音を立てて崩れた瞬間……だ。


「それで宅浪から見て、ナヤカへの疑念は晴れたのか?」

「それは……」


 ナヤカという謎の少女の前に立つサヤカの言葉に、ツルツルの頭を悩ませる。


 蚊人がこんなにポンポンと出てきて世話をすることになるのなら、リスク云々の話ではなくなる。蚊人になる条件、発生源の情報を取得しないと……サヤカの安全はない。


 だが、記憶が戻ると仮定するならば、今は保留にしておいても……


「サヤカはナヤカの味方か?」

「……浪人も味方だと私は思っている」

「じゃあ、なんで庇うように立ってるんだよ。まるで俺が悪者みたいじゃんかよ」

「今の浪人は冷静じゃないと判断したからだ」


 サヤカは仁王立ちのまま、宅浪をまっすぐに見つめる。


「一度、状況を見つめ直した方がいい。ここにいるのはある日突然自分の身体が人に変化し、加えて前後の記憶が曖昧な混乱状態にある少女だ。浪人なら分かるだろう?」

「それは……」

「浪人より、怯えている少女がここにいるんだ。私に免じて抑えてくれないか?」

「ああ、悪かったよ……。俺も焦ってたところはあった」

「私たちがするべきは現状の把握と、今後の検討」

「そうだな。俺もそう思う」

「ほら、ナヤカも話すんだ」

「…………うん」


 コクリとナヤカは頷くと、サヤカにべったりとくっついたまま身体を出した。


 目線は明後日の方向、俺とは意地でも目を合わせたくないらしい。


「彼は勤労に勤しまず、賭け事を好みとして家計を切り崩し、母親の脛をかじって生きているどうしようもない社会不適合者だ。そう構えなくていいぞ」

「ちょっと。脚色してません?」

「母親の……脛をかじって?」


 だが、その脚色具合が少女の心に余裕を与えたのか、表情は若干豊かになる。


「ああ、そうだ。彼は一銭たりとも金を稼がないにもかかわらず、人に飼われる犬や猫のように癒しを与えるわけでもない、金を貪るペット以下の人間と言えるだろう」

「……分かった。サヤカが言うなら、そう認識する」

「認識するな。経験談、プライドが高いやつを怒らせると面倒なんだから」


 母親の共通認識がサヤカと一緒ならとんでもなく地位が下がったんじゃないか? 俺。


「それは誰の事だ、浪人」

「昔の話。お前らと同じで俺も記憶が曖昧だわ」


 ちなみにプライドが高いやつは、人の女に手を出すな。もよく言ってくる。

 楽しく談話していただけでも目を光らせたからな、あのサークル長は。


「わたしの願いを一つ叶えてもらうね、罪人」

「だから、罪人じゃないって。というか、なんでサヤカの金魚の糞に俺が従うんだよ」


 口出ししたのはこれまで黙っていたナヤカだったが、


「当然でしょ。わたしを敵視した罰だよ」


 今はすっかり、サヤカに乗るように調子が良くなっているようだった。

 まあ、敵視してなかったと言えば嘘にはなる……か。


「訊くには訊いてやるが、無理は言うなよ」

「わたしとサヤカを元の姿に――」

「悪いが、それは知らないしできない。今は情報がとにかく少ないんだ」


 即答の断りに、ナヤカは一瞬反論を示そうと頬を膨らませたが、サヤカの表情を見て悟ったように元の表情に戻った。


 だからナヤカを隈なく尋問してやろうと思った、は余計な火種になると踏んでいたから言わないでおこう。二つ目の頼まれごとを追加されそうだ。


「わたしとサヤカに好きなものを食べさせる、とかは?」

「それでいいなら助かるけど」

「んー、じゃあ……」

「ダメなのかよ」


 気まぐれな奴だ。


「――サヤカの断った願いを、もう一つ叶えること」


「「え……?」」


 言葉の意味を理解した瞬間、二人から同じ困惑の声が漏れて出た。


「強気なサヤカならきっと交渉してるはず。どちらかを叶えてくれって」

「たしかに……頼んだ。相変わらずだな、ナヤカは」


 たしか、サヤカの願い事はオシャレな服と……


「おいおい、そんなこと……」

「ありえなくないぞ、浪人。それは私が保証する」


 ここから一歩ずつ、少女ナヤカとの距離が縮まるとは思えない。


「だけど、外はリスクが……」


 けど、お互い友達の友達同士。


「容姿変わらない二人の少女が、社会に出てこない方が怪しまれるよね」


 やっぱり、関係性は変わんないだろうなと思いました。宅浪。

 俺を言い包めるのが得意すぎるだろ、こいつ。


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