第25話

 世那はグルグル回っていた。身体も視界も……。婚約披露パーティー直前、アリスを部屋に招いてドレスを預けると、次元を超える時空魔法に挑んだのだ。


 宇宙が歪んでいた。……ともすればカーズに連れてこられた時のように意識を失いそうになるのを、必死で想像し続けた。……大学病院の薄暗い廊下、レンが意識を取り戻した直後の帰りの情景を……。


 ――魔法の成否は、すべてイメージの精度の良否にあると思え――カーズの声もリフレインしている。


 薄暗い廊下が映像になる。ぼんやりと浮かんだのは、なんだ?……そうだ、あの時、入院患者を追い越した。髪の白い50代男性、……私が消えたのを見て、背後で驚いていた……。そこに、……出ろ!


 念を込めた時、ズンと重力を感じた。回っていた感覚は消えて宇宙が、視界が制止した。


 目の前にあるのは、病院のパジャマを身につけた髪の白い50代男性だった。口をポカンと開け、眼を瞬かせている。


「やった……」


 思わず声が漏れた。目的の場所、目的の時間にたどり着いた実感があった。念のために肩に下げたバッグからスマホを出して日付を確認した。


 間違いない!……だった。


 目の前の男性が目をこすっている。亡霊でも見たような顔だ。


「ごめんなさい」


 驚かせたことを彼に詫び、出口へ向かう。


 世那はローブの上にチェニックを着て朱色のスカートをはいていた。抱いているのは生きた黒猫。病院の中では、いかにも場違いだった。肩から下げたバッグと中身だけが、もともとこの世界のものだ。


 廊下、受付ロビー、……批判的な視線の中を小走りで建物の外に出ると、大きく深呼吸した。無事に着いた安堵と、強力な魔法を使った疲労感が全身を震わせていた。


「大丈夫か?」


 ボールが言った。


「シッ!……ここは魔界じゃないの。猫がしゃべったらいけないわ」


「しかしなぁ。レンに会っていかなくていいのか?」


「シッ……」


 抱いている腕に力を込める。


「ミャァー」


 彼が苦しそうに鳴いた。


「それでいいわ」


 今、レンと会ったところで「だれ?」と訊かれるだけだ。


 世那は駐輪場の物陰に隠れ、縮小しておいたモップを元に戻すと空を飛んだ。行先は自宅のあるマンションの駐輪場だ。……そこをイメージするのは簡単だった。そこに移動すると自室まで急ぎ足で歩いた。


 ――ふー、……古い空気を胸の中から吐き出す。自室に入ると、重い荷物を降ろしたような安堵を覚えた。


 使い古した食卓テーブル、安国が視ていたテレビ、くたびれたグレーのカーテン、……何もかも懐かしい。豪華な水晶宮と違って肌にフィットする感覚がある。魔界は生まれ故郷に違いないが、と思った。


「ここがセナ姫が育った家か」


 ボールがしゃべった。世那の腕から飛び降りると人型に戻る。その質量の変化は80倍ほどもあるだろう。


「物理法則を無視しているわね」


 世那好みの青年の姿に、嬉しくもあり呆れてもいた。


「さて、どこから探す?」


「え?」


「ヒイロ氏がセナを誘拐した理由を探すのだろう? そのために戻ったはずだ」


 いつの間にかボールは、世那を呼び捨てにしていた。


「ああ、そうね。戻ったら、安心してしまって……。探し物をする前にお茶にしましょう。少し疲れたわ」


 世那はキッチンに移動する。


「フム、……そうだな。俺はできたら酒がいいな。それがないならミルクを」


 ボールが食卓テーブルの椅子に掛けた。


 そこは安国がいつも座る席だった。そこにいるボールの瞳に亡き安国のそれを重ね、熱いものを覚えた。彼は誘拐犯だったが育ての親、いや育ての祖父でもあった。


「そうね、ホットミルクならあるはず……」


 何分、魔界で108日すごした。こちらの世界では昨日のことでも、キッチンロボットのメニューの記憶は曖昧だった。


「ねえ、AI、ホットミルクとグリーンティーをお願い」


『了解しました』


 応答があると、2分ほどで注文した飲み物が出来上がった。


「この世界にも魔法があるんだな」


 ホットミルクの入ったマグカップを手に、ボールが感心した。


「その機械なら、ワインやビールだって作れるんじゃないのかい?」


 猫舌の彼は、そんな話をしながらミルクが冷めるのを待った。


「んー、そうかもね」


 世那の返事は上の空だった。思い切って魔界を飛び出して来たものの、それが正解だったのかどうか、自信がない。父、ジャックの言を信じれば、この世界には悪魔がいて、霊界や魔界にまで悪影響を及ぼしているのだ。そんな世界に戻る必要があっただろうか?


 ある! ここにはレンがいる。彼を助けなければ。……思索は初心に至り、迷いを封じた。


 ――トン――


 ボールがマグカップを置いた。


「では、探そうか、お宝を!」


「お宝ではないのよ。おじいちゃんが隠さなければならなかったものなのだから」


「ああ、分かってるさ」


 2人は安国の部屋に入り、遺品のチェックを始めた。世那は彼のスマホと机の引き出しの中身を、ボールは書棚を調べた。

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